■回想のライブラリー(19) 初岡昌一郎


(1)

 ジュネーブに初めて行ったのは1971年4月、ILOの歴史上で初めて開かれた
公務員関係の正規の委員会、第一回公務合同委員会の時であった。これがその後
30年近くにわたるILO活動に踏み込む第一歩になった。
 この委員会は政労各16名の正委員とそれと同数の副委員から構成されていた。
日本からは全逓宝樹文彦委員長が正委員として選任されていた。宝樹さんは前年
の大会で委員長職を辞していたのだが、この委員はILO理事会による個人名での
選出なので、そのまま代表として出席した。私はアドバイザーの資格で随行し、
10日間にわたる全日程中、お願いしていた女性通訳と共に彼の同時通訳をつとめ
た。同時通訳の経験はほとんどなかったが、とりあげられている課題と議論の中
味にはその頃かなり精通していたので、なんとかこなすことができた。
 
 この合同委の中心的議題は「公務公共部門における結社の自由」であった。
 戦後期における国際的な労働組合運動の最も大きな特徴の一つは、官公部門に
おける労働組合の急成長であった。郵便や鉄道などの現業公務部門では長い労働
組合の歴史があったが、教員や地方公務員をはじめ、すべての公務公共部門で目
覚しい組織的発展があった。それは、戦後世界における国家の民主化と近代化に
つれてその経済的社会的機能が拡大し、公務員が戦前のように特権的な少数の官
吏層ではなくなってきたことを反映していた。また、人権と労働組合権の確立を
求める民主主義思想が世界的に定着してきたことにもよる。

 特に1960年代に入ると、戦後の各国における経済発展の成果が公務公共部門
の賃金や雇用諸条件に十分に反映されず、官民格差が拡がったために、その改善
を求めて官公労働組合運動は世界的に高揚していた。当時の日本で国際労働団体
に加入し、積極的な活動を行っていた全逓にいたわれわれは、このような世界の
状況をできるだけ把握し、日本の運動を国際的に結合させる方向を非常に熱心に
追求していた。これは、宝樹さんが去った後も変りなかった。むしろ、カリスマ
的指導者がいなくなったことが、国際活動を属人化から開放したかもしれない。
 ILOの場では、公務合同委員会は第二、第三回と継続され、懲戒とか交渉
や協議、第三者機関による仲裁などの課題もとりあげられた。しかし、近年
では政府側の抵抗が大きく、この委員会はこのところ開催されておらず、名
存実亡となっているのが惜しまれる。
 
 第一回公務合同委は、「結社の自由に関する決議」と共に、「官公部門にお
けるILOの将来の活動に関する決議」を採択した。これに基づいて、その後
郵便電気通信と教員の分野で、準産業別委員会的性格の合同委員会も創設さ
れた。しかし、前者の分野では、その後民営化の進展により、三者構成委員
会へと性格が変っていった。これらの公務関係の会議と郵電の委員会には、
PTTIを引退するまで労働側顧問としてその作業にすべて参画した。

 PTTIなど国際労働団体のILOにおける努力は、結社の自由と労働組合の
保護に関するILO条約87号および98号条約が公務部門に適用されることを
明確にすることに焦点を置いていた。この両条約は、労働基本権で官民の区
別をしておらず、全労働者に適用されるものであった。ヨーロッパのほとん
どの国においては、これは当然のこととされていた。しかし、先進国では日
本とアメリカに問題が特に存在していたし、アジアのほとんどの国を含め、
開発途上国全般においては公務公共部門への条約適用を除外している国や、
両条約の未批准国がほとんどであった。当時、PTTIにあってわれわれはその
ような闘いの先頭にたっていると自負していた。

 日本における総評、公労協によるスト権ストに先立って、1975年4月に
ILO公務専門総会が開催された。ノーマン・スタッグ『未来への挑戦』(日本
評論社、1987年)は、次のように二つのILO会議について書いている。
 「PTTI、PSIおよびIFFTU間の継続的協力が、この第一回公務合同委が
達成した成功に大きく寄与した。ニジンスキー書記長を労働側事務局長に、
全逓の宝樹文彦を労働側選出の副議長(注・会議議長は慣行として政府側か
ら)に、シンガポール合同官公労組(AUPE)のG.カンダサミ(PTTIアジ
ア代表)を起草委員に送り、PTTI加盟組合がこの委員会の討議に指導的な役
割を果たした」

 「(公務専門総会)でもまたPTTI加盟組合が指導的な役割を演じた。労働
側を代表する副議長に全逓の石井平治(注・当時の全逓委員長)が、労働側
事務局長にはふたたびニジンスキー書記長が選出された」
 「この会議のもっとも重要な決定は、ILO87号条約および98号条約が、
官公部門を含むすべての労働者に適用されるという宣言であった。・・・もう
一つの重要な決定は、公務における結社の自由と雇用条件決定の手続きに関
する国際基準文書の骨子」が採択されたことである。この文書の原案は、新
条約の基礎としてPTTI本部によって用意された。それは、公務職員の団結
権と、労働組合への公的機関の介入行為からの保護を定めていた」
 
 これらのステップを経て、1977年と78年の二回のILO総会の議題に「公
務における結社の自由と雇用諸条件決定の手続き」が上程されることになっ
た。そして同一のタイトルを付したILO151号条約が誕生したのであった。
 この両次総会の公務委員会においては、ノーマン・スタッグその人が委員
会副議長兼労働側グループ議長をつとめたのであった。彼はその前掲書で、
PTTIニジンスキー書記長がここでも労働側事務局長として「決定的役割を果
たした」と評価している。そして、「労働側の中核は多くの代表が出席した
PTTIグループであり、労働側は終始団結して行動した」と述べている。
 こうしたILO条約の立法過程に、私は労働側顧問として出席の機会を得た
だけではなく、PTTIニジンスキー書記長の補佐役としてほとんどすべての場
面にかかわった。それがその後のILOにおける私の活動にとって非常に役立
つ、かけがえのない経験と知識、そしてそれに劣らず大切な、労働側理事や
ILO事務局幹部・専門家達との信頼関係を与えてくれた。
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     (2)


 ILOの諸会議は原則として三者構成である。それは、政府、使用者、労働者の
それぞれが同数の代表権を持って会議を構成することを意味する。対等の原則と
同数代表権が三者構成主義の骨格をなすものである。日本などでは、政(公益委
員という名がよく使われている)労使の代表を入れた各種審議会があるが、ほと
んどのケースで労働側はごく少数の委員をしばしばお飾り的に割り当てられる
にすぎない。これは、ILOでいう三者構成主義とは似て非なるものである。
 ILOの三者構成主義にも重要な例外がある。それは、総会と財政委員会である。
総会は条約の採択などを行う最高の決定機関なので、条約の適用に責任を負う政
府に半数の議決権を与え、労使は四分の一ずつの議決権を持っている。またILO
予算は政府の拠出によるので、財政委員会は政府代表によってのみ構成されてい
る。

 海員関係も重要な例外で、海事関係の条約やその他の決定は、労使だけの二者
構成の海事総会と海事委員会で行われ、政府代表は入っていない。これが海運関
係の労働問題のルール設定について労使に当事者能力を与え、ひいては労使が強
力な国際団体を作るテコとなっている。
 公務関係は出発点から政府と労働側の二者構成で審議されることとなり、政府
は公的権力の行為者としてではなく、使用者として加わった。この構成が、さま
ざまな困難を越えて国際条約化を実現させるのを可能にした。日本政府のように
出発点から基準作りに難色を示し、最後まで反対を貫いた国もあったが、北欧を
はじめかなりの数の政府が労働側との協調に前向きであり、条約化に賛成した。
労働側の原案をもとに譲歩と妥協のプロセスを通じながら、条約採択にこぎつけ
ることができた。

 ILOにおける審議では、午前中にグループ会議を行い、その後に全体会議に臨
むことになる。そこではグループ議長がグループを代表して発言し、態度を表明
する。各委員の発言は一人の発言としてとり扱われるのにたいし、グループ議長
の発言はグループ全体のものとして扱われるという、決定的なウェートを持って
いる。したがって、労働側では誰がグループの議長となり、どのような発言をし
てもらうかが、本会議では決定的に重要となる。
 グループ会議の準備をし、諸提案を行う事務局長はたいてい国際労働団体のプ
ロフェショナルの役員がなり、事実上、グループ会議を仕切る。労働側グループ
の作業を行う上では、この事務局長の手腕がそれを大きく左右する。
 公務関係のすべてのILO会議を指導したのは、ニジンスキーPTTI書記長であ
った。彼は、16の国際産業別労働団体(ITS)をたばねるITS総会議長であり、
その資格でITSを代表して国際自由労連(ICFTU)執行委員会のメンバーであ
った。

 ILO理事会労働側グループ事務局長はICFTUジュネーブ事務所長がつとめる
のが慣例である。ICFTUジュネーブ事務所長は国際労働運動の登竜門で、最近
二代つづけてICFTU書記長がジュネーブ事務所長から出ている。
 その当時のICFTUジュネーブ事務所長はヘリベルト・マイヤー(オーストリ
ア)で、後に国際事務商業技術労連書記長を経て、ILO事務局の労働側最高ポス
トの事務次長に就任した。彼はニジンスキーがICFTU組織部長だった時、その
配下で社会経済担当のスタッフであった。彼の側面的協力が、公務問題をILOで
推進してゆく上で不可欠だった。
 
ニジンスキーは原則を重んじるが独断的でなく、抜群の指導力を持った人だっ
た。彼はきわめて頭脳が明晰であるだけでなく、説得力のある雄弁家でもあった。
ILO活動における彼の水際立った采配ぶりは、相手側もともに認めていた。彼の
ような国際的指導者にめぐり会い、その知遇をえてその部下となり、長年にわた
って直接的に指導を文字通り手取り足取り受けたことは、私にとって本当に幸運
だったとしかいいようがない。PTTIを彼が1989年に引退してすでに18年が過
ぎた。ほとんど毎年のように彼を隠棲先であるベルン(スイス)に訪ねて、共に
数日を過ごすのが私の最大の個人的年中行事であり、またかけがえのない楽しみ
となっている。
 
彼はユダヤ系ポーランド人として悲劇的な体験をもっており、亡命者として組
織的バックをもっていないというハンディキャップを負っていた。しかし、彼は
そのことを逆に糧として、どの国の国内的利害にも左右されず、国際労働組合団
体という国境を越えた運動組織をリードした。そのことによって、組織内外で絶
大な信頼と尊敬をかちとっていた。
 政治的にみると彼の反ソ反共的立場は鮮明であったが、それは人権と自由がい
かに基本的な価値であるかを体験的に知っていたからである。
 彼は、ILO合同委などの委員の割り振りには絶大な影響力を行使していたが、
自分の嫌いなソ連や中国の代表を常に加えるようにしていた。この点は、これら
の国を排除した幹部達とは大違いであった。ソ連や中国という大国を排除するこ
とは、国際機関における運営や条約化に支障をきたすという、大局的な政治判断
を個人的感情や思想に優先させたからだ。
 
公務関係の会議では、労働組合側の主張が妥当であれば受け入れるという政府
が少なからずあったので、労働側の主張を強力に押し通すということは可能であ
った。しかし、ニジンスキーはそのような力ずくの道は決してとらず、まず徹底
的に本来の政策の主張を展開し、その後は説得と双方の歩み寄りによる意見の一
致をあらゆる方法で追求した。
 会場内外で政府側の重要メンバーとの非公式な協議がしばしば行われた。また、
事務局の専門家や友人との打合せ、労働側の中心メンバーによる作戦会議と連日
連夜、彼の指揮下に私は走り回った。私の担当した役目の一つに、昼と夜のレス
トランを確保し、その席での協議に必要な人々を集め、最後は支払いをすること
だった。

 ジュネーブのどのレストランでも金払いの良い日本客は歓迎されたので、私の
名で予約をとるのにはまったく問題はなかった。しかし、ハツオカという名はH
を発音しないフランス語ではやっかいなので、「オカ」という慣称をその場合に
は使っていた。ところがある夜、うっかりと支払いを忘れて帰ってしまった。大
使館関係者は名刺を置いてその場で支払わず、後で送られた請求書をもとに払い
込むのが通例となっている。われわれが堂々と席を立って帰ったので、マネージ
ャーは大使館の客と勘違いして愛想よく送り出した。ところが「オカ」の名刺が
ないので、レストラン側は大慌て。日本をはじめ6カ国のアジア諸国の大使館(代
表部)に「ミスター・オカ」をたずねて電話する騒ぎとなったそうだ。幸いに翌
日気づいて私が支払いに行ったので、事なきを得た。その頃、私は国益に反して
国際的に働きものとして、日本政府筋に徹底的に嫌われていたので、本名をこの
時に名乗っていたら格好のエピソードとして週刊誌に「労働側の無銭飲食」とい
う記事でも流されたのでは、とひやりとした。
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     (3)


 第一回公務合同委の翌1972年春に今度はおもいがけなく、6月のILO総会に
行くことになった。それは、その年の総会に労働側理事として立候補することに
なった自治労書記長安養寺俊親の選挙運動の助っ人を依頼されたからである。
 この依頼は、この当時は全逓から総評に出向し、政治局担当常任幹事となって
いた親友新井則久を通じてきたので、もとより断ることはできなかった。
 PTTI東京事務所長になったばかりのその年4月に、アメリカ国務省のビジタ
ーズ・プログラムによる招待ですでに1カ月を留守していたばかりなので、気が
引けたが、ニジンスキー書記長に相談すると即座にOK。むしろ、積極的に関与
するようにすすめられた。それには、全逓など日本の組合が労働基本権問題で
ILO提訴を準備しようとする動きをみせていたことも考慮にいれられていただ
ろう。

 この場合、いささか気が重かったのは、その理事選をめぐる国内事情を知って
いたからだ。総評はこれまでILO理事にICFTU加盟組合から原口幸隆(全鉱委
員長で、元総評議長)を推してきたのだが、同盟との約束で一期を塩路一郎自動
車労連会長に譲っていた。そして、今度は国際組織も加盟していない総評の候補
として、これまた国際的に公務労連(PSI)にも加盟していない自治労幹部を決
定したのである。
 この経過についてはいろいろとあるが、大木・富塚総評執行部の国際音痴につ
けこんだ反自由労連派のイニシアチブがあったようだ。国際加盟問題では最大加
盟組合の自治労がカギを握る位置を占めていたが、安養寺さん自身は反ICFTU
では決してなかった。問題は、総評内がバラバラで、後藤国際局長(動労)や安
恒政治局長はいわゆる左派ではなかったものの、自由労連にたいしてはよくある
偏見を持っていた。国際局スタッフは世界労連系や中立論者が占めており、反自
由労連色が強かった。

 総評はその結成初期に自由労連一括加盟が否決された後、いつの間にか「組織
的中立」を標榜するようになっていた。しかし、われわれは、軍事ブロックから
の中立には賛成だが、労使関係に「中立」がないように、国際労働運動に「中立」
はありえないと主張していた。
 安養寺候補を擁立した総評は「すべての勢力」との提携を旗印に、早くから非
同盟勢力(ユーゴやアフリカ諸国)などとの接触を手始めに、世界労連(WFTU、
ソ連系)と自由労連の二大労連の支持を得るという戦略を立てていた。そして、
全世界にオルグと称する代表団を送るなどの働きかけを展開していた。われわれ
は国際自由労連を無視したこのような行動を無駄、無用、無益の空騒ぎだと批判
する態度をとっていた。ILO内少数派である世界労連は、この総評の動きを待っ
てましたとばかり歓迎し、「支持」を表明していた。

 このような総評の動きは、ILO労働側理事の多数を占める自由労連側から好意
的に受け取られるはずはなく、それへの挑戦とみられていた。最終段階に到って
このような状況を認識して危機感を抱いた自治労側より、軌道修正を求められた
総評トップが全逓国際部長経験者だった新井則久常任幹事に助力を依頼せざる
をえなくなったのが真相である。
 われわれ二人がILO総会直前にヨーロッパに向かった時、状況はあまり楽観的
なものではなかった。まず、ブリュッセルの自由労連本部を訪問し、旧知の人々
に会ったが、塩路さんや同盟側からの「総評は世界労連と共闘して自由労連に挑
戦」というかなり曲げられた情報がすでに浸透していた。これを打ち消すのは容
易ではなかった。

 次に現地ジュネーブに飛んだわれわれは、まずPTTIニジンスキー書記長と相
談した。彼が示した解決法は、「自治労が国際公務員労連(PSI)に近い将来加盟
を約束することを条件に、自由労連ケルステン書記長と直接談判し、安養寺を自
由労連推薦リストに載せる」という中央突破作戦だった。
 こういう圧力のかけ方は国内的反撥を招く恐れもあるのでいささかの躊躇心
はあった。しかし、それ以外に事態を打開する方法はみあたらず、自治労の現地
対策責任者だった野田副委員長に相談し、その同意を得た。彼はその判断を直ち
に自治労栗山委員長に進言し、その了解をとりつけた。

 ケルステン書記長が滞在するオートイユ・ホテルのスィートルームで、総会前
夜になってこの会談が行われた。総評からは、後藤国際局長と新井常幹、それに
自治労野田副委員長と私が同席した。ニジンスキーが説明と提案を終わると、
ICFTU本部日本人スタッフが「総評と自治労が自由労連加盟を約束するのが筋
だ」と口をはさんだ。明らかにこの提案に水を差す意図が感じられた。これに烈
火のごとく怒ったニジンスキーが「トップ会談でお前は何の資格で誰を代表して
発言するのか」と追い出してしまった。自治労ITS加盟の日本における意義を
懇々とニジンスキーが説いたので、新任早々でこうした事情にうといケルステン
ICFTU書記長は、先輩への敬意もあってだろうが、あっさりと安養寺のリスト
アップを約束し、一件が落着したかに思えた。

 ところがその翌日、開会当日の労働側グループ会議で、予想もしない、信じが
たいハプニング(仕組まれたものだったが)が発生し、われわれを動転させるこ
とになった。それは、労働側グループの議長選をめぐっておきた。自由労連がベ
テランのILO労働側理事アービング・ブラウン(アメリカAFL-CIO国際局長)
を労働側議長に推薦した。当時AFL-CIOはICFTU脱退中で、ケルステン書記
長(ドイツDGB出身)の復帰呼びかけのメッセージがこの提案には込められて
いた。これにたいし、世界労連がキューバの無名の新人を候補に推した。ことも
あろうに、これを総評代表が支持、挙手投票したのである。
 本来ならば、代表として安養寺候補が意思決定すべきところを、総評副議長の
兼田全港湾委員長に団長として投票させた国際局スタッフの差し金だった。あわ
てた私達は、これへの抗議と不同意を表明するため、安養寺さんと自治労副委員
長に目立つ形でグループ会議から退場してもらった。

 兼田さんは総評左派の名だたる闘士で、世界労連と親しかった。しかし、かね
てから面識のあった私は、これは彼の確固たる意図ではないと即断したので、兼
田さんに新井と二人で個人的に面談した。案の定、兼田さんは「国際局から、ア
メリカとキューバの選択ですよ、といわれたから、総評としてはキューバかなと
思って投票した」という。理事選のことなど毛頭もご存じない。われわれが意を
尽くして率直に経過と事情を説明すると、「悪いことをしてしまった。どうした
らよいかな」という諮問があった。そこで、「兼田さん、すみませんが理事選が
終わるまで総会を欠席し、会議場に入らないで下さい」とお願いした。それでは
「世界労連本部にあるプラハにでも行ってくるか」と快く承知してくれた。左派
でも兼田さん位の大物だと話は早かった。これがきっかけで、兼田さんと親しく
なった。その後何回か彼から声がかかり、その仕事を時々手伝うことにもなった。

 結果的に、安養寺候補はすべての勢力から推されてトップ当選してしまった。
そこで、それぞれの関係者が自分の貢献と手柄を自慢する「失敗は孤児だが、成
功には父親が多い」という諺通りの結末となった。
 この総会では、私は正規の日本代表団のメンバーではなく、PTTI代表団の一
員として登録し、もっぱら理事選対策だけに働いた。理事選までの僅か1週間あ
まり、ジュネーブに滞在しただけで私の2回目のILO行きは終わった。

 理事となった安養寺さんより、総会直後に協力要請があり、翌73年総会より
日本労働側代表団に顧問として参加することになった。そして、日本の官公労の
権利問題を審議する条約勧告適用委員会を担当した。当時はILO会議に日本語同
時通訳はなく、英語で発言しなければならないことから、その後引き続きこの委
員会を毎年の総会で私が担当した。初めのころは、真柄栄吉自治労書記長や公労
協高橋富治事務局長の副委員として、後には正委員として、日本関係の案件だけ
ではなく、条約適用の原則問題とアジアにおける結社の自由や児童労働について
積極的に発言した。2年後に安養寺さんが急逝され、原口さんの短い中継の後に、
田中良一理事(同盟書記長)の3期12年、丸山康雄理事(前自治労委員長)の
2期8年の期間中のすべてを通じ、毎年のILO総会に労働側顧問として出席す
ることになった。25年間の長きにわたってILO総会に参加したことは、日本の
労働側メンバーとして最長の参加記録となった。
                (筆者は姫路獨協大学名誉教授)
                                                    目次へ