【コラム】
中国単信(74)

中国茶文化紀行(11)茶は何人で飲む?

趙 慶春

 「お茶って何人で飲むのか?」と問われたら、確かに返答に窮するかもしれない。
 読書の時、一人で飲んでもよいし、友達が訪れてきたら、二人、あるいは数人で飲んでもよい。しかし、日本抹茶道の正式の茶会では5人と決められていて、「お茶って何人で飲むのか?」に、〝文化〟の要素が入り込んでくる。

 明代の陳継儒は『茶話』で「品茶、一人得神、二人得趣、三人得味、七八人是名施茶」(茶を楽しむのに一人でその神髄を得る、二人でその趣を得る、三人でその味を得る、七人八人ならこれを「施茶」(茶の無料配布)と呼ぶべきだ)と述べ、一人の喫茶、つまり「独飲」を喫茶の最高の境地と位置付け、少人数を良しとしていることがわかる。
 陳継儒のように喫茶人数を論ずるようになるのは明代になってからで、それより遥か以前、茶文化の勃興期の唐代ではどうだったのだろうか?
 唐代の606首の茶詩の中で、「独飲」(独りのお茶)を詠んだのが6首ある。
 皎然は「湖南草堂読書招李少府」で、

  薬院常無客, 薬院に常に客が無く、
  茶樽独対余。 茶杯は独り私に向かう。
  有時招逸史, たまに逸史を招き、
  来飯野中蔬。 野中の野菜を食べに来ないか。

 と詠んでいる。つまり、自分は独りなので、遊びに来ないかと知人を誘う詩である。

 李嘉祐は「奉和杜相公長興新宅即事呈元相公」で、「当山不掩戸,映日自傾茶」(山に当たり扉を閉めず、日に映され、独りで茶を傾ける)と詠んでいる。これは詩題が示すように、住宅の新築を祝う詩であり、「独りで茶を傾ける」は新居での生活を思い浮かべている。
 廬仝は「走筆謝孟諫議寄新茶」で、

  至尊之餘合王公,  至尊の余りは王公に合い、
  何事便到山人家?  何事か便ち山人の家に至れる。
  柴門反関無俗客,  柴門反関(=外からの施錠)して俗客無きも、
  纱帽籠頭自煎吃…  紗帽に頭を籠みて自から煎じて喫まん。

 と詠んでいる。確かに「俗客」がないのを幸いにして「独り喫茶」ではあるが、知人から送られてきた茶を早く飲みたい気分に溢れている。

 薛能の「寄題巨源禅師」には、「還当掃楼影,天晚自煎茶」(また楼の陰を掃くべく、時刻が遅くなると自ら煎茶する)とある。これは禅師を偲ぶ詩で、禅師の生活ぶりを想像するもので、「自」は「独り」とも読めるし、他人に任せず「自ら」とも読める。

 貫休の「桐江閑居作十二首」には、「…清吟茗数杯…門更不曾開」(清吟して茗数杯なり、門、更に開かず)とある。「門更不曾開」から「独り喫茶」であることがわかるし、詩題が示すように、「閑を楽しむ」作品である。

 皮日休の「題惠山泉」には、「時借僧炉拾寒葉,自来林下煮潺湲」(時に僧の炉を借りて寒葉を拾い、自ら林下に来て潺湲を煮る)とある。ここの「自」は「名水(惠山泉)を取り寄せではなく、自ら赴いて味わおう」という意味にも、「誰にも邪魔されず、独りで名水を楽しもう」という意味にも読み取れる。「茶炉を僧侶から借りた」からは、成り行きで「独り」になったとも考えられる。

 これらの「独飲」を詠んだ詩からは、唐代には「一人得神」、「独飲最高」という喫茶美意識はまだなく、「独飲」に拘ってはいなかったようである。

 一方、「独飲」ではなく、大人数の喫茶様式の「茶宴・茶会」は唐代に存在した。
 「茶宴・茶会」とは茶をテーマにした会合、催し、集まり、同好会のことである。茶を楽しみながら、詩を詠んだり、書や歌舞を鑑賞したり、囲碁を指したり、琴を楽しんだり、清談をしたりする場として、文化人を中心とする唐代の茶人にとって、最適な集いのはずだが、9首とは意外に少ない。しかも、この9首の作者の生存年代を見ると、生没年不明の鮑君徽を除けば、武元衡(758~815年)を最後に「茶宴・茶会」詩は現われず、9首のみで、その後は現われなかったことになる。

 武元衡は陸羽より25歳若い。陸羽が『茶経』を完成させたのは780年で、武元衡が815年に亡くなったことから考えれば、二人はほぼ同時代と言える。つまり、陸羽の『茶経』誕生前後まで、「茶宴・茶会」は新しい事象として取り上げられたが、その後、喫茶文化のさらなる普及で、恐らく新鮮さが失われてしまったと考えられる。

 喫茶の様態では「独飲」や「茶宴・茶会」よりも、「茶を以て客をもてなす」茶詩がずっと多い。筆者の調査では「茶を以て客をもてなす」いわゆる「接客」茶詩は71首に及ぶ。また、「茶を贈答品とする」茶詩も53首ある。
 代表的な1首を見てみよう。

 斉己「嘗茶」
  石屋晚煙生,  石屋の夜、煙が生じる、
  松窗鉄碾声。  松の窓から鉄の茶碾の音が聞こえてくる。
  因留来客試,  因みにその茶を残して、客が来る時試す、
  共説寄僧名。  客と共にその茶をくれた僧の名をかたる。
  味撃詩魔乱,  茶の味が直撃し、詩魔が乱れ、
  香搜睡思軽。  茶の香りが内蔵を巡って、睡魔が軽くなる。
  春風霅川上,  春風、霅川の上、
  憶傍緑叢行。  緑の茶畑を沿って行くのを追憶する。

 友達の僧がお茶を送って来たが、詩人は飲み惜しみ、残しておいて客をもてなすことにした。そして、その客と茶を飲みながら、茶を送ってくれた友達のことを語り、茶摘みの様子を追憶する、という茶という「贈答品」と「接客」を兼ねて詠んだ詩である。

 後世の宋代になると、「闘茶」や「分茶」で「芸」を楽しむことがブームになった。さらに明代になると、少人数を推奨し、環境も重視する「精神性」と「雰囲気」を尊ぶことがブームになった。また日本の茶道のように、「茶禅一味」の修行心を追求する道を選んだのである。これらは後世の「変化」であって、唐代の茶はまだ素朴で、人と人との繋がりを保つ媒介物の要素が強かったと言えそうである。

 1980年代になって中国茶文化の復興が始まり、それからおよそ40年になろうとしている。この間、喫茶様態の「茶芸」は、以下の三段階に分けることができる。

(1)拳ほどの小さい急須と半分の卓球ボールサイズの超ミニコップを使う「潮汕工夫茶」が脚光を浴びた。これは数名の知人が集まって茶を楽しむ様式である。現在でも潮汕地区(広東省地域)ではこの様式で茶を楽しんでいるが、ほかの地域では下火となった。
(2)茶を淹れる動作の「美しさ」「優雅さ」を追求する茶芸がもてはやされ、次第に「生活茶芸」「ビジネス接待茶芸」「演出茶芸」など、茶芸も多様化してきている。
(3)上記(2)の茶芸ブームが続く中、最近ではこれに「三生」(前世、現世、来世)や「太極韻」(求道)のような「精神性」「修行性」を重視するものが増えつつある。

 ここ40年間の三段階は、まるで唐代→宋代→明代の流れを見るようで、茶文化復興後の「茶芸」発展の流れは歴史が再現されているようにも映る。

 (大学教員)

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