【北から南から】
中国・吉林便り(30)<最終回>

吉林からの引揚げ者

今村 隆一


 「吉林便り」は本号で終わることとなります。理由はこの夏(2018年8月)で私が吉林を引揚げることになり、不在の「吉林便り」では好ましくないからです。これまで私は吉林省(教育局と公安局が担当)の長期(1年又は半年)居住許可(Visa)を更新して吉林市に住んでいましたが、年齢が70才に達したので更新できないということ(同年齢のアメリカ人も同様)で、私は吉林引揚げとなったのです。平たく言えば定年・戦力外退去でしょう。

 故加藤宣幸オルタ代表のお誘いに、後先無し且つ非才を顧みずお受けした結果の誤字脱字だらけの拙文を掲載してくださり、お読みくださった方には紙面を借りてお詫びとお礼申し上げます。また今日まで「オルタ同人」ではありませんでしたので、日本帰国後は同人会費を払い、前向きの気持ちで「オルタ広場」と関わらせていただくつもりです。

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 私が通っていた北華大学も、2018年春学期は私の日本語の授業が6月22日に、漢語の授業が7月9日に終了しました。夏休みは日本の千葉と比べて10度位は気温が低く、涼しい吉林の方が過ごし易く(今年は吉林も8月3日に35度を記録しましたが)、離れがたい思いが強く、暑い日本の夏に恐怖さえ抱くに至った私は吉林に一日でも長く居たい気持ちです。

 吉林市の東400kmほどにある吉林省延辺朝鮮族自治州の龍井(ロンジン)市では‘さわやかな吉林・22℃の夏’をテーマに行事が開かれたようですが、22度は誇張が過ぎる感じがします。特に今年は6月2日に30度越え、7月も暑い日が多く、8月3日に最高気温が吉林で35度、ハルピンと長春が36度となりました。今年7月7日からの西日本豪雨で大災害が発生したように、吉林でも7月は雷雨が多く一時的大雨もありました。
 日本の梅雨ほど湿度は高くありませんが一年で最も空気が湿った時季が例年6月から約1か月半続き、その後半月からひと月ほど、短くても暑い夏を感じるのがこれまでの吉林でしたが、今年は特別の暑さです。

 今年はこれまで中国国内ばかりでなく地球規模(スペイン、ポルトガル、ロシア、アメリカ、ミャンマー、北朝鮮、韓国など世界各地)での高温・山火事・水害発生が中国中央電視台(CCTV:中国中央テレビ)の News で再三報道されています。

 豪雨災害、豪雨だけが災害発生の原因とするかの表現は妥当性を欠き、大切なことを言うに至ってない感じがします。去年の「オルタ」164号(2017.8.20)に藤田恵氏が水害について達識を述べておられ、大切なこととは土石流災・大水害は「拡大造林」が元凶の人災であり、「ダム建設禁止」法こそ制定すべきとの提言がありました。そのことが生かされない悔しさと腹立たしさを今回も痛感しました。
 国土建設に名を借りた「土建業」は原子力発電、沖縄米軍基地問題同様、一部の業者と自治体、警察、検察、裁判所、国、マスコミの癒着を断つ必要が今とこれから日本列島の安全平和には絶対必要条件になっていると思います。

 治山治水の必要性は日本列島同様吉林周辺にもあると言えます。吉林・中国東北地方が日本と異なっているのは、前者は面積が広く地形がなだらかなこと、歴史的に山村農業が長年に渡って森林(樹木)管理と繫がっていて、幸いなことに土建業が都市近郊から域を出ないため、人災の発生要素が少ないと言えます。
 しかし吉林市に近接する山では景区(ジンチュ:観光地)の整備・建設が急ピッチで進んで、スキー場の改増・建設と景区化(観光地化)が顕著なので、排水と治水への影響が心配なことはこれまでも何度か述べました。

 吉林市が私の中国滞在地となったのは、当時吉林市に住んでいた中国人のZ臨氏の誘いがあったからです。彼は以前、中学の日本語教師(日中国交回復前後の一時期、日本語学習熱が高まって学校と社会教育で日本語が導入されたが、現在吉林市では大学と民間の語学学校に淘汰されている)であったことから、私より10歳程若いのですが、彼を「Z先生」と呼んで現在に至ってます。
 縁あって知遇を得ましたが、私が吉林市到着後3月程で彼は吉林市を離れ、この夏10年振りに吉林市に戻ってきました。私が吉林で10年以上生活しておりました間、彼は不在でしたが、常に連絡を取り合い何年かに1回は会っておりましたし、私の吉林生活の後半は彼の家に住んでいましたので疎遠だった感じはありません。2人の縁は私が日本在住の60才定年退職前、彼の娘がアモイ大学(中国では校舎環境が最も美しいと言われ、学力水準も高い福建省の有名大学)卒業後、千葉県内の大学に留学したことがきっかけで知己を得たのでした。

 最終の吉林便りとして改めて吉林市の概況を紹介します。
 東北三省、北の黒竜江省と南の遼寧省の間に位置し、東に延辺朝鮮族自治州を包括した吉林省、省都は1954年に吉林市から移された長春市で、解放前(1945年前)は新京(偽満洲国の首都)でした。長春駅から東に向かって高速鉄道の動車(ドンチャ)に乗ると10分ほどで飛行場のある龍嘉(ロンジャー)、更に25分ほどで吉林駅に着きます。長春駅と吉林駅は直線距離で約80kmです。吉林からハルピンまでは高速鉄道直通で長春を経由して約2時間です。

●烏拉街(ウーラ―ジエ)と満州族

 中国最後の王朝は「清朝」、清国の支配民族が「満洲民族(満族)」で満族発祥の地が吉林市烏拉街鎮です。烏拉街は吉林市の中心から北15kmにあり、鎮の西は松花江に接しており、総人口7.1万人の小さな村で、2014年に全国で3,675ある重点鎮の一つに位置づけられています。
 歴史は古く5千年以前の新石器時代、満族の祖先である「粛慎人」が住んでおり、彼等はこの地を満州語で「吉林烏拉(ジーリンウーラ:川沿いの町)」と呼んでいて、今の地名「吉林」があります。吉林は別名「江城」と呼ばれていて、私が住む地区は江(かわ)の南に位置しているため「江南(ジャンナン)」と言います。

●清朝と皇帝

 明の時代には満族は「女真族」と呼ばれ、「烏拉王国」ができ、「清朝」最初の皇帝「努爾哈赤(ヌルハチ)」が1616年に烏拉王国を滅ぼし「後金」とし、二代目皇帝「皇太極(ホンタイジ)」が北京を制圧し1936年に国号を「大清」と改称し、正式な名称で「清朝」となります。
 1636年に今の内蒙古、1637年に李朝朝鮮を征服。「清朝」は1636年から1912年まで276年間の中国歴史最後の封建王朝で、1840年と1842年の阿片(アヘン)戦争後急速に衰退し、1911年の辛亥革命を経て1912年ラストエンペラー「宣統帝(愛新覚羅溥儀:アイシンカグラ フギ)」で幕を閉じます。溥儀は満州事変後1934年に日本軍国主義の傀儡政権であった満洲国皇帝の「康徳帝」と称し、1967年平民の一人として中国で亡くなりました。

●康煕帝

 清朝12代皇帝のなかで、在位1661年から1722年の第4代「康煕帝」はロシア・蒙古・西蔵(チベット)制服と雲南・広東・福建の「三藩の乱」平定と台湾領有、1722年から1735年の第5代「雍正帝」は青海・西蔵(チベット)、1735年から1795年の第6代「乾隆帝」は西域(現在は新彊と呼ばれる)・西蔵(チベット)に領土を拡大、中国の歴史上「元」に次いで支配地域を広げています。
 「康煕帝」は8歳で皇帝の地位についております。その年に父、10歳で母を失い、以後艱難を忍んで清王朝を隆盛に導いた、中国では世界歴史上最も著名な君主と評価されています。取り巻き大臣の権力闘争のなか、自分の衛兵の少年達を今のレスリングで鍛え、18歳の時、彼等に一人の屈強・横暴な大臣であった傲拝(アオバイ)を捕らえさせますが、殺さずに幽閉します。

 文武両道を備えた康煕帝は周りに畏敬の念を持たれ逐次確固たる地位を築くことになります。5歳から書斎で学習を始め、読んで暗唱、120回の朗読という伝統的学習を重ねた旺盛な学習意欲は後の「康煕字典」や「古今図書集成」などの編纂に繋がります。自らは満州族でありながら、漢民族から要人を配し、漢民族の語言文化を優先的に取り入れ研究啓蒙した他、ヨーロッパ人の指導を自分が受け、ユークリット幾何学など西洋科学の翻訳にも取り組んで清国の文化発展をリードします。
 「康煕帝」の存在は在位期間の長さもさることながらそれ以上に、真摯且つ強力な実行力と探求心、能力を備えた指導者としての資質が清朝の振興につながったのだと言われます。

●多民族

 現在の中国は共産党指導の社会主義国家であるものの、漢族が数的に少数民族を凌駕していることから、私は革命前の封建社会国家「清朝」、とりわけ少数民族「満洲族」が築いた歴史と風習に否定的な中国政府と大衆ではないかとみておりましたが、それは誤りだったようです。文献においても文化・芸術においても、現在は「清朝」を封建制とは指摘するものの歴史、史実をありのまま、「清国」の功績と威光を客観視していることが、最近になって見て取れるようになりました。
 勿論私が知るに至らない様々な民族問題があったでしょうし、今もあるとしても、時代を統治した指導者が「蒙古族」であったり、「満州族」であったり、「漢民族」であったりした、中国は多民族支配の歴史を経て現在に至った国家なのです。現政権の中枢は漢族ですが、広義に「中華民族」と括り、頻繁に使用しているのが現状です。

 日本も政治指導者が「大和民族」であったり、「アイヌ民族」であったり、「沖縄民族」であったり、中国・韓国「在日○世」であったり、はたまたアフリカやヨーロッパ、アジア各国、南北アメリカ出身であったりしても良い、いやそうあって欲しい、画一化された看方ではない、近隣国を排除、敵視することのない、多様で寛容な価値観をもった指導者の出現を私は望みますが、何よりも私たち自身が広い見識と健全な精神文化を身につけるべきだと思います。

●今の吉林

 私が親しんだ吉林は「好山・好水・有好人(山も水も人も良い)」と地元の人が自慢するように自然環境に恵まれており、空気も未だ汚れが少ない都市です。山深く入ると市井とは全く違い、美しい草原や山峰とそこに放牧された牛や馬など偶に山羊などもいて、私のような山好きには一時的でもそこに身を置くと自然と親しむ喜びを感じることができた吉林でした。

 一方、江北(ジャンベイ)と呼ぶ市中心北部には化学コンビナートが多く、そこの空気は汚れています。そして市内は自動車の普及が進み通勤通学時間帯ばかりでなく、週末の車によるラッシュ、混雑が急速に増えています。
 車道での駐停車による混雑発生と歩道上の駐停車は規制標識が無いので放題となっています。また信号のない交差点も多く、運転者の譲り合いなどは稀少ですから、車の接触も頻繁に発生しています。接触した車両は動かさずその場で交通警察が来るのを待つのですから、交通渋滞に拍車がかかります。それでも運転者同士の喧嘩や怒鳴り合いは見たことがありませんので、彼等は接触事故発生など得心尽くに私には思えます。

●進む観光地化

 吉林市と周辺の観光地化も確実に進んでいます。旧跡地である「北山公園」には多くの寺観があり、さまざまな縁日があります。仏教、道教、儒教の寺院、関帝廟があります。1926年開園で138万㎡の面積があり、朝夕多くの人の憩いの場となっています。貸し切りバスで市外から来る人も多く、隣接して満州民族博物館(資料が何故か少なく感じます)と人民広場があります。
 「龍潭山公園」は234万㎡の森林公園でもあり旧跡地でもあります。5世紀初めに築かれた高句麗山城で遼(907年~1125年)・金(1115年~1234年)時代の遺跡と清時代乾隆19年に創られた寺院と関帝廟の他、何故か猿園があります。

 上記2つの公園は吉林を代表する公園と言って良いでしょう。私も1年に一度はどちらにも遊びに行きましたが、冬の雪深い夜の戸外活動に参加し2~3時間かけて歩いたことがありました。どちらの公園もネオンで輝く夜の吉林市街を一望することが出来ます。
 他にも偽満洲時代に創設された豊満ダム(松花湖)と吉林大橋等がありますが、改築と新設を経て当時の面影はありません。「万人坑」は偽満洲時代の豊満ダム建設等での犠牲者の遺骨が保存されており愛国教育施設となっていて観覧できますが、辺鄙な所にあり訪れる人は多くありません。

 先に触れましたが、自然環境に恵まれた地勢を生かしたレジャー施設が建設されていて、キャンプや渓流遊び、乗船・島巡り、ブドウ狩り、苺狩り、花見、紅葉狩りなどが市近郊と郊外で体験できますが、市中心を滔々と流れる「松花江(ソンファジャン)」沿岸の遊歩道がこの数年で美しく足にも優しい木道として整備が進み、朝暗いうちから夜暗くなっても多くの市民が散歩したり、テントを張って水辺遊びをしています。

●文書の重要性

 最後にアーカイブ(Archive)について。中国には「档案(ダンアン)」と言う文書管理の歴史が古代から現在に残っています。図書館とは異質です。日本では公文書館でしょうか? 中国の大学には档案系の学科があるほどで、北華大学にも档案室が、吉林市内にも立派なビルの档案館が家の近くにあります。個人の身上・行状記録の他、地域によっては日本の満洲侵略や日中戦争の記録、旧日本軍人の供述記録なども保管されている档案館もあります。
 公文書とは誰もが共有すべき知的財産であり、改竄と隠ぺいの行政、権利者にとって都合の良い文書管理でなく、望ましい記録文化を日本と中国は共に築いて欲しいと思います。漢字を使用する日本と中国は文化政策としての文書管理を共に研究し、共に情報公開の推進に努めるよう希望します。勿論個人情報の厳格な管理を必要とすると共に社会に役立てる情報管理をすべきで、そうすることで日本と中国の民主化が更に進むだけでなく、両国の人々に残っているわだかまりと誤解が少しずつ解ける思うのですが、・・・。

 (中国吉林市北華大学漢語留学生・日本語教師)

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