【コラム】中国単信(41)

中国の大学受験模様

趙 慶春


 日本では1月から2月は受験シーズンである。もっとも最近では大学がさまざまな入試形式を採用していて、すでに大学合格の切符を手にしている高校生も少なくない。とはいえ多くの国公立大学や難関私立大学、応募者が殺到する有名大学をはじめ多くの大学がこの時期に入学試験を実施する。
 受験生にとってはもっとも神経が張りつめている時期だろう。

 ところで中国での大学入学試験制度では、日本のようにさまざまな入試形式を各大学が自由に実施することはなく、基本的には全国一斉の統一入学試験だけで、入学できる大学が決まってしまう。

 1952年から始まったこの統一入試は、当初「全国普通高等学校招生入学考試」と呼ばれていたが、2008年から「全国大学統一入試」と改称され、一般的には略称の「高考」が使われる。
 中国の大学は9月からが新学期なので、この「高考」は毎年、6月7日・8日の2日間に実施される(一部の省では6月7日から3日間)。

 受験生は志望校や専攻は自由に申し込むことができるが、政府が優良、一流と認定し、予算配分も高額の重点大学(国立大学)2校と非重点大学2校、そして専門学校と出願校数には限りがある。こうしてあらかじめ申し込んだ大学のいずれに入学できるかは、「高考」の成績次第となる。
 原則的には「実力主義」で大学への合格が決まるはずなのだが、現在、社会的に「経済格差」や「地域格差」、「貧富格差」等々、さまざまな「格差」の拡大が言われて久しい中国では、実は大学受験にも厳然とした「格差」が存在している。

 受験格差が生まれた要因は少なくない。たとえば家庭の経済状況、情報が不十分な地域環境、経済的後進地域性、教育設備や教師不足などの低教育環境等が挙げられる。しかし、その根源的な要因は中国の大学受験システムそのものにあると言っていいだろう。

 受験生は全国の統一入学試験を受け、その成績によって入学できる大学が決まることはすでに述べた。しかし、ここに大きな問題がある。それは広い国土だけに各地域の教育レベルの差があまりにも激しいことである。しかも、教育レベルの地域差は経済発展レベルと比例するとは限らない。

 たとえば東北地区は経済発展レベルでは北京や上海など大都市圏より劣るが、教育レベルではトップクラスと言っていいだろう。「高考」が完全な実力主義で選抜されるなら、重点大学である北京大学や清華大学など名門大学の入学者の半数は東北人が占めてしまう可能性があると言われているほどである。

 ところが「高考」では、全国に散らばる重点大学への入学者は純粋に成績上位の受験者から入学枠を埋めていくわけではない。まず各省、自治区(日本の都道府県に相当)ごとに入学定員数を決め、各省、自治区ごとに成績上位の出願者から入学者を決めていく。
 もうおわかりのように、各省、自治区の教育レベルの差は差として、重点大学入学に大きく反映される仕組みになっているのである。言い換えれば、教育レベルが低い地域の受験生は、総合点数が低くとも、その地域の成績上位者として重点大学に入学できることになり、教育レベルの高い地域の受験生はたとえ同じ総合点を取っても、二流、三流大学にしか入学できないことになる。

 受験生からすれば大変不合理なシステムなのだが、こうした状況はすでに数十年前から存在している。筆者が受験した1988年の北京大学の例を挙げてみよう。

 筆者が籍を置いた中文科(国文科)には、教育レベルの高い江西省で受験した入試成績第一位の者がいた。そして教育レベルが比較的低いとされる内蒙古自治区からの受験生も入学してきた。最難関大学の一つである北京大学に合格したのだから、この学生も内蒙古自治区ではやはりトップレベルの入試成績だった。あとでわかったことだが、この内蒙古自治区からの学生と江西省からのクラスメートとの点差は130点の開きがあった。試験は640点満点なので、130点の開きは天と地ほどの開きがあると言わざるを得ない。なにせ2016年度の「高考」受験生数でさえ約940万人、今からほぼ30年前となると確実に1000万人は超えていたはずで、総合点での一点差違いに3万人がいるとも言われているのだから。

 「受験の格差」はまだこれだけではない。経済の中心地である上海と政治の中心地である北京には大学が数多く集中している。ところが受験生の成績はあまり優れているとは言えないのが現状である。完全実力主義を採用すると、上海や北京の受験生は地元の大学に入るのが難しくなることから、次のような方策が実施されている。
 上海、北京など特別地区の受験生は全国統一入試問題ではなく、その地区だけの入試問題で受験することになっていて、通常、全国統一問題より易しいと言われている。だからなのだろう北京、上海での特別入試問題に対する痛烈な皮肉、揶揄を込めて次のような書き込みがネット上にあった。

 「数学」:
    上海、北京の入試問題→「空に何があるか?」
    全国統一入試問題→「空に太陽はいくつあるか?」
    東北地域の入試問題→「空に星はいくつあるか?」
 「国語」:
    上海、北京の入試問題→「西遊記という小説に妖怪はいるか?」
    全国統一入試問題→「西遊記という小説の作者は誰か?」
    東北地域の入試問題→「西遊記に登場する妖怪の名前を全て書け?」
 「歴史」:
    上海、北京の入試問題→「建国は何年のことか?」
    全国統一入試問題→「建国は何年何月何日のことか?」
    東北地域の入試問題→「建国式典に飛ばした鳩の数は?」

 どうやらこの書き込みをしたのは東北地域の人物らしく、実際には「東北地域の入試問題」があるわけではないが、東北人の悔しさと憤りが充分に読み取れるだろう。

 それならば東北地域もそうだが、教育レベルの高い地域の受験生は上海や北京に行って受験すればよさそうだが、現実はそれが許されない状況にある。
 なぜなら日本と違って中国では戸籍を基本的に移すことができないからである。相当厳しい条件をクリアして戸籍を移せる人はごく少数で、したがってほとんどの受験生は戸籍所在地での受験とならざるを得ないのである。

 この戸籍を移す制度の悪用は昔から後を絶たない。たとえば東北に住む受験生が上海や北京の大学へ行きたい、あるいは重点大学への入学合格ラインを下げたいと望む場合、上海や北京に親戚がいることが条件だが、その親類の養子となり、戸籍だけ上海や北京に移すことが可能となる。手回し良くこうした措置を取っておいて、高校での勉強は東北で続け、受験の時だけ上海や北京に行けば、東北で受験するより目指す大学入学へぐっと近づくことが可能となるのである。

 以前、このような「戸籍の転籍」を「受験移民」などと呼ばれていたが、いくつもの高いハードルがあるため誰もができることではなかった。ところが最近は豊かな財力にものを言わせる手法がまかり通ってきている。次のような皮肉を込めた笑い話がある。

 現在持っている二つほどの不動産を売却し(中国の富裕層は不動産で蓄財する者が多い)、100万元(約1,800万円)の資金でチベット自治区のラサに行く。40万元で100平米の家を購入し、30万元で店舗を購入し、10万元を投資して小さいビジネスを始める。これで戸籍転籍のハードルはクリア。それから子どもの戸籍はラサに移すが、子どもは移住せず、残りの20万元でそのまま高校に通学して勉強を続ける。受験時にラサで受験すれば、600点以上(満点は640点)でないと合格安全圏でない北京大学や清華大学だが、ラサでの受験なら300点でも楽々さ。

 苛烈な大学受験戦争も結局は財力の差というのでは、正面突破を図ろうとしている多くの受験生にはあまりにも理不尽と言うしかない。しかもすでに述べてきたように「全国大学統一入試」は決して実力本位ではない制度も導入されているのだから。

 中国政府が少数民族対策の一つとして、少数民族にも名門大学への扉を開ける政策を続けるのは理解できるが、たとえば別枠を作るなど他の方法はないのだろうか。この笑い話のような「不正」を根絶しないかぎり、国の未来を担う優れた多くの人材の進路を閉ざしてしまうことになりかねない。

 「受験格差」はまだある。
 2015年の国語試験では次のような作文問題が出題された。
 「高速道路で携帯電話をしながら運転している父親に対し、同乗している子どもがたびたび注意したが、父親は無視するので、やむなく警察に通報し、父親は罰せられた ― 当事者の子どもとして、父親に手紙を書きなさい」

 陜西省のある受験生は涙ながらに次のように書いたという。
 「・・・私の父は農民で、毎日畑仕事に追われ、村さえ出たことがありません。自分の車どころか見たこともほとんどありません。父の車と言えば、荷物を運ぶ人力車です。私も同じように高速道路、自家用車、携帯電話などは本でしか見たことがありません・・・貧しい父は車はもちろん、たとえ馬車を見ても、いち早く路端によける人間です。このような父がスピードを出しすぎて警察沙汰になるなんて私には想像もできません・・・先生が出された作文問題、私にはどうしても書けません・・・」

 出題者の目には大都市で裕福な生活を送っている人びとしか映っておらず、この受験生のような貧しい生活を余儀なくされている人びとが忘れられてしまっているのである。これは明らかに人為的に生みだされた「受験生差別」にほかならない。
 これらが中国の「全国大学統一入試」の実態である。
 嗚呼、中国の大学受験生の憂鬱は増すばかりだ。

 (女子大学教員)


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