加藤さんと九段北町内会の四年間

仲井 富

 80代も半ばとなると多くの先輩知友の多くはあの世に逝き、生きていても病に倒れたり、あるいは老人施設に入ったりする。これはやむを得ないが寂しいことではある。2月17日、同じ九段北に住んでいた加藤さんが急死された。加藤さんは四年前の2014年3月に、九段北の靖国神社裏側の九段中学校前のマンションに引っ越して来られた。かつて1955年から70年くらいまでは社会党本部というところで、社会党が一番元気なころに同じグループで行動していた。以降さまざまな変転を経て、2014年からはメールマガジン「オルタ」発行の際の編集人の一人としてお手伝いすることになった。

 何しろ元気な人だった。2004年に「オルタ」創刊以来、一人でかつての社会党時代を中心として幅広く人材を集め、それらの方々に執筆を依頼し、徐々に規模を拡大した。私などは1980年代後半からワープロを習い始め、パソコンに移行したのは90年代からだ。加藤さんはどこで学んだのか知らないが、当初からパソコンを駆使して「オルタ」の編集をされていた。それだけでも驚異的だが、その上に当初はパソコンを持たない昔の仲間に、これを印刷して郵送していたというから驚きだ。かくしてメールマガジン「オルタ」は14年余の長きにわたって継続することが出来た。

 私は同じ町内に住むようになってからは頻繁に加藤さんのマンションを訪れた。九段北のホテルグランドパレスの脇道の冬青木坂(もちのきざか)を上がり、靖国神社裏の九段中学の運動場の向かいの7階のマンションまで歩いて10分余りだ。当初は坂を上るのがしんどかったが段々慣れてきた。
 引っ越して二年目の夏には、加藤さんを誘って飯田橋方面に下った途中にある千代田区の小学校のプールが開放されるので、泳ぎに行ったというより、歩きに行った。このプール歩きは加藤さんも気に入ったらしくひと夏プール歩きを楽しんだ。そのうちだんだん忙しくなってプールには行かなくなったが、三年目からは、しばしば加藤さんのマンションに出かけて打ち合わせすることが多くなった。

 九段下や飯田橋、神楽坂周辺でお茶を飲んだり食事をご馳走になることも多かった。おまけに買い物をするのに、私は九段下から神保町方面の豆腐屋やコンビニが主だったが、加藤さんは、飯田橋方面に詳しくなり「仲井君、飯田橋のスーパーが安いよ」と教わったりして、以降飯田橋のスーパーにも買い物に行くようになった。お蔭で朝のラジオ体操で3千数百歩、神保町近くの豆腐屋往復で3,000歩、飯田橋へ行くと3,000歩と、老人に一万歩は多すぎると言われるが、生活の必要性と必然性で日々一万歩を日課とするようになった。

 加藤さんは自分で料理も作るし買い物もする。まことに93歳とは思えぬ頑健な身体の持ち主だった。私は60代半ばから、徘徊老人連盟会長という名刺をつくってお四国遍路をはじめ全国徘徊の旅を繰り返してきた。杖も常に携行して北の丸公園のラジオ体操に行く。旅に出る時も杖は離さない。しかし加藤さんは生涯杖を曳かなかった。娘の真希子さんによると「常日頃『歳』だとは絶対言わない」をモットーとしていたそうだ。年齢を理由にするとすべてが許されるようになってしまうから、といって。

 亡くなる前日の午後、加藤さんと二人で仕事の打ち合わせをした。例によって濃いコーヒーをご馳走になった。帰り際に「加藤さん、貴方が死んだらこれだけの膨大な書籍をどうなるんですかねえ」と言った。加藤さんは「そうだなあ」と言っただけである。死後、加藤さんの遺体の前で4人の息子娘にその話をした。「親父は百歳まで視野に入ってきたと言ってた」という返事だった。最後まで現役編集者だった93歳の見事な生きざまに、及ばずながらついて行きたいものだ。

  友逝くや声なく啼けり寒烏  漫歩

(注)冬青木坂(もちのきざか)の由来:檎(もち)の木坂とも書く。『新編江戸志』に「此所を冬青木坂といふこといにしへ古びたるもちの樹有しより、所の名と呼しといへども、左にあらず、この坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まちがへり。……」とある。(千代田区観光協会)

 (世論構造研究会代表、「オルタ」編集委員)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧