■落穂拾記(12)          

元号「平成」はトクダネだったか 羽原 清雅 

 先日、「平成」の元号が仲間内での話題となり、若干の誤解があることがわか
ったので、当時の事情を記しておきたい、と思いました。 新聞社にとって、
元号のスクープ合戦は熾烈であり、後世まで長く話題になり続けます。
 
小生は、「昭和」からの切り換え時に、朝日新聞の政治部長でありましたので、
その「名誉・不名誉」の当事者として、「誤解」を防ぎたい思いがあります。そ
れが、この内幕話であり、もし現場的に間違いの事実がありましたら、お教え下
されば有難いことです。

1> 小生は1989(昭和64)年9月、政治部長に就任しましたが、天皇の
病状悪化はその直後でした。この年は歴史的に内外ともに激動の重なる1年でし
た。その始まりが1月7日、裕仁天皇87歳の逝去・元号の変更・ついで明仁皇
太子の皇位継承でした。

 ちなみにこの年、国際的には中国の天安門事件(6月)、ポーランド「連帯」
の選挙勝利(6月)に始まるハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニアなどの
東欧革命と、ベルリンの壁崩壊(11月)、さらにブッシュ・ゴルバチョフのマ
ルタ会談による東西冷戦の終結宣言(12月)、米軍のパナマ侵攻(12月)が
ありました。

 内政面では、リクルート事件(江副浩正逮捕=2月)の広がりと、この事件が
らみと消費税導入(4月)などによる竹下登内閣の崩壊(6月)、続く宇野宗佑
首相時の参院選での自民惨敗と女性問題での辞任(7月)、後継の海部俊樹首相
就任後に自民党内で政治改革論議が過熱、混迷が激化します。この政界の混乱は、
のちに衆院選を経て次の宮澤喜一首相が行き詰まり、非自民の細川護煕政権の登
場につながります。さらに、解体した総評に代わって、「連合」が登場(11月)
しますが、これも社会党崩壊の素地になり政治的には影響の大きい出来事でした。

 社会面的には、手塚治虫(2月)、美空ひばり(6月)の死去、宮崎勤による
幼女誘拐殺人事件の自供(8月)、オウム真理教による坂本弁護士夫妻と幼児の
殺害事件(11月)などがありました。

 忘れがたいのはこの年、メディアに誤報などのケースが続出したこと。はじめ
はNHK会長池田芳蔵が国会答弁でミスして辞任(4月)、朝日のサンゴ事件と
社長辞任(4月)、毎日の森永グリコ事件の「容疑者」取り調べの誤報(6月)、
読売の連続幼女殺害事件の犯人アジト捏造報道(8月)などであり、とくに筆者
が直前まで仕えていた朝日社長の引責辞任は衝撃的でした。というわけで、きわ
めて多忙多難な時期の職務でした。

2> そこで、本題に戻ります。
 元号取材は、「大正」は緒方竹虎のスクープによって、朝日の圧勝でした。福
岡出身の緒方記者は、当時政界に隠れた影響力を持った玄洋社などに人脈があり、
このスクープも李氏朝鮮の閔妃殺害に関与し、その後も政界の黒幕となった三浦
梧楼から手に入れた、といわれています。

 「昭和」は、東京日日(現毎日)が「光文」と報じる「聖上崩御」号外を出し
ましたが、結局、「昭和」となって毎日の勇み足。「『光文』がスクープされた
とわかり、第2案だった『昭和』に差し替えられた」、あるいは「宮内省の案に
は、もともとなかった」といわれていますが、ほんとうのところは明らかではな
いようです。その記者はその後、不幸にも行方不明になったといわれています。

 このような経緯から、昭和天皇の倒れたころ、筆者は多くの先輩記者から「
『緒方』になれるぜ」「抜かれたら、部長辞任、さすらいの身だな」などと冷や
かされ続けました。その分、緊張の連続でした。「元号」が大事なものかどうか、
ではなく、新聞社にとっては、歴史をかけた、かつ話題を提供する「名誉」のか
かった仕事でした。

3> こうしたことから、筆者のいた朝日政治部では新進の記者2人を専従とし
て、天皇の発病前から1年余をかけて、元号の決め方、出典の選び方と過去の経
緯、その言語的意味、などを宇野精一、所功氏等のもとに日参して教えを乞う一
方、元号問題を扱う首相官邸、宮内庁などに網を張っていました。

 ちなみに、その優れた記者たちは、ひとりは朝日のワシントン総局長などを務
め、もうひとりの女性記者は退職後にマサチュセッツ工科大学に学び、北京大学、
防衛研究所の研究員を経て国際関係、安全保障論などで早大教授の任にあります。
要は、どこにも引けを取らない布陣での取材でした。

4> 毎日の「抜いた」との主張
 毎日は、当日の夕刊3版に入れており、朝日、読売よりも1版早かった、とい
い、その社史では「三〇分早く入手」としていますし、ネットでもこの点を誇っ
ています。60余年前の「雪辱を果たした」というのも、このあたりに起因して
いるのでしょう。しかし、スクープの内情は明らかにされておらず、当時の報道
陣や内閣関係者たちは毎日のアピールに「疑問」を持ち続けています。

5> 「抜かれていない」との傍証
① 内閣官房副長官石原信雄は当時、「発表までどこにも抜かれず、秘密が守れ
てよかった」と胸を張っていました。ちなみに石原は優れた官僚とされ、信頼の
厚い人物でした。のちに首相となった官房長官小渕恵三は、「平成」と書かれた
額を掲げて印象的な写真に残されましたが、石原と同じ発言を繰り返していまし
た。

② 当時、もしメディアに抜かれ、早漏れした場合、別の複数の代替案を用意し
ていましたが、「差し替え」はありませんでした。

③ 毎日がほんとうに「抜いた」としますと、大きな疑問となるのは「なぜ新聞
社にとって栄光の保証でもある新聞協会賞を取っていないのか」ということです。
これほどの歴史的トクダネをとりながら受賞していない事実は、毎日が申請しな
かったのか、あるいは申請しても認定されなかったか、のいずれかでしょう。

④ 毎日が「抜いた」とすれば、各社の間では当然、どの記者がどのように抜い
たか、だれが漏らしたか、などの話題がうずまき、今でも「スクープ記者」を讃
えていたことでしょう。こうした「騒ぎ」が一切ないのがむしろ不思議です。

⑤ 毎日OBで自民党幹事長だった安倍晋太郎がリークした、とのウワサが当時
流れたのは事実です。安倍はこのあとまもなく、すい臓がんの手術をし、翌々年
亡くなります。官邸に竹下登首相がおり、与党幹事長の要職に安倍がいたとはい
え、天皇問題で歴史的なミスとなるような軽率な連絡はしないでしょう。このウ
ワサはすぐに消えました。

⑥ また、当時はインターネットやWEBもありませんでしたが、テレビの速報
はありました。しかし、系列のTBSでも流されていません。「テレビ速報で漏
れてはトクダネにならないので」といいいたいところでしょうが、新聞業界の常
識で申すならば、<「三〇分前の入手」ならもう時間の問題、漏れて悔いなし>
の状況です。社会的影響からしてもまずは報道して、国民の知りたい期待に応え
るとともに、毎日の「歴史的スクープ」を誇っていたはずです。

6> 真相を推理すると・・・
 毎日がこの日の夕刊で、朝日、読売よりも1版早い3版で報道したのは事実で
す。ただ、これは物理的問題でもあります。

 当時から「毎日は部数が少なく、印刷が速く終わる。前の版の降版を遅らせて
突っ込んだだけ」とされていました。つまり、トクダネ競争に勝った、というよ
りも、印刷部数の少なさ、輪転機の扱いで早かった、ということになります。つ
まり、緒方記者のケースのような取材競争ではなかった、ということになります。
 このような、きわどい時間的競争で競り勝つ事例は、新聞社では少なくありま
せん。

 「早かった」のは「抜いた」ことではない、との客観的な説明を縷々述べてき
ました。ひとこと付け加えれば、「毎日は優れた新聞である」ということに変わ
りはありません。
              (筆者は元朝日新聞政治部長)

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