【コラム】技術者の視点(16)

国会事故調その後 ― 畑村委員長に聴く

荒川 文生


<政府事故調>

 福島原発事故から6年半、当時相次いで発表された事故調査報告書のうち、「政府事故調」を主宰された畑村 洋太郎 委員長のところに、科学技術ジャーナリスト会議の福島事故「再検証委員会」の委員8名が、その後の状況を踏まえご所見を伺いに参上しました。

 「政府事故調は、失敗に学ぶためには何を為すべきかが全く理解されないまま、膨大な資料の蒐集に終始して終了した。」というのが、畑村さんの無念の想いでした。これは「失敗学」に関する多くの著書や数多くの講演会の内容が、「物好きな人たちにしか届かなかったようだ」という些か自嘲的なお言葉の中にも聴こえましたが、実はその背後にあるものとして、日本の現状が示す政治的、社会的、さらには、文化的な欠陥に対する厳しい批判がありました。

◆ 1.日本人が体験した失敗

 畑村さんのご所見によれば、日本の技術は其の多くが海外から伝来したものであり、それらは失敗の経験を踏まえた上で完成されたものであった為、それらを受け入れる上でその本質的な部分での「失敗」を克服する方法を学ぶことは無かったのです。原子力発電に関しては、TMIやチェルノヴィルの事故が、その本質に関わるものであるという認識が不十分であったため、福島の炉心が溶融するような事故への対応を用意できていなかったという訳です。

 日本における技術の本質に対する問いかけは、太平洋戦争前後に於ける価値観の変化などを背景に、三木 清、武谷三男、星野芳郎等による思考や論争の深まりの中で、海外のそれに劣るものとは言えないものがあります。ただ、原子力技術に関しては、核戦略に関する国際情勢の中で、その本質論議が制約されたものになっていることは否めません。しかし、原子力技術の現場で作業する技術要員は、福島の事故復旧作業を含め最善の努力をして来たと言えます。
 技術者としての言い訳にはなりますが、福島の事故が齎した影響の大きさは、技術の範囲を超えて、政治的、経済的、社会的なシステムの範疇に拡大しており、国際的な状況を含め、そのシステムが21世紀に入り「制度疲労」を起こしていると指摘されています。その中で技術者は何を為すべきか、失敗から何を学ぶべきかが問われているのです。

◆ 2.失敗は恥ずかしいことか?

 日本のある会社で技術を担当する役員が口癖としていたのは「失敗は許されない」という言葉でした。それは彼の部下たちが、慎重な配慮と万全の準備とを以って仕事を進めることへの注意を喚起するものでした。しかし、技術には失敗が付き物です。そこで失敗が起きた時、彼は如何したでしょうか? まず部下には「安心しろ。責任は俺が執る。」と宥める一方で、一刻も早くその失敗を修復するよう指示しました。その背景には、失敗の修復が次の発展を齎すという事実への信念がありました。別の会社では、「落ち穂拾い」という言葉で、この信念を仲間で共有し、後世に伝えてきました。

 その一方で、この役員がやるべきことは、この失敗を当面内部に留め、その修復が成功した暁に、それを次なる技術発展の「成果」として公表することでした。世に言う「災い転じて福となす」訳です。これを「隠蔽工作」として批判することは易しいことですが、はたしてそれが「世の公正」を図る道かどうかは、別の価値判断もあり得ましょう。そのいっぽうで、失敗を犯したという自責の念に苛まれ屈辱を味っている「人間」に、次なる発展を目指して立ち直る機会を提供するうえで、この批判がいかなる効果を生むかも明らかです。失敗が、恥ずかしいことで済まされて仕舞っては、これに学ぶ道は極めて狭いものとなるでしょう。

 この役員の失敗への対応は、高度成長のなかでは有効に機能してきたと言えますが、安定成長のなかで情報化の時代を迎え、「隠蔽工作」など直ちに暴露されるようになると、そうも言っていられません。ただ、この役員が次に執った行動は、この会社の50年に及ぶ技術的成果を、「失敗の修復」を含め、詳細な事実として記録し、新しい時代を迎えるにあたり、この「歴史」から何を学ぶべきかを分析し、そこに「夢は困難を克服する。」とのメッセージを籠めて、技術史『先達に学ぶ』を編纂したことです。これは新入社員研修資料として、その後20年に亘り活用されました。そこに籠められたもう一つのメッセージ「歴史に学ぶことは未来に責任を担う事だ。」が、果たして次代を担う若者の胸に響いたかどうかは、更に20年経たないと判らないかも知れません。

◆ 3.過ちは水に流して許す

 失敗を恥ずかしいことで済ますことなく、その修復が次の発展を齎すという事実への信念に基づき、それを次なる技術発展の「成果」として公表するというのは、技術者仲間同士がお互いを守る手段でしかないという指摘には、それなりの妥当性があります。いっぽう、これは日本人が古来胸に抱いて来た大らかな文化的心情に根差す「過ちは水に流して許す」というものだという見方もあります。

 ここで「人災」と言われる福島事故に対し、誰もその責任を問われないという異常事態が惹起する理由は、「過ちは水に流して許す」という日本人の大らかな文化的心情にあるという指摘がありますが、本当でしょうか? 技術的に大きな悪影響を及ぼした事故原因と為る失敗を償わせる「業務上過失傷害罪」などは勿論、「武士道」にあるように人生の道に外れた行いに対して「切腹」と言った厳罰を課することが、公けにも、自己批判の行為としても、厳然として行われてきたという事実は、全ての過ちが「水に流される」ものでは無いことを示すものと言えましょう。福島事故が「人災」であるだけに、「その人」が罪を免れることにより自らの罪も免れる人々が少なからず存在し、彼等が「その人」の責任を問わないように図っているということは、最早公然の秘密と言ってよいでしょう。

 事実を事実として尊重すべき技術者が、その倫理観を正当に維持するうえで、このような現実を承認できないのもまた当然のことではあります。残念ながら、現状はそのような技術者の数が限られたものであることを示しています。先の畑村先生の御言葉を拝借すれば、「そのような物好きな人たち」の数が限られたものであるという事でしょう。

 ただ、未来に夢を抱かせるのは、例えば、電気学会などで策定された「倫理綱領」とそれに付随する「行動規範」に基づき、技術者倫理に関する「事例集」が編纂されており、各大学の教科書として活用されているという事実です。当面は、それを指導する世代が、幸か不幸か、あまり倫理を問われずに研究者や技術者の生涯を生きて来た為もあり、技術者倫理の本質に迫る教育を実践できていない憾みがあります。尤も、時代と共に倫理の本質に迫る経験を積んだ研究者や技術者が、その次の世代と技術者倫理に就いて語り合うように為れば、明日の日本に大いなる期待が寄せられます。

  失敗に学び花咲き世の栄  (青史)

 (地球技術研究所代表)

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