【コラム】
『論語』のわき道(5)

人とのむすびつき (友に信)

竹本 泰則


 孔子の弟子である曽子(そうし)は日々「三省(さんせい)」をしており、その中で友人との交際については「信」を守っただろうかと自問している。
 友人関係と信とを組み合す例は『論語』のほかの章でも見られる。
 あるとき孔子は傍にいた二人の弟子に向かって平生どんなことを心がけているか言ってみなさいと促す。めいめいが答え終えた後で、弟子が「先生ご自身はどんなことを心がけていらっしゃるのですか」とかえす。それに応えて孔子が述懐した言葉だ。
 孔子はこういう人になりたいと考えていたようだ。

  老者(ろうしゃ)はこれを安(やす)んじ、
  朋友(ほうゆう)はこれを信(しん)じ、
  少者(しょうしゃ)はこれを懐(なつ)けん

 年老いた人には安らかな気持ちで接してもらい、
 友達からは信頼され、若者からは慕われる

 起源が何にあるか知らないが、友人関係と信とを結びつけることはほとんど常套化したような感がある。
 孔子が世を去ってから百年ほど後に生まれ、孔子の後継者ともいうべき人である孟子(もうし)は人間社会の秩序を保つ原則を五つにまとめて次のように説いている。

  父子(ふし) (しん)有(あ)り、君臣(くんしん) (ぎ)有り、
  夫婦(ふうふ) (べつ)有り、長幼(ちょうよう) (じょ)有り、
  朋友(ほうゆう) (しん)有り

 この思想は「五倫(ごりん)」と称されて、孔子が説いた仁、義、礼、智などといった道徳とともに、その後長く続いた儒教社会において人倫の中核的な教義とされたという。

 儒教思想は我が国にも大きな影響を与えている。
 もともと中国文化を積極的に取り入れてきた上に、江戸時代には長く鎖国政策が採られて、世界の思想、文化を広く知る機会を潰してしまった。その中で、朱子学が官学的な地位を得たことにより、日本人のものの考え方は儒教思想に一層強く染まったように思えてならない。
 明治の半ばに公布された「教育勅語」の中には次の句がある。

  父母(ふぼ)に孝(こう)に、兄弟(けいてい)に友(ゆう)に、
  夫婦(ふうふ)相和(あいわ)し、
  朋友(ほうゆう)相信(あいしん)じ・・・

 教育勅語はこの国の道徳教育の基本と位置付けられ、さらには先の大戦時、軍国主義高揚の経典としても利用され続けた。この勅語が最終的に失効したのは昭和二十三年である。従って、多少うろ覚えの部分があるにしても今もって中身を憶(おぼ)えているという人、あるいは「奉読」を聞いていたという人は珍しくない。いわばごく最近まで「朋友に信」の思想は当然の理(ことわり)として居座っていた。

 信とは事実を隠したり歪曲したりしないこと、自身の言葉や人との約束事といった自分が外部に表出したものと自分の行いとが違(たが)わないこと……、こういうあり方をいうと解釈するならば、それは単に友人関係に限らず、広く人と人とのむすびつきを成り立たせる絶対的な条件になる。
 現に『論語』の中には信の文字が三十一章に登場するが、そのうち明らかに友人関係の文脈でこの字が使われているのは三章にしか過ぎない。信は単に友人との間に限るはなしではないのだ。親子であれ夫婦であれ、その間に信がなくなれば、そのむすびつきはほころび切ってしまう。それにもかかわらず、なぜ友人関係にことさら信がいわれるのかがいぶかしい。

 友達と紛らわしい言葉に仲間がある。家族以外の人間関係にはいろいろな形態があるが、ほとんどのものは仲間か友達という枠でおさまる。ただこの二つ、境目がはっきりしない。
 いわゆる仲間とは特定の目的とか行為の対象などを共有することによってできる人と人との関係と定義できるだろう。そこでのかかわり合いは目的や行為が優先しており、ひと同士の心情的な親和は絶対的条件にならない。これに対して朋友、友達という間柄は逆であって、心情こそが決定的なものになる。気が合うから友達なのであり、いったん友達の関係ができてしまえば、共通の目的といったものの必要性は二の次、三の次である。
 このように考えると疑問の答えらしいものが見えてくる。

 仲間という間柄を保つために信は必ずしも必要条件ではない。仲間の内に信を欠く者がいても、そのことを承知した上でその人との距離をおけばいいし、それができる。しかし友人の場合は、信を欠いては初めから関係そのものが成り立たず、中途でそうと分ればその刹那に友人関係は切れてしまう。信は友達という関係においてこそ決定的な条件になるといえそうだ。
 友人関係に信がいわれる所以はこんなことだろうか。友達や仲間に対する定義を含めて単なる思いつきの域を出ないか・・・?

 こんなことをぼんやりと考えていた折も折、さるテレビ番組で方言が話題になっていた。
 津軽弁では友達を「けやぐ」といい、その語源は「契約」だという。信という語の原義に結びつく約束(契約は約束事の典型だ)と友達という言葉にこんな接点があった!
 とはいっても非常に限られた地域の特殊な方言に過ぎない・・・これを一般論までに敷衍するのは余りに無茶であること、もちろんである。

 別の面からも考えてみる。
 噓をつくこと、これはもちろん信にもとる行為である。しかし「私は生涯一度も噓をついたことがありません」などと言える人は一人としていない。言えば、それこそ紛れもない噓である。ならば、信とは理想、つまり目指すべきことではあるけれど基本的には到達できないもの、そういう理解をすべきではないか。
 人がつくり出すこの世の中、噓もあれば偽りもある。ずる、ごまかしもあればいんちき、いかさまもある。信ならざることが常態といえばいえる。だからこそ理想としての信をことさら「信」じたくなる。その思いが昂じたとき、打算や義理などに汚されることがない無垢な関係としての友達が浮かび上がり、そこに信の実現がことさら強く希求された。
 こんな風にも考えられるか・・・?

 それかあらぬか、電子版・日本経済新聞に教えられたことだが、現代の子供達は友達との関係を親友、新友、真友、心友、信友などと使い分けるという。因みに親友は本来の意味のほか親同士が友達という関係にもいうそうだ(であれば、これは「おやとも」と読むのだろう)。記事によれば日本国語大辞典(小学館)には、「心友=心を許しあっている友人」、「信友=信頼できる友」、「真友=真実の友」が採用されているということであった。
 子供によくある単なる言葉遊びだろうか。それとも真に信じあえる心の友への渇望なのだろうか。

 友人関係にことさら信がいわれる理由については今もって完全な得心に至っていない。

 (「随想を書く会」メンバー)

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