【コラム】
中国単信(55)

中国人の思考方法 ―― 墓をめぐって

趙 慶春


 人間は誰もが「死」を迎える。そして、その「死」をどのように迎え、「死後」はどのようになるのか、考えない人はいないだろ。「死後」について言えば、死者への礼として葬儀が営まれ、墓に埋葬される。墓の様式、墓に対する思い、葬儀儀礼等々は地域、民族によって異なるだろうが、墓をないがしろにする民族はごく少数だろう。
 特に中国人は血縁を重視する民族だけに、他の民族以上に墓を重視していて、独特の「葬墓文化」を持っている。墓をめぐる二つの事例で、中国人の血縁重視について考えてみることにする。

 一、「上墳」(シャンフェン)。

 「墓参り」のことである。中国人の墓参りでは花と線香を持参し、墓の清掃をするだけでなく、「あの世でのお金」である「紙銭」という黄色い紙を燃やす慣習がある。中国人の死生観では、あの世に行った「人」は現世社会と同じ生活を送ると考えられている。そのため、あの世でもお金が必要なのである。中国の影響を受けて、日本でも副葬品として、死者が「三途の川」を渡る際のお金として棺に入れるところもあるようだが。
 中国では生きている者たちからの仕送りが「紙銭」であり、これを燃やす行為は、現代的に考えれば「振込」に当たるだろう。あの世に住む「人」が裕福な生活ができるようにするのである。そして同時に、あの世の「人びと」は生きている子孫を見守り、家系の繁栄を守ってくれることを願うのである。生きている者がきちんと墓参りをすることは孝行の証明であり、自分の進歩、発展、成功の保証にもなるのである。そのため中国人は裕福になると、より立派な墓に作り替えようとする傾向がある。最近、北京など大都市での墓地の価格がマンションの価格に匹敵すると言われているほどである。

 一方、「紙銭」を燃やすと山火事になる危険性が高まるうえ、大気汚染が悪化しているため、政府は燃やす行為を再三にわたって禁止している。だがそれを無視する違反者が続出し、政府の指示を守る人間はむしろ稀である。都市部にある「管理墓地」が附設の「紙銭を燃やす場」を閉鎖すると、墓地周辺の住民たちが自宅の庭を有料で「紙銭を燃やしたい人」に貸し出す「新しいビジネス」までが登場するほどで、中国人の墓への思いがいかに根強いかが伺えるだろう。

 かりに忙しくて時間がない、墓が遠方等々の理由で墓参りに行きたくても行けない場合は、「望天」(ワンティエン)という方法で対処することも可能である。自分が住む町の大通りにチョークなどで一つ大きい円を描き、墓のある方向の一部分を線で繋げずに少し空けておく。円中で「紙銭」を燃やして祖先に送り届けるのだが、そのとき「紙銭」の束から数枚抜き出し、火をつけて円の外に投げ捨てる。なぜか。あの世にもさまざまな悪人もいれば、腐敗官僚もいるだろうから、円の外に投げられた数枚のお金で仕送り金が無事に祖先のところに届くように「賄賂」として使うものと考えられている。中国人の生活感覚が実によく反映されていると言えるだろう。

 二、「掘墳」(ジュエフェン)。

 今述べたように、祖先を大切に思い、墓への思い入れが強い中国人だけに、他の一家の墓を破壊すると、他の家系の断絶、他の一家の衰亡を招くと考えられ、相手への最大の敵対行為、最大の侮辱とされていて、これが「掘墳」である。
 歴史的に有名な「掘墳」事件を紹介しよう。

 春秋時代、晋国の国王・文公(在位紀元前636年~紀元前628年)が曹国の都を攻めた(紀元前632年)際、激しい抵抗にあい、なかなか攻略できなかった。一方、晋国軍の強さを目の当たりにした曹国軍は、敵の士気を鈍らせようと、晋国兵士の屍を城壁にかけて晒した。自軍兵士の遺体が冒涜されるのを見た晋国兵の士気が衰えてしまい、文公も打つ手がなかった。
 すると一人の参謀が「曹国軍がこんな汚い手段を使ったのですから、もはや仁義を捨てて、曹国の墓地に兵営を移して、曹国の祖先の墓を破壊しましょう」と進言した。この「掘墳」計画を聞いた曹国軍はひどく動揺し、「掘墳だけはやめて欲しい」と懇願した。そして交換条件として、晋国兵士の遺体をあらためて棺に収め、晋国に返すと申し出た。曹国軍が柩を運び出すために都の城門を開けるや、晋国軍が一気に突撃し、曹国の都を陥落させ、国王まで捕虜にしたという。

 もう一つの逸話を紹介する。
 戦国時代、燕国の将軍騎劫(きごう)は軍を率いて、斉国の即墨(そくぼく)という町を攻めた。攻めあぐねた騎劫はある恐怖手段を企んだ。それを知った斉国の将軍田単(でんたん)は、その裏をかくように、敢えて「斉国が最も恐れているのは敵に祖先の墓を掘られることだ」という噂を広げた。その噂を信じた騎劫は、斉国の墓を掘り、遺体を焼いてしまった。この暴挙を知った斉国兵は激怒し、結束を強めて敵と死にものぐるいで戦い、斉国軍は勝利し、奪われていた70余りの城も奪還したのだった。

 この二つの歴史的な逸話からは、中国での「墳墓魔力」を感じないわけにいかない。これに類した話は中国の歴史上からはいくつも見いだせる。

 もう一つ、墓にまつわる話を紹介しておく。
 明代末の1635年、農民反乱の指導者・張献忠(ちょうけんちゅう)は明王朝の創始者の朱元璋(しゅげんしょう)の故郷である鳳陽(ほうよう)に入ると、明王朝の歴代「祖墓」を焼いて破壊した。「祖墓」の破壊は、明王朝の天命尽きた証とみられ、明の滅亡が一気に加速したと言われている。
 また明の滅亡後、清国に帰順しなかった鄭成功(ていせいこう)は台湾を攻略し、根拠地とした。大陸に残された家族はすべて殺され、清に降伏した将校黄梧(こうご)は自分の忠誠を示すため、鄭成功一族の「祖墓」を破壊した。それを知った鄭成功は報復を誓った。その14年後、漳州(しょうしゅう)を攻略した鄭成功は、黄梧の墓を破壊し、屍を掘り出して鞭打ちを加え、ようやく誓いを果たしたのだった。

 最後に「掘墳」の逸話ではないが、これぞ血縁重視の例を紹介しよう。
 明国初期、明王朝の創始者・朱元璋の第四子朱棣(しゅてい のちの永楽帝)と朱元璋の孫で王位を引き継いでいた建文帝(けんぶんてい)の間で皇位をめぐる争いとなった。南方の建文帝の将軍李景隆(りけいりゅう)軍が北方の朱棣軍に白溝河の戦いで敗北すると、朱棣軍は破竹の勢いで建文帝がいる都を目指した。
 そのとき鉄鉉(てつげん)が義勇軍を結成して朱棣軍に立ち向かった。しかし済南守衛の戦いでは、鉄鉉の義勇軍は敗軍一歩手前まで追い詰められた。そこで鉄鉉は、敵軍の首領朱棣の父親で、現皇帝・建文帝の祖父でもある朱元璋の画像を城壁一面に掛けた。さすがの朱棣も父親の顔に向けて攻め込むことができず、退却せざるを得なかった。この退却で朱棣軍は一時的にではあったが戦いの主導権を失ってしまった。
 その後、戦いに勝って永楽帝となった朱棣は、退却を余儀なくされた鉄鉉への憎しみを執念深く忘れずにいて、鉄鉉が斬殺されると、その遺体をさらに油ゆでにし、彼の縁者をことごとく重罰に処してしまった。
 この逸話は、中国人が血縁を重視するからこそ、後の禍根を残さないためにも、敵側の血縁は徹底的に根絶やしにしようとする執念に満ちていると言えるだろう。

 (女子大学教員)

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