【オルタ広場の視点】

中曽根視察団阻止の長島事件と芦浜原発反対運動の37年間

仲井 富

① 反対運動の第一ラウンド 南島町と長島町漁協の賛否をめぐる決闘
② 第二ラウンド 中曽根視察団実力阻止「長島事件」で25人が逮捕
③ 第三ラウンド 南島町漁協の受け入れ決定を覆した女性と若者の決起
④ 決め手は81万人県民署名と自民党県議団の変化 ついに完全勝利
⑤ 芦浜原発を止めた南島町民の戦い 脱原発みえネットワーク事務局長 柴原 洋一
⑥ 芦浜原発反対闘争の歴史 1963年~2000年 柴原洋一/作成

<はしがき>
 オルタ前号で「中曽根元首相と正力社主~平和利用の象徴として原発をヒロシマへ」というテーマで中曽根元首相の原発平和利用への執念を書いた。
 1955年に広島へ原発誘致を迫った中曽根元首相は、1966年には三重県芦浜原発反対闘争の初期に現地へ乗り込んで原発誘致の先頭に立った。紀伊半島は三重県、和歌山県にまたがっている日本最大の半島だが、いまここに原発は一基もない。原発設置計画は中部電力、関西電力を合わせて芦浜・熊野(三重県)日置川・日高(和歌山県)と併せて計4カ所に及んだが、住民運動の粘り強い抵抗で2000年2月完全中止をかちとった。

 1963年の中部電力による原発計画公表以来、37年間の歴史を持つ芦浜原発計画は2000年2月22日、北川正恭三重県知事の県議会における「白紙撤回」表明、これを受けた太田宏次中部電力、社長の「芦浜断念」の記者会見によって、ついに終止符を打った。9年前の福島原発事故はいまなお収拾の見込みすらない状況だが、幸いにして日本人の精神的支柱ともいえる伊勢大神宮は原発放射能の危険にさらされる可能性は低い。原発立地をことごとく阻止した三重、和歌山両県の住民運動の成果である。

 私はかつて1970年代のはじめに芦浜原発の現地を取材した。当時は夜汽車で東京を立って名古屋、津などを経由して現地に行ったものだ。鳥羽市に海の図書館を作り、芦浜原発反対にも取り組んでいた石原義剛さんを訪ねて、貴重な示唆をいただいた。最終局面の2000年には、伊勢市に在住する住民運動のリーダー柴原洋一さんや津市の高木一さんらに白紙撤回にいたる話を聞きに行った。本稿を書くにあたってもういちど芦浜原発反対運動の資料を読み込んで、改めて37年間の筆舌に尽くせぬ歴史的住民運動の労苦に敬意を表した。

◆◆ 反対運動の第一ラウンド 南島町と長島町漁協の賛否をめぐる決闘

 1963年11月、中部電力と三重県が熊野灘沿岸の原発建設計画を公表。候補地点に芦浜(南島町)、城ノ浜(紀伊長島町)をあげた。翌64年、芦浜原発立地予定地の南島町議会と7漁協がそろって原発反対を決議。同じく芦浜立地予定地の紀勢町議会などが原発誘致を決議した。南島町反対、紀勢町推進の構造は基本的に37年間に変わることなく続くことになる。両町にまたがる原発立地計画は、推進にせよ中止にせよ決定的な方向を見いだせず、紆余曲折の末、2000年についに白紙となった。

 1963年7月28日、関係漁協による原発反対中央闘争委員会は、原発の“実力阻止”を決定、一方、錦漁協に対しては、同一歩調をとるように最後通告を出した。8月には県下漁民3,000人による原発反対漁民大会が開かれた。このころ、南島町古和浦漁民が、誘致に賛成した錦漁民に投石するいわゆる“羽下橋投石事件”が起きた。これに対抗して錦漁民が復しゅうを図るなど不穏な空気となったため、三重県警は600名の警官と60台の自動車で警備配置についた。また古和浦漁協の船団に錦漁協の船がつかまり、無線機を破壊され、なぐりつけられて血みどろになって帰るというような小競り合いもあった。錦地区の古老によると「ワラビ取りに出かけた女子2人が、南島町側の人間に追い廻されて、深夜まで帰れなかった。また最後には錦地区を焼きはらうというウワサまでとんだ」と漁民同士の対立の激しさを語っている。

 このように芦浜原発は、南島町漁民の町をあげての実力阻止闘争と、紀勢町の当時の町長でもあった吉田為也を先頭とする誘致運動との対立という構図のまま推移していくのである。この対立抗争のなかで中電は、紀勢町を拠点にして芦浜立地を強引に押し進めた。1965年2月に中電は「芦浜原発用地のうち紀勢町側と南島町側の土地買収を完了した」と発表した。これに対して南島町は、それまで別々であった町当局と漁民の運動組織をはじめて一本化し「血をもっても芦浜原発を阻止する」との決意を表明、敢然として積極的な行動を打ち出した。

◆◆ 第二ラウンド 中曽根視察団実力阻止 「長島事件」で白紙還元 25人が逮捕

 1966年9月19日、長島町名倉港で中曽根康弘代議士ら衆議院科学技術振興特別委のメンバー4人による芦浜視察を、南島町漁民が船に乗り込むなどして実力阻止し、25人の漁民が逮捕、起訴されるという有名な「長島事件」が起こった。
 原発推進を主導してきた中曽根康弘代議士を長とする衆議院科学技術振興特別委員会の一行は、長島町名倉港を出航して海から芦浜を視察する予定だったが、反対漁民の船団にとりかこまれて身動きできず中止するに至った。最初南島町側は、視察阻止までは考えていなかったが、中電社員が中曽根と「もがみ」という視察船に乗っていたという。「もがみ」は19日午後2時ごろ、名倉港の岸壁を離れた。古和浦漁協を中心とした約300隻の船団が「もがみ」を取り囲んだまま移動した。「もがみ」は150メートルほど進んだ。すると突然、漁民の1人が船上から「中電の者が乗っとる」と叫んだ。漁船が次々「ばかにするな」と「もがみ」に接舷した。そして船上に多くの漁民が乗り込んで抗議する騒ぎとなった。
 各漁船に『中電が乗っている』と広がって、漁民が「もがみ」に乗り込んで抗議する始末となり、他の漁船からは放水され、ほうぼうのていで中曽根調査団は引き上げざるを得なかった。

 このみせしめに反対闘争のリーダー25人が逮捕された。逮捕された漁民の拘置が長期化する中、県漁連の一行が上京して、釈放の助力を中曽根に求めた。
 県漁連副会長の山下健作は当時の模様をこう証言する。
 ――「議員会館で『仲間たちが釈放してもらえるよう検察に働きかけて下さい」と訴えました。中曽根さんは三つ揃いの背広をパリッと着ていました。そして、ひとこと言ったのです。「原発を受け入れなさいよ。そうすれば、すぐに解き放してあげる」。みんな黙ってしまいました。――

 1967年1月14日、被告漁民が釈放される日には、南島町七漁協の組合長がタクシーに乗り、そろって出迎えた。罪をひとり負った形となった古和浦を「孤立させてはならない」と、町内の結束はむしろ強くなっていった。長島事件は確実に、芦浜原発計画を追い詰めて行くことになる。戦後の公害反対運動で一度に25名が検束され有罪となった例はない。それほど決死の覚悟で南島町の漁民は闘ったのである。
 そして1967年9月、熊野灘一帯の漁協代表から「原発の白紙還元」を迫られた田中覚・三重県知事は記者会見で「県の方針を180度転換し、芦浜原発計画に終止符を打つ」と声明。同原発計画は終わったと見られた。ところが翌年、田中知事は現地で「棚上げしただけ」「白紙還元しただけ」と言葉を替え、新たな推進活動を始める。

 72年に初当選した田川亮三・三重県知事は76年に「電源立地4原則」①地域住民の福祉向上に役立つ ②環境との調和が十分図られる ③地域住民の同意と協力が得られる ④原子力発電においては安全性の確保―を掲げ、芦浜原発問題を再燃させた。77年には国の「要対策重要電源」に指定、三重県は84年から電源地地域対策費など原発関連の助成金を国から受け、計画地の紀勢、南島両町や周辺6町村に交付してきた。99年度で年間7,660万円(うち1,000万円は県単独予算)に上っていた。
 1985年には県議会も「芦浜原発立地調査推進」を決議した。しかし三重県が決めた4原則のもっとも肝心な「地元住民の同意と協力を得る」ことには成功せず、ついに2000年に北川恭三・三重県知事の「白紙撤回」表明で終止符を打つことになった。「まだ安心できない」と地域住民にいわしめるほど、三重県政にふりまわされた37年間だった。

画像の説明
  (伊勢新聞1963年9月20日朝刊)

◆◆ 第三ラウンド 南島町漁協の受け入れ決定を覆した女性と若者の決起

 第3には、芦浜原発を白紙に追い込んだのは94年12月の「確認書・覚書」といわれる。それは芦浜原発反対運動が漁協中心から女性たちを中心とする住民運動に発展した時期だった。
 1994年、芦浜原発計画に対する反対運動は最大の苦境に立たされていた。それまで反対だった南島町古和浦漁協が中電の買収工作によって原発反対決議を撤回した。つぎは海洋調査の受け入れを決議する「臨時総会」が予定された。このとき、南島町民の女性や若者たちが決起した。南島町における芦浜原発反対闘争を担う中心部隊として第3世代ともいうべき青年らによる「南島町原発反対の会」(小西啓司代表)が結成される。

 1993年1月17日、古和浦漁協が臨時総会を開いて調査受け入れを決議しようとした日、漁協前に老若男女3,500人が座り込み、警官隊と対峙した。南島町原発反対の会と母の会主催によって、古和浦漁港広場で原発反対集会と中部電力新営業所へのデモを行った。芦浜原発闘争史上最大規模となる集会だった。
 人々の身体生命を賭した抵抗の前に、警官隊も譲らざるをえなかった。住民は実行行使によって臨時総会を流会させた。事態収拾のため、仲介に入った尾崎彪夫三重県副知事の提案で、確認書が交わされた。確認書は ①稲葉町長は総会実施に向け、混乱回避の努力をする ②中部電力は、総会で調査が受け入れられても、町長、町内各漁協の同意なく調査を実施しない ③町と中電は話し合う場を持ち、三重県は調整、あっせんを図る―という内容だった。これが決定打となった。南島町の女たちと若者が漁協の受け入れ決定を実力で阻止したのだ。

◆◆ 決め手は81万人県民署名と自民党県議団の変化 ついに完全勝利

 確認書を補足する形で作成された覚書は立地活動については ①町内の混乱回避のため向こう1年間の冷却期間を設ける ②立地交渉員の活動を休止する、など中電の譲歩を盛り込んだ内容となっている。尾崎副知事(当時)が提案。県、県漁連の立ち会いで「確認書」と「覚書」が取り交わされ、海洋調査は事実上不可能となり、芦浜原発計画の息の根は止まった。

 第4に決定的となったのは、95年4月から始まった県内有権者(当時141万人)の過半数獲得をめざす芦浜原発反対署名運動だった。南島町原発反対闘争本部(本部長・稲葉輝喜町長)を中心とする県民署名だった。
 県内7漁協や三重県教組などが力を合わせ署名運動を開始、95年から96年にかけて、全県民を対象にした「三重県に原発いらない県民署名」は過半数を超え、96年5月に北川三重県知事と三重県議会あてに約81万人の署名簿と建設反対申立書を提出した。そして97年3月県議会での「南島町芦浜原発計画中止請願」の採択となった。まず自民党県議団が最初に南島、紀勢両町を調査して、「3年間の冷却期間。早期決着」の方向を固め、全会一致でこれが決まった。当時有力な自民党県議は「芦浜はこれで終わった。つぎの選択肢を考えるときだ」とまでいっている。

 南島、紀勢両町のある三重県度会郡は県議定員3名。このなかには自民党2名、県民連合1名の県議がいる。県内有権者の53%の「原発いらない署名」運動は、当時、北川県政野党の自民党県議団にも大きな影響力を与えた。1985年には自民党が中心の県議会で立地調査推進を強行決議したが、冷却期間の音頭をとった当時の自民党県団の幹部は「野党であること、世代交代で自民党も若返ったこと、時代の波に敏感になったこと」などを理由にあげている。北川知事の決断を後押したものは、与野党が全会一致で、81万署名にこめられた県民の意思を受け止めた「請願採択」にあった。

 南島町の旧役場前に「芦浜原発をとめたまち」という記念碑が2000年2月22日に建立された。「平成十二年二月二十二日、県議会の冒頭、北川知事が「地域に混乱をもたらした責任の一半は県にもある。芦浜原発は白紙にすべき」と宣言され終止符が打たれた。この碑は三十七年間の苦悩の戦いが、二度と繰り返されないことを祈念して建立する」と刻まれている。

画像の説明
  (芦浜原発を止めたまち 記念碑 南島町旧役場前)

◆◆ 芦浜原発を止めた南島町民の戦い 脱原発みえネットワーク事務局長 柴原 洋一

 2月22日の三重県議会で北川正恭知事は「芦浜原子力発電所建設計画は白紙に戻すべき」との見解を示した。これを受けて中電社長は同日直ちに「芦浜断念」を発表した。37年にわたって地元住民を苦しめ続けた中部電力芦浜原発計画は一瞬にして消え去ったのである。

 建設に抵抗した住民にとってあまりにも長い歳月を経ての結論ではあった。ではなぜ今計画を消滅させることができたのか。知事が「白紙」にするのが正しいのだとする論理は一つしかない。「地域破壊」である。この字句そのものは議場で読み上げられた知事見解にはない。しかし、見解に書かれていることは、住民側が様々な機会に訴えてきたことだが、地元地域社会の人間関係の破壊そのものである。それを理由として、地域破壊の原因となっている原発計画を白紙にするべきだという見解だった(知事は原子力発電については必要であると述べている)。
 そして、この論理は、知事見解に先立つ3年前、南島町と紀勢町に直接意見聴取に訪れた自民党三重県議団が、調査結果をまとめて「冷却期間」の設定を提案した「見解」とそっくり同じである。こちらには「地域破壊」の字句がある。自民県議団は、その見解において、原発計画による「地域破壊」を「認定」し、「冷却期間、実情調査、早期決着」を知事に迫ったのだ。県議会の手続きの上では、この自民見解を参考にして、南島町長が上記三項目を骨子とする県議会請願を提出して、これを全会一致で採択し、知事に縛りをかけた、という形をとった。1997年3月のことである。自民党県議団は、請願採択の後にも、知事の動きが鈍いことを批判し、請願内容の実施を催促までしている。

 県議会最大会派の自民党が、原発計画破壊という現在の状況を生み出したと言えば、それはいかにも奇異に聞こえるだろうか。地元への調査も異例なら、あのような見解発表も異例ではないだろうか。なぜ、原発推進が党是であるはずの自民党の県議団が、結果的に原発破棄につながった見解を述べたのか。そもそも、なぜ、現地調査まで行うことになったのか。知事の見解でも、自民県議団の見解でも、いっさい触れられなかった事実。公然たる事実であり、誰にとっても明白な「理由」が、見て見ぬ振りをされている。
 それが82万にのぼる原発計画破棄を望む県民署名の存在である。

 この「三重県に原発いらない県民署名」は南島町芦浜原発阻止闘争本部(本部長は南島町長)が実施した。知事には原発計画破棄を、県議会には、1985年の「原発調査推進決議」の破棄を要望するものだった。16歳以上の県民を対象としたもので、署名欄に、成年・未成年の区別を設けて、有権者の署名数も把握できる形にした。1996年5月に知事と県議会議長に手渡されたこの署名は、当時の有権者数約141万人にたいして、署名有権者(成人分)75万人という、「歴史的な成果」をおさめた。
 署名そのものは、何の法にもよらない、単なる要望署名と言えば言える。しかし、それは実質的な県民投票であり、県民意思は明白であった。とすれば選挙で選ばれた県会議員と知事がこれを無視できなかったのだと思うほかはない。

 では、この県民署名はどのようにして始まったのか。署名運動開始は1995年、11月だが、話はさらに前年に遡る。1994年末、芦浜原発計画に対する抵抗闘争は、最大の苦境に立たされていた。
 南島町古和浦漁協による中電海洋調査の受け入れ決定である。ただし、このとき、南島町民は指をくわえて見ていたわけではない。古和浦漁協が臨時総会を開いて調査受け入れを決議しようとした日、南島町民2,000人が会場となった同漁協事務所前に結集した。人々の多くはそのまま事務所前に座り込み、警官隊と対峙することになる。人々の身体生命を賭した抵抗の前に、警官隊も譲らざるをえなかった。住民は実行行使によって臨時総会を流会させたのである。

 この国においては、結局のところ、身体生命と生活を賭した実行行使をも辞さない住民側の「力」抜きには、状況は切り開けないのだ。南島町民のその「力」あればこそ、37年の苦闘に耐えることができたのだし、82万の署名を集めることが可能であった。
 南島町民による古和浦漁協前の座り込みを見たとき、中電幹部は恐怖に襲われたに違いない。それこそ彼らには理解しようのない「力」だったのだと思う。すぐさま中電は南島町との協定に応じる。「古和浦漁協が海洋調査受け入れを決めても、南島町長と町内漁協の同意がない限り調査はしない」というものである。こうしてあらためて臨時総会が開かれて、受け入れは決議された。

 「この協定によって事実上、芦浜原発計画は終わった」とする見方がある。先に述べた「苦境に立たされていた」とは180度正反対の見方となろうか。では、82万署名は必要なかったのだろうか。署名抜きに現在の状況があり得ただろうか。住民意思を無視する中電や県の卑劣な工作を見せられてきた南町町民の無念を思えば、とてもそのような見方は受け入れることはできない。「この協定すら万全ではない。隙あらば中電は紙切れ同然のものにするだろう」その確信が、南島町民に県民署名を実行させたのだ。

 署名以後の県議会や知事の動きはすでに述べた。南島町民の実行行使としての県民署名が直接には今日までの動きを作り出したのだ。もちろん、2,000人規模、3,000人規模のデモや集会、それも津市や名古屋市まで出かけての意思表示が繰り返された。海上パレードも行われた。町長名による要望書や抗議文が、随時提出されている。町議会での決議、漁協での決議、町長の宣言、住民投票条例の制定、息長<丹念に積み重ねられた民主的な手続きがそこにあった。

 北川知事の決断は、国のエネルギー政策にも影響を与え始めた。しかし、ここまで見てくれば、私たちは「南島町民の37年にわたる抵抗が国のエネルギー政策を変え始めた」というべきだろう。
 では、こうした住民の力はどのようにして作り出されたのか。今のところ、私に言えるのは、これまでに述べた行動の1つ1つを全うするために、「寝食を忘れ、心血を注いだ個人が、複数存在した」ということだけだ。自分もまたそういう「個人」の蹴尾に付す者でありたいと願っている。

(注)上記レポートは2000年春、伊勢市に柴原洋一氏を訪ねた際、寄稿を要請し「エネルギー環境レポート」2000年5月号に掲載されたものである。

画像の説明

◆◆ 芦浜原発反対闘争の歴史 1963年~2000年 柴原洋一/作成

<1963>
・10/26 日本原子力研究所が動力試験炉(JPDR)開発。国内で初の「原子の灯」。
・11/15 中部電力、田中覚知事訪問、熊野灘への原子力発電所(原発)建設計画を始めて正式に示す。
・11/28 田中知事、南島、紀勢、長島、海山の町長を個別に知事公室へ呼んで、原発建設への協力を要請。
・11/30 中日新聞朝刊「芦浜(紀勢町・南島町)、城ノ浜(長島町→紀伊長島町)、大白池(海山町)三候補地」スクープ報道。中電、県、計画を公表。
・12/07 中電、公益事業令76条による立ち入り調査許可を申請。
・12/11 白浦漁業協同組合(漁協)と矢口浦住民の反対強く、海山町議会全員協議会で調査許可の結論出ず。
・12/17 海山町矢口浦住民ら320人の反対デモの中、町議会全協が立ち入り調査を許可。三重県漁業協同組合連合会(県漁連)、海山町島勝浦から南島町古和浦に至る8漁協を集め、「原発関係地区組合長会議」を開催、初めて原発への対処を検討。
・12/28 三重県、中電に対し芦浜と城ノ浜の立ち入り調査を許可。

<1964>
・01/13 県漁連、8漁協を11漁協に拡大した「原子力発電所対策漁業者協議会」を結成。 
・01/24 県主催「原子力発電所中央関係懇談会」が開催、漁協代表50名ほか総勢90名が参加、国の係官、学者の説明を聞いた。
・02/10 海山町、長島町の7漁協が原発立地反対を決議し、反対闘争本部を発足させた。
・02/23 古和浦漁協、総会で原発反対を決議し、南島漁民の原発反対運動の先頭に立つ。
・03/07 古和浦漁協、「古和浦原発反対闘争委員会(50名)」の第1回会合を開いて方針をつくり、具体的反対行動の開始を決める。
・03/10 「原子力発電所対策漁業者協議会」、原発反対を決議し、翌11日に知事に反対陳情を行った。
・03/15 南島町7漁協でつくる「南島町漁協連絡協議会」は正式に原発建設反対を決議。
・03/16 県漁連、南島~海山の15漁協で「原発反対漁業者闘争中央委員会」を発足、各地区に原発反対闘争委員会を設置、原発反対決議文を県に送った。
・04/13 「闘争中央委員会」は、知事と県議会議長に、各地区大会の反対決議文と1万6,360人の反対署名と建設計画放棄の要望を提出した。
・05/14 津市水産会館で熊野灘原子力発電所建設反対三重県漁民大会開催、2,000人が参加。
・06/17 朝日新聞号外で「原発、芦浜地区に決定」。県、中電は否定。
・06/21 長島町議会が原発誘致決議。
・06/22 南島町議会、野村町長の意向に反して原発反対決議、町議会に原発対策特別委員会を設置。
・07/21 南島地区原発反対闘争委員会は町長と会談の結果、町長が賛成の意志であるとして、町長のリコール運動の開始を決定。
・07/24 南島漁民、漁船4百隻漁民2,000人の海上パレード。錦港に上陸、奥村闘争委員長が錦漁協・中世古理事と共闘を約束。
・07/27 紀勢町議会、芦浜原発誘致を決議。田中知事と三田中電副社長が会談、その後に原子力発電所立地調査地点として芦浜を決定と発表。
・07/28 古和浦漁民ら380人が県議会議事堂に座り込み。闘争中央委、実力阻止を決議。錦漁協に同一歩調をとるよう最後通告。
・08/01 南島町で原発容認姿勢の町長リコール運動。町長、助役が辞任。
・08/10 原発臨時県議会開催、里中政吉県議は南島漁民はじめ県下漁民の絶対反対を背に、徹底して原発反対を訴える。
・08/11 津球場にて原発反対県下漁民大会、参加者3,000人。この日の朝、紀勢町羽下橋で大会参加に向かっていた錦漁民と古和浦漁民が衝突、怪我人を出す。警察官600人出動(羽下橋事件)。磯崎怖浦漁協組合長、錦漁協に謝罪し一応平静をとりもどす。
・08/13 南島町漁協役員全員協議会、県に陳情。この日知事不在のため高谷副知事にせまり、副知事は、今後南島漁民が同意しない限り原発立地調査はしない旨の覚書「高谷メモ」を漁民に渡した。この「メモ」は闘争終結まで南島漁民の大きなよりどころとなった。
・12/28 中電、芦浜原発想像図を発表。

<1965>
・01/23 自民党県連「原子力平和利用研究会」主催の原子力平和利用講演会を伊勢市で開き、求めに応じて出席した南島漁民だったが、途中主旨が違うと100人全員が席を蹴って退場した。
・03/01 県当局、県議会に450万円の原発調査費を上程、そのため南島地区反対闘争委は反対陳情、紀勢町は賛成陳情。
・03/19 闘争中央委、県下144漁協組合長の反対署名をつけて陳情書を提出(錦のみ除く)。
・03/20 県議会、里中県議らの修正提案を否決、原発調査費原案通り可決。
・05/30 南島町原発反対住民大会、吉津中に3,000人を集めて開かれ、原発実力阻止を決議。
・07/24 県は「熊野灘沿岸工業開発調査実施要綱」を商工労働委で説明し、三重県熊野灘沿岸工業開発調査委員会(委員長・宮崎副知事)を発足させることになった。
・07/30 宮崎副知事、芦浜現地視察を表明。南島町、ただちに視察延期を要請。
・08/02 南島町議会、視察中止を要請。副知事、断念。
・11/15 県、総額67億円にのぼる「熊野灘沿岸地域開発構想」を発表。南島町、紀勢町の主として道路整備と漁業進行に県の投資をにおわせた。海山町はこの構想から外された。
・11/20 「南島町原発反対対策連絡協議会(原対協)」が結成された。これは町議会の原発対策特別委員会と南島町漁協の地区原発反対闘争委などが一体となって組織したもので、原発反対への町ぐるみの体制が初めて整ったもの。この後は原発反対の予算を町が計上することになる。
・11/23 中電は芦浜の紀勢町側、南島町側の土地の買収を完了したと発表。
・12/14 南島町、町民8,023人の反対署名簿を県知事に提出。南島町漁協組合長、町議が、全県議会議員に個人陳情。
・12/22 県議会、「原発問題で一時冷却期間をおく」決議。

<1966>
・01/18 熊野灘沿岸工業開発調査委員会は「原子力発電所建設が熊野灘沿岸海域の環境及び生物の生産に及ぼす影響の予察報告」を発表し、22日の説明会への南島町の出席を要請。
・01/23 南島原対協、「予察報告」に反論の声明を出す。
・02/19 県議会に原発関連予算1,500余万円が計上された。
・02/21 南島原対協は実力阻止の体制を固め、挙町一致の態勢を確立した。特に県議会に関しては開会中、抗議集会等で抗議をつづけ、町内では緊急出動態勢の強化をはかり、とりわけ監視船を常時芦浜沖に出動させることを決めた。
・03/07 津市護国神社で原発建設反対抗議集会、あと県議会へ抗議デモ。南島、南勢の町長以下漁民ら200人が参加。
・03/09 県議会で里中県議は、自民党が中電から金を受け取っていると発言し、発言をめぐって波乱。
・03/14 海上パレード実施。南島漁協を中心に、志摩、南勢、海山、長島から約500隻2,000人が参加し、芦浜の海岸に「芦浜死守」の大看板を立てた。
・03/29 南島原対協、4.7cm×21.6cmの「原発絶対反対の家」と書いたポスターを各家に貼ることを決める。その他、監視船の増強、国会議員への陳情、中電への抗議など反対運動の強化策を決める。
・04/30 知事の「近日中に態度を決定する」との発表に対して、南島原対協は、〝血をもって阻止する〟との声明を発表した。
・07/25 茨城県東海村で日本初の商業用原子炉が運転開始。
・08/08 南島原対協による芦浜現地踏査実施。
・08/27 錦漁協、臨時総会を開き、〝反対している隣接漁協の同意あること〟を条件として、中電の現地調査に同意することを決議。谷口錦漁協組合長は、中電にその旨伝えたが、測量機器の据つけは、反対漁協があることを理由に断る。
・09/17 衆議院科学技術振興対策特別委員会の現地調査に協力依頼の文書が、南島原対協に届いた。南島町では各委員会協議会が開かれ対策が協議された結果、混乱をとどめようがないので視察を見合わされたい旨の返事をした。
・09/19 長島事件起こる。長島町名倉港で、南島漁民らが、国会議員一行が乗った巡視船を囲み、現地視察を実力阻止。
・09/26 長島事件で漁民6人を艦船進入、暴行の疑いで逮捕、以後、古和浦漁民30人逮捕、公務執行妨害、艦船侵入の疑いで25人起訴。
・10/25 錦漁協、中部電力と調査協力協定締結。補償金1億円、組合員に1人9万円。
・11/15 紀勢町は中電と精密調査に関する協定書に調印した。
・11/25 長島事件初公判。(1969/6/6判決、中林専務ら2人が懲役6月、執行猶予2年、以下25人全員が有罪。控訴せず。)
・11/29 南島7漁協を中心として漁船300隻1,000人参加の海上パレードを実施する。

<1967>
・01/31 長島事件で新たに16人起訴。この結果、起訴処分合計25人、家裁送致9人、起訴猶予27人、参考人として取り調べ14人となった。
・04/05 原発誘致推進論者の吉田為也・紀勢町長、原発に絡む不明朗な町予算が問題となり辞表提出、選挙で信を問う構え。
・04/28 出直し町長選、阪口才蔵、吉田の4選阻む。
・07/05 産経新聞朝刊、静岡県浜岡町に原発計画スクープ報道。通告なしに田中知事怒る。
・09/21 南島原対協、南島漁協役員会は伊勢市の三重県鰹鮪組合で打ち合わせを持ち、知事との会談に応じることを決めた。その後、午後4時40分、全員140人は津市文化会館に集合、代表60人が別室で会談に臨んだ。知事は、県の方針を180度転換し、原子力発電所建設に関してはここで終止符を打つと約束し、その発表はしばらく待ってほしいと発言、会談を終わった。
・09/26 知事、県議会で「局面を転換して自体を収拾したい」と発言。紀勢町関係者ら90人、知事と会見、原発建設促進を迫る。知事、議会後の記者会見で所信表明し「原発問題に終止符を打つ」と語る。
・10/10 原対協が解散。
・10/18 終止符宣言に怒る紀勢町錦漁民が、来町の田中知事を引き返させる(錦峠事件)。

<1971>
・03/01 浜岡原発1号機着工。
・10/25 毎日新聞「熊野市井内浦に原発計画」スクープ報道。

<1972>
・12/24 三重県知事選挙で田川亮三候補が初当選。

<1976>
・02/25 三重県長期総合計画が作成され、その中で「①地域住民の福祉に役立つこと。②環境との調和が十分に図られること。③地域住民の同意と協力が得られること。」を掲げた「電源立地3原則」が明示される。

<1977>
・03/13 地元紙『紀州ジャーナル』「300万円事件の真相を探る」スクープ報道。芦浜原発汚職事件発覚。
・06/07 国の総合エネルギー対策推進閣僚会議で芦浜を「要対策重要電源」に指定。
・09/? 田川知事、県議会で先の3原則に「原子力発電においては安全性の確保」を加えた「電源立地4原則」を表明。

<1978>
・01/11 再選された吉田・紀勢町長が中部電力社員から現金を受け取ったとして逮捕(のち辞任。2月、中部電力社員と共に贈収賄容疑で起訴に)。
・02/26 紀勢町出直し選挙。縄手瑞穂・全逓三重地本委員長、初当選。原発一時凍結を公約。

<1979>
・03/28 米国スリーマイル島原発で炉心溶融事故発生。

<1980>
・12/? 田川知事、県議会で電源立地4原則に加えて「①国の責任②安全確保と責任の明確化③漁業との共存」の「電源立地3条件」を表明。

<1981>
・04/18 福井県の敦賀原発で放射能漏れ事故発生。悪質な事故隠しが発覚。

<1982>
・04/10 『熊野漁民原発海戦記』(中林勝男/著、技術と人間社/刊)出版。

<1983>
・04/01 南島町、産業振興対策協議会(会長:竹内組夫町長)を設置。
・07/23 「『原発いらない』三重県民の会」発足。

<1984>
・02/17 三重県、原発予算3千万円を計上。南島町、予算に「原発補助金」を計上。
・03/28 南島町方座浦漁協に1億円の中部電力預金があることが発覚(翌日、新聞で報道。このころ古和浦漁協にも中電からの10億円預金の話が持ち込まれた)。
・10/23 縄手・紀勢町長が町議会で「条件付きで原発受け入れ」を表明。

<1985>
・01/28 藤田幸英自民党県連幹事長、「5月頃中部電力が調査申し入れ。これを受けて調査に当たりたい」と発言。
・02/02 田川知事が南島7漁協の組合長及び役員に原発勉強会への参加要請。
・02/09 県が芦浜原発関連予算4,040万円計上したことを公表。
・02/23 神前浦漁協、奈屋浦漁協の総会で「原発反対決議」を再確認。
・02/24 阿曽浦漁協、贄浦漁協の総会で「原発反対決議」を再確認。慥柄浦漁協総会では「反対の立場を守ること」を合意。
・02/25 方座浦漁協総会で「原発反対決議」を再確認。
・02/27 古和浦漁協総会で「原発反対決議」を再確認。こうして南島7漁協の通常総会で原発反対が再確認され、神前浦、方座浦、古和浦の3漁協は知事提案の勉強会への参加も拒否した。
・03/04 南島町漁協連絡協議会(湊川若夫会長)「原発反対」再確認と「勉強会拒否」を決定。
・03/08 方座浦漁協、「原発反対に支障」と中部電力の預金1億3千万円を返却。
・03/30 縄手紀勢町長と中電が立地調査の新協定を調印。
・04/04 中電、施設計画に芦浜原発1号、2号の計画を明記。
・04/20 「南島の海を守る会」(方座浦有志会らが主体)原発反対講演会開く。
・05/24 方座浦の女性たちが熊野市の遊木浦と新鹿浦の女性6人を招いて交流。
・05/26 「方座浦郷土を守る母の会」結成。
・06/01 中部電力、田川知事ほか、紀勢・南島両町に協力要請の予定。田中精一中電社長が田川知事に要請。南島町民500人が役場前で町長に抗議、中電の南島町への協力要請を阻止した。紀勢町ほか周辺6町村への協力要請が中止になった。
・06/09 南島町7漁協、漁民2,000人が参加した「芦浜原発反対決起集会」開催。
・06/28 県議会最終日「芦浜原発立地調査推進決議」が強行採決。自民、公明、民社、無所属議員団(三教組系)が賛成。社会党反対。県警機動隊が議場に導入される。漁民無視の強行採決に南島漁民の怒りが噴出した。
・07/12 南島漁民、19年ぶりの「海上デモ」。漁船500隻1,500人。紀勢町漁民有志も参加した。
・07/16 南島町漁協連、「南島町漁協原発反対闘争委員会」を設置。
・07/26 女性団体「古和浦郷土を守る有志の和」と「方座浦郷土を守る母の会」の会員200人が紀勢町で原発反対のデモ行進。(以下、町内女性団体を「母の会」と総称する)
・07/28 「古和浦郷土を守る有志の和」が設立集会。「原発反対」を確認(400人が参加)。
・09/18 県議会本会議場が傍聴に来た南島漁民の抗議で騒然となり議長が退去命令を出す。
・09/19 南島町議会、漁民・住民・主婦らの突き上げで漁協連との合同組織「南島町原発反対対策協議会」の設置を決める。会長・平賀久郎町議、副会長・西脇八郎古和浦漁協組合長。町ぐるみの反対組織。
・09/25 南島町議会、満場一致で21年ぶりに「原発反対決議」を再確認。
・10/24 方座浦と古和浦の有志会と母の会が「原発ができたらこんなおいしい魚は食べられない」と伊勢市内でイワシを無料で配る。その後同地で開催した広瀬隆講演会「東京に原発を」(「原発いらない」三重県民の会とSOS運動本部の共催)に参加。
・12/18 三重県土木部、住民の反対で原発反対看板撤去の強制代執行できず。方座浦有志会、新たに「芦浜原発実力阻止」の「合法的」大看板を建設。

<1986>
・02/09 紀勢町長選で3人が立候補。建設会社社長谷口友見、初当選。現職縄手瑞穂、敗退。医師小関辰夫、町史上初の「原発絶対反対」を掲げ善戦。
・02/20 古和浦有志会、広瀬隆講演会を開催。400人が参加。
・02/26 三重県、芦浜原発関連予算4,540万円計上。
・03/15 紀伊長島町、海山町の漁協でつくる「桂城湾を守る会」が芦浜原発反対の海上デモ。漁船160隻、約1,000人参加。
・03/26 南島漁民ら300人が役場に押し寄せて竹内町長に「原発勉強会には補助金は出さない」と約束させる。
・03/27 紀勢町錦の漁民が反原発団体「錦有志会」を結成し、広瀬隆講演会を開催した。
・04/15 『芦浜原発はいま 芦浜原発二十年史』(北村博司/著、現代書館/刊)出版。
・04/26 ソ連でチェルノブイリ原発事故発生。
・04/30 チェルノブイリ原発事故のニュースが日本へ伝わる。
・06/11 神前浦、贄浦で有志会を結成。方座浦、古和浦を併せて4地区の有志会が初会合(後に阿曽浦にも発足)。
・06/21 4地区有志会の共催で小出裕章講演会「チェルノブイリと芦浜」開催。500人参加。
・07月下旬 原発反対運動の先頭に立つ漁民や主婦に〝不幸の手紙〟や無言電話が相次ぐ。
・09/13 谷口友見・紀勢町長「私は完全に原発推進論者」発言(『紀州ジャーナル』報道)。
・10/04 南島町の進歩を考える会(南進会)主催、三重県後援の講演会「電源立地と地域振興」が南島町内で開催。参加者700人。建設業団体による町外からの動員も。
     有志会、母の会などが小木曽美和子講演会「地域開発 夢と現実」を南進会講演会に対抗して同時開催。参加者2,000人。
・10/18 原対協が海上デモ。漁船400隻、参加者1,100人。紀勢町から54隻参加。陸上では女性700人が町長に原発反対の要望書を提出。
・11/26 南島町漁協連、町内18歳以上の住民の75%に当たる6,422名の原発反対署名を集める。
・12/09 養殖ハマチを攻撃する内容の情報番組をテレビ放映。推進派幹部が「南島漁民」に扮して出演していたことが発覚。

<1987>
・02/13 三重県、原発関連予算5,040万円を計上。
・05/31 南島町議会選挙で原発反対派議員が上位を占めて当選。賛成派議員2人当選。
・08/23 夜間、三重県地域振興部の松本正博部長が古和浦を訪れて有志会幹部に原発推進への協力を要請。県職員による古和浦での夜間の住民説得工作が始まる。
・09/07 中電が紀勢町錦漁協ほかに総額12億円の預金をしていることが発覚。
・10/30 藤田自民党県連幹事長、「中部電力は環境調査を申し入れる時期にきている」と発言。
・11/27 南島町の漁民2,000人が「23年ぶりに」津市での原発反対デモ。同時に、三重県、県議会、自民党県連、中部電力に抗議書。「原発いらない」三重県民の会が広瀬隆講演会を津市で開催。広瀬は「この(南島町民のデモ)姿を日本人全部に見せてやりたい」と語った。

<1988>
・02/13 古和浦有志会と古和浦郷土を守る有志の和、広瀬隆講演会を開催、400人が参加。
・02/26 南島町議会議長ら6町議、「三重県当局が行っている原発推進工作は地元を大混乱に陥れている」として県に抗議。
・02/21-28 南島7漁協の通常総会で原発反対の決議を再確認。
・02/28 古和浦漁協の総会で推進派からの「外資導入、研究機関設置」動議を否決、原発反対決議の再確認は可決。推進派幹部は指を詰めて(ほんとうに自分の指を切った)抗議。
・02/29 竹内南島町長、「原発予算計上せず」と表明。
・03/04 5地区の有志会代表が竹内町長に「原発問題は凍結するように表明せよ」と申し入れる。
・03/07 田川知事、南島町の原発予算を一時凍結と表明。
・04/26 古和浦有志会の磯崎正人代表が推進派漁民に殴られて重傷を負う場外事件発生。
・08/26 南島町民有志、中電の原発PRチラシを箱詰めにして津支店に直接返却。
・10/09 古和浦漁協臨時総会で原発反対派の西脇八郎組合長辞任。翌年2月までの理事を選挙、原発推進派が初めて理事に就任(反対派5、推進派2)。
・11/27 三重県知事選挙で田川知事5選を果たすも南島町では反原発を訴えた鈴木茂候補に敗北。「南島ショック」。

<1989>
・03/02 竹内南島町長、「原発関連予算」を復活させて計上。
・10/01 南島高校生が原発問題をテーマに全校で実施したアンケートを文化祭で発表。町内生徒367人の親の86%が原発反対との結果が出る。

<1990>
・03/03 磯崎古和浦有志会代表が推進派漁民に再び襲われる。今回も犯人は身柄拘束されず。
・04/12 古和浦漁協理事会、定置網選説案を可決できず全員辞任。
・04/30 古和浦漁協臨時総会で組合長選挙があり、反対派の堀内清を選出(堀内清113票、上村有三105票/反対派理事4名、推進派理事3名)。
・05/08 中電が錦漁協10億円、長島漁協4億円、伊勢農協紀勢支店1億円、同錦支店1億円、同島津支店1億円の預金をしていることが発覚。

<1991>
・02/09 関西電力美浜原発で事故。日本で初めて緊急炉心冷却装置が作動。
・06/28 三重県内の熊野灘沿岸主要定置網漁業関係者でつくる県定置網漁業協会の定例総会で熊野灘沿岸の原子力発電所設置に反対を決議(錦第一鰤大敷組合は協会を脱会)。
・09/17 古和浦漁協臨時総会で役員改選請求投票は過半数に1票足りず否決(出席141、委任状74、改選反対(原発反対派)105票、改選賛成(推進派)107票、無効2)。
・09月上旬 堀内古和浦漁協組合長や磯崎古和浦有志会代表ら反対派住民に、発注していない商品などが連日宅配される。
・12/24 中電、錦漁協への預金を2億円積み増しして12億円とする。

<1992>
・02/18 古和浦漁協の財政危機を支援する反原発市民運動である「SAVE芦浜基金」(三浦和平代表)が1億円を達成。
・03/08 古和浦漁協総会での理事補欠選挙の結果、反対派5、推進派2となる。(票数合計は反対派108、推進派102)
・04/16 堀内・古和浦漁協組合長、推進派組合員に襲われて10日間の負傷。
・06/19 堀内・古和浦漁協組合長らが頼みもしない商品を送りつけられたり、脅迫電話や無言電話が日常化しているといて法務局に人権侵害救済を申し立てる。
・08/02 南島町長選挙で稲葉輝喜候補が竹内組夫候補を破って初当選。稲葉新町長は当選後の記者会見で「安全が確認されていない原発はないほうがよく、個人的には反対だ。住民が望むなら住民投票もやぶさかではない」と発言。
・12/14 町議らの手になる「原発建設に関する町民投票条例案(上村草案)」が南島町議会全員協議会に提出される。3分の2条項など「阻止条例」案。

<1993>
・01/06 南島町における芦浜原発反対闘争を担う中心部隊として第3世代ともいうべき青年らによる「南島町原発反対の会」(小西啓司代表)が結成される。
・01/17 南島町原発反対の会と母の会主催によって神前浦漁港広場で3,500人の住民による原発反対集会と中部電力新営業所へのデモを行う。闘争史上最大規模。
・01/12-27 各地区青年有志や漁協が町議を招いて原発町民投票条例案の説明会を開催。方座浦を皮切りに最後の奈屋浦まで7地区で1,700人が参加。
・01/28 田川知事、稲葉南島町長と初会談し、「住民投票は慎重に」と牽制。
・02/09 南島町議会全協。条例案作りで合意ならず。制定を求める町民300人が役場前に集まる。
・02/26 南島町臨時町議会で「南島町における原子力発電所設置についての町民投票に関する条例」が賛成11、反対6で可決成立する。「3分の2」を「過半数の意思尊重」と緩和。
・04/30 古和浦漁協臨時総会の理事選で推進派組合長が初当選(堀内清101票、上村有三109票。7名の理事選での合計票は反対派理事3名98票、推進派理事4名114票)。
・07/12 古和浦漁協業務運営委員会は同組合長に対して「大型預金を導入して組合財政基盤を確立することが急務かつ最重要課題」と答申。
・07/26 古和浦漁協幹部、中電三重支店を訪れ3億5千万円の預金を要請(後に2億5千万円で合意)。
・09/08 「原発止めたい女たち」など三重県内65の市民団体や労働団体(合計9,564人)が田川知事に「原発計画を拒否するように」申し入れる。
・10/07 中電、2億5千万円を古和浦漁協へ預金。
・10/08 古和浦漁協役員らが関西電力美浜原発へ初の公式視察に。
・12/08 古和浦漁協役員、中電現地事務所を訪れ「漁業経営に関する支援のお願い」により2億円の支援を要請。組合として海洋調査の勉強会に取り組むことを表明。
・12/15 古和浦漁協役員、中電伊勢営業所を訪問、預託に関する覚書の内容について確認し、海洋調査補償金の前払金2億円の預託受け入れで合意。
・12/17 古和浦漁協の反対派組合員、2億円の預託金受け入れは役員が独断で決定した暴挙であるとして100人余りの署名を添えて抗議。
・12/20 「古和浦郷土を守る有志の和」(富田英子代表)、預託金を受け入れた古和浦漁協組合長に母親285名の署名を添えて抗議。古和浦漁協は、2億円を原資として組合員1人当り100万円の越年資金支給を開始。組合員に「返済請求があったら直ちに返済します」との預かり証を提出させる。
・12/22 古和浦漁協の反対派組合員、91名の組合員の同意書を添えて2億円の預託金に対して県知事に水産業協同組合法に基づく業務検査請求書を提出。

<1994>
・02/10 南島町原発反対の会主催「芦浜原発阻止名古屋大会」。南島町民1,500人が中部電力本店に闘争史上初の抗議デモ。白川公園で集会。
・02/22 「原発いらない」三重県民の会、原発いらない女たちの代表6人が中電力本店を訪れ2億円支払いの撤回と芦浜原発計画の中止を申し入れる。
・02/25 古和浦漁協総会で30年堅持した「原発反対決議」を撤回(賛成99票、反対78票、白紙1)。
・02/27 贄浦漁協総会で「環境調査受け入れ絶対阻止」を決議。方座浦漁協総会で「環境調査反対」を決議。
・03/02 贄浦漁協、「環境影響調査の受け入れ絶対反対」の要望書を稲葉・南島町長に提出。
・03/03 方座浦漁協、「(原発建設の前提となる)環境影響調査反対」「新年度原発関連予算見送り」の要望書を稲葉町長に提出。
・04/26 南島町民を含む中電エリア(三重、愛知、岐阜、静岡)の市民25人が芦浜原発計画阻止に向けて中電役員を相手どり株主代表訴訟を名古屋地裁に提訴。
・04/28 三重県、古和浦漁協への中電2億円は「支援金であって、補償金には当たらず、違法性はない」とする業務検査書を交付。
・06/08 方座浦漁協、「高谷メモ」を遵守せよと三重県と中電に申し入れ。
・06/27 三重県、方座浦漁協の申し入れに対し「中電に対しては法令などを遵守するとともに『電源開発4原則3条件』を踏まえて対応するように指導する」と回答。
・07/11 中電と古和浦漁協の覚書が公表され、海洋調査に伴う補償金の一部として2億円を預託することが明らかになり、「支援金」だとする県の検査結果と食い違いを見せる。
・09/16 古和浦漁協を除く6漁協からなる南島町漁協協議会は「芦浜原発環境影響調査に反対する請願」を町内有権者5,940人の署名を添えて町議会に提出した。また稲葉町長には環境調査反対を中電に申し入れる要望書を提出した。
・09/21 南島町議会、同町漁協協議会から提出された環境調査反対請願を賛成多数(賛成12、反対2)で可決採択。請願書には町内有権者の約75%が署名。
・09/30 南島町、南島町議会、同町漁協協議会は、田川知事と中部電力に環境影響調査反対の申し入れ書を提出。県側から〝無効〟との見解が出る。
・10/10 朝日新聞の連載が『海よ!芦浜原発30年』(朝日新聞津支局/著、風媒社/刊)として出版。 
・11/24 南島有志会と南島町原発反対の会が稲葉町長の原発対策への不満から町長に対して9項目にわたる要望書を提出し、申し入れ拒否の場合は辞職するように求めた。町長は全項目を受け入れて「原発絶対反対」と「環境調査拒否」などの町長宣言を行う。
・11/28 田川知事、「古和浦と錦の2漁協の海洋調査なら容認でき混乱しない」と発言。
・11/29 田川知事の発言に対し、助役、議員、住民代表が知事に抗議のため出向き、県庁内で小競り合いとなる。
・11/30 中部電力が古和浦漁協と錦漁協へ海洋調査を申し入れる。南島町民1,000人余りが役場前に集まる。東京出張中の町長に大至急帰町を促す。町長を本部長とする「南島町芦浜原発阻止闘争本部」を設置。運動方針として「芦浜原発実力阻止、全県的署名運動、近隣市町村への協力要請」を決める。
・12/07 南島町民2,800人、津市で反原発集会と県庁へのデモ。
・12/14 古和浦漁協前に方座浦漁協の組合員ら町民が座り込みを始める。南島町、中電、県漁連三者会談。混乱回避の話し合い平行線。
・12/15 南島町民2,000人が古和浦漁協前に結集し、同漁協臨時総会の開催を阻止、流会に追い込む。三重県警機動隊250名は町民の座り込みを排除しようと試みるが断念。南島町と中電は「調査には町長と町内漁協の同意を必要とする」などを約束する。錦漁協臨時総会は海洋調査の受け入れを賛成多数で承認(賛成253、反対108)。
・12/20 南島町役場に「原発反対の町 南島町」の看板を設置。三重県の要請で南島町と中部電力が会談。県漁連と三重県が仲介役(以後、4者会談という)。8時間に及ぶ会談の結果「南島町及び町内各漁協の同意を得るまでは調査を実施しないものとする」「立地活動を1年間凍結する」などの「確認書」と「覚書」が取り交わされる。
・12/28 古和浦漁協臨時総会で海洋調査受け入れを賛成多数で承認(賛成112、反対96)。調査が実施されれば古和浦漁協には2億5千万円、錦漁協に4億5千万円の補償金が支払われる協定を両漁協が中電との間で締結した。

<1995>
・01/30 南島町長が四者会談の協定に基づき「中部電力立地交渉員の早期引き上げ」を藤原地域振興部長に申し入れる。この日予定されていた四者会談は「中電が約束を守らず、工作員を退去させてない」として南島町側が中止させた。
・02/19 古和浦漁協の理事補選で推進派が当選。理事構成は推進派5、反対派1となった。
・02/26 古和浦漁協総会で、中電からの6億5千万円を組合員1人当り300万円といて配分することを決める。
・03/24 南島町議会、「南島町における原子力発電所の建設に伴う環境影響調査についての町民投票に関する条例」案(「3分の2以上」の賛成がなければ調査は不可)を可決。既設の「原発設置に関する町民投票条例」も「3分の2以上」に強化改定。
・04/09 三重県知事選挙で北川正恭前衆議院議員が初当選を果たす。
・05/30 南島町議選で16人の候補が無投票当選。新人はすべて原発反対派。
・11/12 南島町芦浜原発阻止闘争本部が50万人を目標とする「三重県に原発いらない県民署名=芦浜原発闘争33年終止符運動」を始める。
・12/24 通産省が「原発立地地域温排水等対策補助金(2,400万円)」を古和浦漁協に直接交付することを決定する。
・12/28 古和浦漁協臨時総会で原発関連補助金による「漁場(湾内)環境調査」を決定。闘争本部は古和浦漁協臨時総会と同時刻に超体育館で国の交付金への抗議集会を開く。1,500人が参加。

<1996>
・03/28 南島町が原発対策室を設置。予算は原発反対対策費305万円をあてる。
・05/31 81万人の県民署名集まる。闘争本部は南島町役場前に集まった町民の前で「三重県に原発いらない県民署名」集約結果を発表、その数、県下69市町村から合計81万2,335人分。南島町の代表100人が県庁に赴き北川知事と県議会議長にこの約81万人の署名を手渡した。
・12/02 闘争本部、北川知事に原発白紙撤回を求める要望書を提出。自民党県議団には「芦浜原発計画凍結決議を求める請願」の提出に向け紹介議員となるよう要請。
・12/05 自民党県議団と県民連合、南島の請願の紹介議員を断る。自民党県議団、「芦浜原子力発電所設置問題検討委員会」(乙部一巳会長)を発足。

<1997>
・01/07-08 自民党県議団(乙部団長、16人参加、5人欠席)、現地実情調査のため初めて南島町・紀勢町を訪れ、町長ほか反対派・賛成派の意見を聴取。
・02/04−05 県民連合(大平誠団長、14人参加、2人欠席)、調査のため両町を訪れ意見聴取。「以前の原発立地調査推進決議は議会の勇み足。芦浜原発は一時凍結が望ましい」との談話を発表。
・03/07 南島町、「芦浜原子力発電所建設計画の冷却期間をもうけ早期決着を求める請願」を三重県議会に提出。
・03/21 県議会本会議が南島町の請願を全会一致で可決採択。南島町から町長ほか闘争本部役員など120名が傍聴。
・06/06 稲葉南島町長ら闘争本部役員、採択された請願内容の実施を促すため、北川知事および県議会議長に「請願の取り組みについての要望書」を提出。県議会には県に対する指導を要請する要望書を提出。
・07/08 北川知事、南島町からの請願の趣旨に沿って南島町、紀勢町、中部電力に対して99年末まで冷却期間を設けるよう正式に要請。3者がこれを受け入れ「冷却期間入り」が決まった。
・10/03 闘争本部、「芦浜原発問題町民報告会」を開催。参加者1,000人余り。冷却期間入りの経過報告と計画白紙撤回に向けての団結を呼びかける。

<1998>
・04/05 伊勢市で「脱原発みえネットワーク」設立総会。広瀬隆記念講演。県民署名運動を担った市民らが県内各地から150名、南島町からは清水助役ほか町民約150名が参加。

<1999>
・02/23 古和浦漁協総会の場で、冷却期間に入っていた前年10月に中部電力が同漁協に原発視察の日当など70万円を振り込んでいたことが発覚。
・03/02 闘争本部全体会議を開催。中部電力に冷却期間中にもかかわらず古和浦漁協に資金供与した件で抗議文を出すことなどを決める。
・04/11 三重県知事選で北川知事が再選。
・06/06 南島町議会議員選挙。当選者の内訳は強硬反対派8、反対派4、中間派1、推進派1、不明1。
・09/30 茨城県東海村JCOウラン加工施設で「臨界事故」発生。
・11/16 北川知事、現地実情調査のため南島町と紀勢町を訪れる(意見聴取のみで質疑は無し)。南島町側意見陳述人59名、紀勢町側46名、計105名が反対・推進に分かれて7時間にわたって知事の面前で陳述した。
・11/17 中電株主代表訴訟の控訴審判決。名古屋高裁は地裁判決を支持し株主側の控訴を棄却。
・11/30 中日新聞が芦浜原発に関する県民1,500人を対象とした世論調査結果を発表。反対53%、賛成15%。南島町では反対86%、賛成8%。紀勢町では反対58%、賛成18%。

<2000>
・02/07 闘争本部全体会議を開催。海上デモは県民集会に全力をつくすために中止し、県民集会は2月25日に津市で2,000人規模で開催することを決める。
・02/16 朝日新聞が芦浜原発に関する世論調査結果を公表。三重県全体では反対50%、賛成22%。南島町では反対83%、賛成10%。紀勢町では反対52%、賛成33%。
・02/22 三重県議会開会。午前11時、北川知事「芦浜計画の推進は現状では困難、白紙に戻すべきと考える」と表明。午後2時30分、中部電力太田宏次社長「芦浜原発計画断念」表明。37年の戦いがついに終わった。同6時、南島町県民集会実行委員会、25日のデモと集会の中止決定。
・03/28 中部電力、2000年度電力施設計画から芦浜原発の名前を削除。
・04/14 闘争本部全体会議を開催、町内の看板や闘争本部について「要対策重要電源」の指定が取り消された時点で検討することを確認。今後の活動として「要対策重要電源の指定の取り消し」「芦浜の地を伊勢志摩国立公園へ編入する運動」を決めた。

画像の説明

 (論構造研究会代表・『オルタ広場』編集委員)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧