【コラム】
ザ・障害者(22)

人権とリスク

堀 利和


 商店街の薬局には店の前に「クスリ」という看板がある。この看板の「クスリ」を下から読むと「リスク」になる。薬には必ずといっていいほど副作用がある。だから「クスリ」は「リスク」と背中合わせ。こんなシャレのような話を、人権の問題に関わって書いてみたい。書きようによっては、また理解の仕方によっては大いなるリスクを伴うことにもなりかねないが・・・・。

 話は私が参議院議員をしていた時のことである。私は当時社会党の議員で、その社会党の重鎮の議員が、精神障害者のことにふれて法務委員会で質問した。たしかこの頃、いわゆる「精神障害者」だった人が傷害事件を起こして、ニュースで取り上げられていた。
 その質問は、「毒蛇を公園に放し飼いにしているようなものだ」という比喩的なものだった。当然問題視され、社会党の国会対策委員会や法務部会で取り上げられ、私も障害者議員としてその対応に迫られた。この質問内容の問題性を率直にどう考えるべきか、しかしその一方では残念ながら国会対策上いかに穏便に収めるかの取り扱いにもなった。質問者がたとえば私のような一年生議員であれば議事録からその箇所を即削除、だが質問者はベテラン議員であるため、結局、議事録から削除されることもまたそれに応じることもなかった。そのまま残された。

 法務部会での議論では、私にとって意外な、かつ感銘的ともいえる部会長の発言があった。
 「人権を守るということは、そこにはリスクもある。そのリスクも認めて、人権は保障される」というものであった。つまり、精神障害者の人権を守るということには、なんらかの社会的リスクが伴わざるを得ない、そのリスクを引き受けなければならない、そうでなければ人権は誰にもすべての人に保障されないという見解であろう。
 これには当然猛反発もあろう、それでは犠牲者はどうなる、犠牲者の人権はどうする。あなたが犠牲者になってもいいということですね?

 口ごもらずに反論するつもりはない。しかし、たとえ一部の人の人権であってもそれを制限すれば、結局、幻想上の人権保障、結果、すべての人の人権侵害・制限につながりかねない。すなわち、リスクを伴わない本当の人権保障などあり得ないといえるだろう。
 説明を変えれば、危険とされる遊具が公園から撤去される。危険を100パーセント回避するには、危険とされる遊具を100パーセント撤去する他無い。もちろんいうまでもなく1パーセントの危険を放置してよいというわけでは決してない。設計上のミスやボルトのゆるみの見落としなどは論外だが、100パーセントの安全はむしろ何もしない、何もないこと、それに勝るものはないであろうが、これまた非現実的なものである。
 防災も昨今減災と言われ始め、想定外を想定内にする努力は必要だが、100パーセントの防災がかなわないように、だから減災へと舵を切ったのではなかろうか。100パーセントの防災は幻想上の防災にすぎない。

 話を元に戻すと、精神障害者の人権を守ることはすべての人の人権を守ることにつながると、私は確信する。そのためのリスクは、すべての人が引き受けるべきであろう。幻想上の人権保障論にしないためにも。
 差別構造とはそういうものであって、100人のうち100人めを差別排除すると、次に99人めの人を差別排除し、98人め、97人めとなり、差別排除する側の中に差別排除が温存される。差別構造とはまさに構造的なのである。 

 (元参議院議員・共同連代表)

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