【コラム】中国単信(51)

中国人の思考様式――法律と孝道

趙 慶春


 「法律」と「孝道」はまったく異なる次元の問題と言えるだろう。「法律」は一定の取り決めに基づいて、国民(大衆)の誰もが納得し、誰もがそれに従うことで社会秩序を保とうとする国家としての取り決めである。一方「孝道」は個別の問題で、人間と人間の絆を保つ、強いて言えば倫理の話である。
 しかし、「家庭型」国家ではそれが逆転する場合もあり得るのである。

 紀元前221年の秦帝国誕生以前、中国は諸侯が天下制覇を争う「戦国時代」だった。一方、それ故に「諸子百家」と呼ばれる様々な思想が世に現れた百家争鳴の時代でもあった。孔子の「儒家」、中国の独自宗教の源となった「道家」、「兼愛非攻」の「墨家」、「遊説」による外交的手法で「聯盟」を主張した「縦横家」、法律重視の「法家」、さらには「兵法家」などであった。

 しかし、紛争、衝突、戦争、覇権に終始していた戦国時代に、儒家の「仁、孝、礼」、道家の「柔、自然」、墨家の「非暴力、博愛」等の主張は、武器を持って戦い実権を握ろうとする諸侯たちからは重視されるはずもなかった。遊説を主張した「縦横家」は一時的に受け入れられ、蘇秦(そしん ?~BC317?)、張儀(ちょうぎ ?~BC309)など遊説の名手が数カ国の宰相に任じられた。しかし、戦国時代の「聯盟」は所詮は一時凌ぎの手段で、永続性を保ち得ず、「聯盟」が破綻し始めると「縦横家」は遠ざけられていった。「兵法家」はいずれの諸侯も重視し重用したが、戦争の最後の帰趨を決めるのは兵法や策略ではなく「国力」にほかならず、「兵法家」は〝強国〟を打ち建てるための人材にはなり得なかった。

 諸侯国の一つだった「秦」が全国を統一するために重用したのは「法家」だった。法律で国を治め、国力を次第に増強させ、順次ほかの諸侯国を滅ぼしていったのである。しかし、秦帝国の歴史は長くは続かなかった。紀元前210年に始皇帝が死去すると、2代目の無能、過酷な法律、亡びたはずの諸侯国の台頭、宮殿、陵墓、万里の長城等の建設に向けた過剰な役夫徴集、北方遊牧民族に備える駐屯軍駐留費用の増大、農民蜂起といった諸要因が一斉に噴き出し、中国は再び混乱に陥った。

 こうして紀元前206年、僅か16年ほどで秦帝国は滅び、これに代わったのが漢帝国だった。秦帝国の下で生き、自分の目で秦の滅亡を見届けた漢帝国の統治者が秦の二の舞を踏むまいと自戒するのは当然だった。
 そのため漢帝国は戦争の疲弊を回復する「休養生息」(人民の負担を低減し、国力を回復する)政策を先ず実施した。その後、武帝の時代に「罷黜百家、独尊儒術」(百家を禁じ、儒学を尊ぶのみ)を全面に打ち出した。つまり、戦国時代の〝百家争鳴〟状況、秦代の「法家」重視、そして漢代は「儒家」に絶対的権威が与えられ、国の統治思想になったことを意味していた。これによって「儒」が「法」より上位となり、法の絶対性が損なわれることになったのである。

 「儒」の思想体系はかなり膨大、且つ複雑で多岐にわたる。しかも後世になると宗教的意味合いも強く付加され、「儒教」とまで呼ばれるようになるため、筆者にはそれらを十全に解説する力などない。そこで儒の核心思想とも言える「仁・礼・孝」についてのみ、簡単に説明しておく。

 仁:「人を愛する」ことで、これは広く知られ、信仰されているいずれの宗教にも「共通」する教えだと言える。そして統治者なら誰もが本心でなくても民衆に語らなければならない言葉だろう。

 礼:古代中国の基礎教養の一つとして長い間重視されてきた。「礼」の内容は冠礼(成人礼)、婚礼、葬礼、祭祀、祭日などの礼儀作法のほか、社会マナーや長幼の秩序など、社会道徳基準を形成する最も重要な要素。

 孝:親孝行を基本とする家庭内の秩序を保つためには欠くことができない。

 このようにみると、「儒」は宗教よりも社会道徳規範、民衆の行動規範に近いものと言える。

 一般的に国を存立させていくためには「法律」と「社会道徳規範」のいずれもが必要だろう。ところが中国では「儒」そのものが「社会道徳規範」となり、「独尊」(尊ぶのみ)とされ、過剰に重んじられたのである。その結果、「儒」はたびたび「法」を凌駕することになった。
 例えば、父親の犯罪を知った息子は、法律に従えば父親を告発をしなければならない、告発すれば「孝」に反する。このような場合、中国では通常「告発しない」ことこそ「正道」と考える。これは明らかに「儒」の影響による。

 中国には「王子犯法、与庶民同罪」(王子でも法を犯したら、庶民と同じく断罪される)という俗語がある。「法律の公平性、平等性」を言うために現在でもよく使われるが、「儒」が「法」を凌駕する証明にもなっている。ここで使われている「王子」には二つの意味があって、一つは王の後継者となる嫡男の「太子」を指す。もう一つは「王の子」で「王」は最高位だが、中国では皇帝の兄弟が「王」に封じられるのが珍しくないため、「王の子」は「太子」より格下と見られる。したがって「王子」を「太子」と解釈すると、断罪できる最高位は「太子」で、「皇帝」は「法律」で規制されないことになる。「王子」を「王の子」と解釈すれば、さらに多くの皇族が「法律」の及ばない位置に置かれることになる。

 歴史的に見れば、この「王子犯法、与庶民同罪」の厳格な実行は困難だった。例えば、全国統一を果たす前の秦国時代に太子が法を犯したことがあった。この法の制定者で、施行者でもあった当時の宰相商鞅(しょうおう BC390~BC338)は「法之不行、自上犯之」(法律が守られない理由は上の者が法を犯すからだ)として、太子の断罪を公言しながら、後継者であることを理由に断罪できなかった。

 皇帝は法律による規制の枠外にいるわけで、これは身分重視の儒家の考えでもある。皇帝が「儒」を「法」の上に置いたことで、「儒」そのものが法律にとらわれない存在となったのである。
 皇帝は法より上位に立つため、皇帝の命令に法は無力であり、皇帝の命令で動く「官」も法より上位ということになってしまうのである。大衆は無論そうした位置には立てない。ところが「儒」が「独尊」されることで、大衆も「儒」に身を寄せて「法」の制裁から逃れ、「法」の上位に立とうとするようになった。中国人の法への弱い関心、法を基本原則とする意識の希薄性、規則軽視の行動様式は漢代からの「儒」重視から二千年にわたって培われてきたとも言えるのである。

 そもそも中国が「儒」を重視し、なかでも「孝」を重視する理由はなんであろうか。
 日本の天孫降臨と同じように中国の皇帝はみずからを「天子」、つまり「天の子」と自認し、「天子」の聖なる身分を以って国民(大衆)の「親」として存在することを前提としていた。つまり皇帝はすべての宗族、最大の宗族の「総族長」にほかならなかった。この「総族長」の下に各地域に多くの宗族が散在し、宗族の下に各家庭があるという構図こそ、中国という国の形なのである。「儒」の教えによると、家では親孝行をすること、他者には長幼の礼を尽くすこと、宗族の族長の話には従うことなど、いずれも「孝」と見られてきたのである。

 そうであるならば「総族長」の皇帝にも「孝」でなければならず、服従は当然のことだったのである。儒の「孝」と国や君主に対する「忠」が深く結びつけば、統治者にとってこれほど都合のよい統治手段はなかったのである。ほぼ二千年前に始まった「法の萎縮と孝の拡大」こそ、中華文化の基盤を築いてきたのだった。 これも筆者が中国を「家庭型」社会と呼ぶ理由の一つである。

 (女子大学教員)

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