加藤宣幸顧問の逝去を悼む

藤生 健

 我々が主宰するプログレッシブ研究会の顧問にして、社会党系人脈の大先輩であらせられた加藤宣幸さんが逝去された。三日後に予定していた我々の定例会にも出席の返事をいただいていた中の突然の出来事であった。

 本来であれば、若輩者の自分にとっては雲の上の方であり、世代的にも全く交流は無かったわけだが、何らかのきっかけで私が綴っているインターネット上のブログを発見され、色々手を尽くして私個人を特定して連絡いただいたのが、交流の切掛けだった。父君の加藤勘十氏や右派社会党をブログのネタにしていたからかもしれない。
 ブログの連絡アドレスからメールをいただいた方は複数いるが、ブログから個人を特定して連絡いただいたのは加藤顧問を含めて二人だけで、当時すでに87、8歳であらせられたことを考えれば、驚異的なことだった。
 平素からタブレットを持ち歩き、取材はデジタルビデオで撮影してネットにアップするという、およそ年齢と一致しない進取性は心から尊敬するところだった。

 加藤顧問との交流は、最晩年わずか5年ほどのものだったが、何度も居宅にお邪魔して話を拝聴した。圧倒的多数の高齢者は延々と「昔話」をするもので、私なども社会党系の先輩に会うと必ず「国労闘争」と「社会党大会」の同じ話を延々と繰り返されるので憂鬱なばかりだった。だが、加藤顧問はこちらから尋ねない限り、昔話をされることはなく、圧倒的に若者(現実には私などもすでに50近いのだが)の話を聞くのを何よりの楽しみにされていた。
 我々が是非とも伺いたい初期社会党の裏話についても、恐ろしいまでの記憶力で当時の状況を淡々と説明され、覚えていないことやハッキリしないことは明確にそう言われたことが非常に印象的だった。自分などは、たとえ15年前のことであっても、あのように鮮明に再現して話せる自信は無い。

 最後にお目にかかったのは1月末のことで、近々秘書を辞め、離日、中国の大学で教鞭をとる旨の報告を行うためだった。顧問との話は自然、国会をめぐる国政の現状報告に移り、私は、戦後民主主義が機能不全に陥りつつあり、官僚や議員の水準が著しく低下、社会の衰退と国民統合力の低下に歯止めがかけられない中、リベラル系市民から期待が寄せられている立憲民主党もまた展望が無い状況に置かれていることなど、全く夢も希望も無い話を延々としてしまったことが後悔される。
 にもかかわらず、加藤顧問が「君はいい男だから、向こうに行ってもモテるだろう」とおっしゃったことは、生真面目な顧問にしては珍しい言葉であったこと、そもそも「いい男」などという評価から縁遠い自分としては驚きであったことが、非常に印象的だった。

 加藤顧問には何も恩返しできなかったが、顧問もまた人民戦線事件の背景事情、父君の裁判の経緯、終戦工作への関わりなど、いくつも疑問があったらしく、国会図書館などから資料を取り寄せてお渡しできたことは、せめてもの救いである。

 最後になるが、加藤顧問は戦後民主主義と自由主義を善しとされ、その価値が危機にさらされている現状を憂えてメールマガジン『オルタ』の発行を始められた。だが、自由主義が経済格差と貧困を招き、階級分化がデモクラシーの国民統合力を失わしめると同時に、貧困と格差の解決を困難にしている。
 また、米国覇権の衰退に伴って、第二次世界大戦後の国際秩序が再編期を迎えつつあり、国際緊張が高まる中、各国で軍拡圧力が高まっている。同時に米欧日などの旧先進国で経済成長が止まり、社会保障制度の維持が困難になりつつある。
 第二次世界大戦後、西側自由主義国を先導してきたケインズ型国家モデル、次いで新自由主義モデルの維持が困難となり、それに替わる国家像を模索する必要があるが、自分などよりも若い世代の課題となるであろう。

 (政治評論家)

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