加藤宣幸氏を悼む

岡田 一郎

 大学院時代より、1950年代後半から60年代にかけての日本社会党(以下、社会党)を研究してきた私にとって、加藤宣幸氏は歴史上の人物であった。上記の時期の社会党の文献を読むと、必ずと言ってよいほど、加藤氏の名前が出てきたからである。
 その歴史上の人物と初めてお会いしたのは、故・久保田忠夫氏の追悼式を準備する会合であった。文献でしか名前を見たことのない人物と出会えた感動を私は今でもわすれることはできない。その時配布された追悼式の準備委員の名簿をもとに、私がこれまで執筆してきた拙文をお送りしたところ、丁寧なお返事が返ってきた。以来、十数年、加藤氏と親しく交流させていただき、社会党のことだけでなく、人生の先輩として様々なことを教わった。

 加藤氏が最も多く私に指導されたのは、文章の書き方であった。かつて社会党機関紙局の責任者であった経験からか、文章に関して加藤氏は厳しかった。加藤氏に依頼されて文章を執筆すると、「3分の2に圧縮して再提出するように」などと言われたものである。割り切れない思いをしながらどうにかこうにか圧縮して読み直してみると、無駄な修飾や変な気負いがなくなって、はるかに読みやすい文章になっていることに驚いたものである。
 また、血気盛んなころは気負ってアジるような文章をよく書いたものだが、そのような気負いはすべて捨てるよう指導された。文章を書く時の気負いは自分の勝手な思い込みであり、文章を読みにくくする。淡々とした文章の中に自分の思いをにじませるようになるため、加藤氏には何でも書き直しを命じられたものである。
 加藤氏の指導をどこまで自分が生かすことが出来たかどうかわからないが、2016年に『革新自治体』という本を出したとき、とある高名な先生から「非常に読みやすい文章であった」とお褒めいただいた。少しは、加藤氏の教えを実践に生かすことが出来たのかもしれない。

 もちろん、文章の書き方だけでなく、私の研究分野である社会党に関して、加藤氏から多くのことを教わった。最も印象に残っていたのは、「統一綱領の際に党内で激しい対立が起こり、三輪寿壮氏と伊藤好道氏が命を縮める結果となった。だから、綱領やイデオロギーの問題には触れず、出来るだけ党組織の問題に専念するようにした」と繰り返し述べていたことだった。
 1950年代後半、社会党内では党組織改革の機運が高まり、江田三郎氏を委員長とする組織委員会が設置され、加藤氏は江田氏の補佐役として党組織改革の中心的人物となっていく。このときの党組織改革の成果はその後も受け継がれ、社会党が曲がりなりにも近代的な政党としてその後も存続し得たのは、ひとえに加藤氏の功績と言えよう。だが、加藤氏はそのことを自らは語ろうとせず、もっぱら後進の研究者の援助に専念していたように思う。
 党組織改革で名を上げた江田氏はその後、社会党書記長となり、構造改革論を掲げて一躍時の人となり、加藤氏もまた構造改革派三羽烏の一人と評され、脚光を浴びることとなる。だが、左派の鈴木派(佐々木派)は構造改革論容認から一転して反対に転じ、党内には構造改革論争というイデオロギー対立が巻き起こることとなる。統一綱領制定をめぐる対立を目の当たりにし、イデオロギー対立だけは避けようとしていた加藤氏にとって、構造改革論争の勃発は不本意だったのではないか。その思いが加藤氏を寡黙にさせたのではないかと、私は思っている。

 加藤氏から教わったこと、加藤氏の思い出。書き出すと止まらなくなってしまうので、あえて文章の書き方を指導されたこと・社会党組織改革の思い出についてうかがったことの2つにとどめ、この文章を終わりにしたいと思う。

 最後に。加藤氏と出会えたことで、研究的にも、一人の人間としても充実した時間を過ごすことが出来ました。深く感謝いたします。
 そして、加藤氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 (小山高専・日本大学非常勤講師、「オルタ」編集委員)

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