■ 【エッセイ】

個性を育てるアメリカ        武田尚子(ヤリン)

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  移民帰化局の広いホールで、アメリカ市民としての宣誓式が終わると、夫が晴
れ晴れと笑った。「良かったね」「うん」 会話はそれだけだったが、複雑な思
いは後を引いた。あのていねいな黒人女性とのインタビューが私の祖国を変えて
しまったのだろうか。この国に根をおろしてからの長い歳月、国籍についてはな
んのプレッシャーもかけず、私の気持ちを尊重してくれた夫と、それにならった
子供たち。 しかし大統領選挙のたびに、後めたさはつのった。

 この国に暮らし、この国に骨を埋める覚悟を固めているというのに、なぜ私は
一票の権利、一票の責任を行使しないか。自問しながらも、母なる国へのきずな
はいかにも断ちがたく、いつしか三〇年近い月日が流れたのである。

 ニクソンが大統領として二度目の宣誓をし、アメリカがウオーターゲートのス
キャンダルでもちきりになった七三年, 夫と私はニューヨークに近いニュージ
ャーシーの郊外に家を買った。日米間を往復して、二〇年近くを工業製品の製造
と貿易にたずさわる自営のビジネスマンとして過ごした夫は、二年前の結婚以来
しきりにアメリカに帰りたがった。 

 ついには「生まれてくる子供から、アメリカの大統領になるチャンスを奪って
はならない」と、冗談に託して私を説得したあげくの大引越しである。数ヵ月後
に長男が、七七年には次男が生まれた。神々しいまでの紅葉の饗宴のさなか、水
色の毛布に包まれて,生まれたばかりの長男が始めて顔を見せた十月のあの日に,
  私のアメリカが本当に始まった。
 
  長男は中学から、ハドソンの川向こうの私立校に通った。教師陣には教育への
識見と情熱を持つ人が多く,何人かの博士号取得者も,犬を連れて教室にはいる変
わり種の教師もいた。名門校の常でエリート大學への入学熱が高まると,息子は
級友をスノッブと呼んで軽蔑し,親にも教師にも反抗して、高校二年になるころ
までかなり成績を下げた。 夫は「自分で望むようになるまで放っておけ」とい
う。黙ってみているのは容易ではなかった。
 
  親にも息子にもつらかったこの時期に一つの事件が起った。幼時から物つくり
が好きで,いつも地下室で何かを作っていた息子は, ある日,ビン入りのモロト
フ爆弾を作って近所の植え込みに投げたのである。たまたま通りかかったパトカ
ーに追われてわが家に逃げ帰った彼は, 父親と二人で警察に出頭する仕儀にな
った。

 息子が発明クラブの会長を長年続けていること, 好奇心からM80という
火薬を使ってみたかったが,誰にも絶対に危害がないよう,植え込みから家屋まで
の距離がいちばん長い家を周到に選んで植え込みに投げたという説明が認められ
て、六ヶ月間品行方正であれば,息子の学校にも知らせない,記録にも残さないと
いう寛大な処置になった。おそらくこれが、真剣に将来を考えさせるきっかけに
なったのだろう_彼は勉強を再開してかなりの失地回復をした。しかし,大学の
選択はすでに目前に迫っていた。
 
  アメリカの大学入試は,全国共通の基本的な英語と数学のSAT テスト,学校の成
績と教師の推薦文、志望校が父兄の出身校でもあるかどうか、さらに将来の希望
となぜこの大学を志望するかというエッセーが中心になる。 息子は自信を失っ
ていたのと、調べているうちに行きたい工業大学が次々にでてきたために、結局
アイヴィリーグ二校とMITを含む一三校に願書を出した。したがってエッセー書
きも膨大な量になる。最後の締め切りは大晦日の夜になったが、その夜の消印が
必要とあって,エッセーの最後を打ち込む長男を,車にエンジンをかけた夫が今か
今かと待っている。

 わが家ではこのアクロバットにも似た願書投函が,ここ数日続けられているの
である。その夜は私も同乗してマンハッタンの中央郵便局にいく。そこで見たの
は、午前0時までの二〇分ばかりを長蛇の列に並び、バックパックを背にエッセ
ーを書き続ける若きサムライたちの姿だった。 一人一人、若者の肩を抱いてや
りたいような愛しさに駆られたのを覚えている。
 
  ふたを開けてみると、息子はMIT(マサチューセッツ工科大学)以外すべてに
合格していた。MITは第一志望校であり、失望を隠せない彼に,私たちの敬愛する
ラビ(ユダヤ教の学者でユダヤ人社会の指導者、多くは司祭)の言葉を思い出さ
せて慰めた。「たとえMITに入れても大學レベルではあそこにやりなさんな。 
燃え尽きてしまうからな。 ほんとうの勝負は大学院からだよ。」

 MITへのエッセーに息子は,科学技術への挑戦を生涯の仕事にしたいこと,中学
時代からMITのMedia Labに憧れていたこと、さらに広島の原爆記念館で見た原
爆の現実へのショックを述べ,どんなことがあっても自分は軍事的な研究には手
を染めないという誓いで結んでいた。それは少年の情熱と清潔さにあふれたさわ
やかな一文だった。彼がMITに失敗したのは,勉強を怠けた時期のためだったかも
しれないし,あるいは元ニューヨーク大学の教員だった友人がいったように「い
いエッセーだけどポールは入れないよ。

 MITはかなり軍事研究に身を入れているからな」ということなのかもしれな
い。いずれにしても息子は、ラビが哲学を教えられたペンシルバニア大(Uペ
ン)で羽を伸ばし,カリフォルニア熱にとりつかれて大学院はまずスタンフォー
ドに行った。専門の機械工学を卒えたあとさらにMITにゆき、Media Lab入りの
夢をはたした。ここではMedia Arts & Scienceを専攻し、現在はハイテクのデ
ザインコンサルタント会社を開いている。

 そのかたわら、4年前にはボランティアとして、LAの恵まれない子供たちのた
めに科学技術の基本を教える小さな「Iridescent School](にじ色の学校)玉虫学
校」を作った。その努力が認められ、今年はNY市にもベースを作るよう資金を与
えられた。燃え尽きるどころか、新しいプロジェクトを与えられるたびに、意欲
満々で難問にとりくむ姿を見ていると,ラビの卓見にしみじみ頭が下がるのであ
る。

 次男は五歳からマンハッタン音楽院の幼児部に入り、ピアノの生徒として高校
卒業まで毎週土曜日はここに通った。 ある日コーラスの先生に呼び止められ
て,ニューヨーク市立オペラが毎年一回上演する名作ミュージカルの子役を募集
している。ぜひオーデイションを受けさせなさいといわれる。その日のうちに合
格がきまり,翌週からリハーサル,その後二ヶ月間の公演と告げられる。

 これはロジャーズ&ハマーシュタインの「南太平洋」のリバイバルであり,息
子はあのポリネシア人姉弟の弟役を演じる。マンハッタン音楽院の校長先生もコ
ーラスの先生も観劇に駆けつけてくださるし、小学校の校長先生も担任の先生と
一緒に来てくださる。 舞台をおえて帰宅はほぼ真夜中になる息子のために,午
前中は授業に出ないでよいと、特例を設けても下さった。
 
  ミュージカル出演という個人的な事件が,先生方のこれほどの祝福と励ましで
迎えられることに私は心をうたれた。個人の資質の発見や育成の機会があれば、
もろ手を上げて後押ししてやるアメリカを肌で感じる。音楽一般に対する学校の
柔軟な対応にも胸のすく思いをした。古典につながる音楽だけを優れた音楽とみ
なす教養主義が日本にはないだろうか。知育偏重の日本を思わないわけにいかな
かったのである。

 次男はその後クラシックからジャズへと興味を移し,ジャズ科のある総合大
学、ニューヨーク大学でジャズを専攻した.。卒業後ジャズをひきながら、生活
の助けにミュージカルのピアノ奏者としてのオーデイションを受けた。小劇場と
はいえ、弱冠22歳の学生上がりが、二作目から音楽監督のポストを譲られた時
も、「アメリカならでは」の思いを深くした.。以来、次男は数多くの劇場で音
楽監督を務め、ジャズを弾き、厳しいニューヨークの音楽界で、いつの日か自分
の場所を得たいと、作曲に打ち込んでいる。

 2年前、リトアニア駐在の日本の外交官として、ナチスに追われるユダャ人の
ために6000枚をこえるビザを出したといわれる杉原千畝を描いたミュージカル作
品センポが日本で創られた。若輩ながら次男はその作曲を中島みゆきさんと担当
した。いつの日か、彼のオリジナル作品が陽の目を見る日を、私たちはどんなに
楽しみにしていることだろう。

 私自身は,主婦の仕事の傍ら,弘文堂からは『イタリア人』を、サイマル出版会
では『子供たちの王様』『アメリカのユダヤ人』『学校って何だ』『ジェニーの
日記』ほか, 主としてノンフィクションを翻訳した。長引く不況の中で、高い
理想を掲げたサイマルが、日本の出版界から姿を消したのは、惜しんであまりあ
る。
 
  みすず書房では,『独り居の日記』でメイ.サートンを初めて日本に紹介する
ことになった。サートンは1912年生まれの詩人で、小説、回想記やジャーナ
ルの作家でもある。その後『夢見つつ深く植えよ』『今かくあれども』『私は不
死鳥を見た』ほかサートン作品の翻訳を続けることになった。「独り居の日記」
は、日本でもすでに15刷を重ねた。ほかに、『不死身のバートフス』は、アハロ
ンアッペルフェルドによる、ホロコーストを生き延びた男の精神の蘇生への模索
を描いた特異な作品である。何冊かの訳出書の中でも、私にはふしぎな愛着があ
る。
 
  長男も次男も独立を果たして夫のプレッシヤーは減ったが、彼は健康で2002年
には中国の河南省に貿易のオフィスを作った。80歳を越えても、彼は年に2回の
中国行きを欠かさない。頭の回転も、飛び切りのユーモアセンスも健在である。
 
  残された二人の一日一日がみじかすぎることだけは、私たちの力ではどうにも
ならない。しかし、夫と子供たちに支えられて30数年,アメリカはこうして私
の国にもなった。

 初めて私が大統領選挙に一票を投じることができたのはイラク戦争のさなか、
2004年のことだった。あれからのアメリカ社会の変貌と多難には想像をこえるも
のがある。オバマが登場したとき、私は金の力が全てではなかったと、アメリカ
の民主主義への信頼を回復したひとりだった。

 しかしオバマへの挑戦は苛烈であり、二つの戦争と富者優待の経済政策でアメ
リカを異例の債務国にしてしまったブッシュの負の遺産を克服する前に、早くも
中間選挙が迫っている。言われているように民主党がここで議会の大多数を喪え
ば、その後のアメリカはますます二極化が進み、ますます庶民には暮しにくい国
になるだろう。

 各国の相互依存がこれほど深まり、その運命を見守る世界中の視線がアメリカ
に注がれている今、ひとりアメリカのためではない, わが魂のふるさと、わが
愛の日本につながる一票でもあれかしと、切なる願いをこめて、ことしも私の一
票を投じよう。

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