【コラム】中国単信(57)

中国人の思考方法 ―― 恥と面子

趙 慶春


 まず一つの設問である。「人間はどんな場合により恥ずかしく感じるか」。
 一人の女性が外出先で強い尿意に襲われ、、我慢の限界に来ていると感じているが、近くにトイレがない場合、選択肢は二つしなかい。

 1.人の目に触れる恐れがあるが用を足す。もちろんできるだけ人に見られないよう木の下や草叢を選ぶ。
 2.それでも我慢をしてトイレを探す。人に見られる可能性があればやはり用は足せない。

 いずれを選択するかはその場の判断によるが、「用を足す」それとも「足さない」か、さらにいくつかの要素を加えて考えてみたい。

 1)もし見知らぬ土地なら。
 2)もし自分が住んでいる近辺なら。
 3)もしボーイフレンドが一緒なら。
 4)もし親しい同僚や女性の友人が一緒なら。

 これはあくまで私的な設問に私的に回答するものだが、中国人のある程度の思考傾向は次のようになるのではないだろうか。

 1.あまり知らない土地なら、「用を足す」人が多い。
 2.自分の生活地域なら、おそらく「用を足さない」人が多い。
 3.恋人の前ならば、おそらく「用を足さない」人が多い。
 4.親しい同性の前なら、おそらく「用を足す」人が多い。

 中国人の「恥」に対する意識を知る手がかりとして、このような設問を設けてみたのだが、なぜ中国人なら上述したような傾向を示すと筆者は予想するのか。

 「公共意識希薄」の中国人は、赤の他人の前で「恥」をかいても、それほど気にしない。なぜなら自分のことをまったく知らない「他人」だから、見られても一瞬の恥ですむからである。しかし自分が生活している地域では知人に見られる恐れがあり、見られたらその恥は永遠に記憶に残るし、おそらく「噂」が地域内で拡散されるだろう。そうなると知人たちの前で顔を上げられない。つまり「実被害」より「面子」を重視するからである。

 それでは、恋人の前では「用を足さない」のに、親しい友人の前ではなぜ「用を足せる」のか。
 これには中国人の人間関係での「親疎感」認識が関わっている。この「親疎感」は、大きく「他人」「知人」「親戚・親戚のような友人」の三つに分けることができる。

 「他人」とは、たとえ恥をかいてもさほど大変と思わない。要するに気にしなくてもよいグループである。ここでは中国人の「公共意識」の希薄さを生じさせることになる。
 一方、「親戚・友人」グループは自分が生きている基盤そのもので、同じ利害関係を共有し、家族同然でリラックスできる。そのため〝恥や秘密、場合によっは罪まで〟を共有することでその絆はさらに強められていく。

 前にも紹介したが、中国は「家族型」社会である。血縁によって結ばれている「家族」の関係は、父子、夫婦、兄弟姉妹のように「既得」「固定」されている。この「秩序」の中では、個人の沽券に関わる事柄は減少し、親戚同然ともなれば「恥や面子」への重視度は低下してしまう。こうして中国人は、親戚同然でもなく赤の「他人」でもない「知人」グループを前にすると、「恥をかいてはいけない」と神経を尖らせることになり、面子をもっとも重視することになる。ここでの面子こそ、自分の人間としての「価値」を決めると考える。

 「恥」の対極にあるのが「誉」「名誉」「栄誉」「誇」などだろう。中国では「名誉」などを得た結果を「有面子」(ヨウミエンヅ)と言う。――「面子がある」「面子が立つ」の意味である。
 中国人は時代を超えて長い間「面子」を重視してきた。家族、宗族に「名誉」をもたらすことを「孝」と考え、それが「面子」重視のきっかけになったのではないかと思われる。
 そして「名誉」→「面子」だったものが、いつしか「面子」→「名誉」に変わり、魯迅の小説「阿Q正伝」で描かれたように、「面子」は自己満足、自己顕示の源泉ともなるのである。

 この「面子」は本来、平等な人間関係に「上・下」の差をつけ、さらにその「優位」を利用して、さまざまな便宜が図られるようになった。そのため中国には伝統的に「人間は平等」という概念は希薄で、最近、その意識が芽生え始めたが、まだまだの観があり、むしろ中国人の多くが自分と周囲の人間に「高・低」「上・下」の差をつけようとする。そしてその差をつける最大の基準が「面子」にほかならない。しかも中国人は「面子」を利用して、常に自分に利あるように図ろうとする。
 たとえて言えば、中国人にとって「面子」は銀行貯金のようなもので、自分の努力次第で貯金額は増減し、蓄えたままその金額を眺めて自己満足もできるし、必要な時、取り出して使うこともできる。

 中国人は交際する相手の一人一人の面子のレベルを互いによく把握しているし、初対面の人には相手の面子レベルを探りながら自分の取るべき態度を決めていく。こうしたつき合い方はごく当たり前のことで、中国人は「面子ゲーム」の中で生きていると言っても過言ではない。
 それでは「面子」のレベル、「面子」の多寡、高低を決める要素は何であろうか。
 「面子」を決める要素は多岐にわたり、生活のあらゆる面が関わってくる。普段の服装、持ち物(小物類から車、家までも)から、大きく言えば、
 1.社会的な地位。「官」になることを筆頭に社会的な成功度。
 2.富の多寡。富裕者となる。
 3.名誉がある。
 この三要素である。しかしこの三要素は一般庶民にとってはかなり縁遠い。そこで庶民が「面子」を測ったり、「面子」を作るのにもっともよく使う要素は、字義とおりで「顔が広い」そのことである。つまり交友範囲の広さ、知人の多寡である。

 こうして中国人には、ある行動パターンが生まれることになった。他人との交際では可能な限り「関係」を近づかせようとし、「仲間に取り込む」意識を非常に強く持つのである。「他人」は「知人」へ、「知人」は「親戚・親戚に近い友人」へというようにである。
 中国人の職場に行くと、「部長」「課長」と呼ぶより、「兄さん」「姉さん」「おじいさん」と呼ぶことが珍しくない。職場にもかかわらず、より近い人間関係を築こうという意識の現れだと思われる。
 「面子」を重視する中国人は「面子」が損われると「恨み」を抱くことになる。それだけに中国人とつき合うときは、「面子」こそ「最優先」に考慮されなければならないのである。

 (女子大学教員)

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