【コラム】ザ・障害者(4)

世界に類のない日本の盲人史(2)

堀 利和


●検校について

 ここで検校に絞って話をします。明石覚一検校、八橋、生田、山田の三検校、杉山和一検校、そして塙保己一検校、この人たちを特に覚えておいてください。

 塙保己一検校は国学者として有名ですが、こんな逸話が残っています。弟子が塙保己一検校に文献を読んでいたら、読むのをやめました。訳をたずねると、弟子は、風が吹いて灯りが消えてしまい読めませんと答えました。そのとき保己一は、「目あきは不便だなぁ」と言ったといわれています。なかなかとんちのきく人のようです。

 ここ埼玉県新座市の話をしますと、埼玉の歴史的な偉人が三人いて、一人が実業家で近代日本資本主義のリーダー、資本主義の経営モラルを説いた渋沢栄一、二人目は初めて公式に認められた女医の萩原吟子、そして塙保己一です。

 塙保己一検校は、小笠原諸島が日本国の領土になった立役者だと言われています。小笠原諸島は無人島でしたが、アメリカ人が最初に小笠原に来て、下田に来たペリーも立ち寄りました。はじめは通商交渉が目的で日本に来たわけではなく、油のために鯨を取っていて、今はクジラがかわいそうと言っているんですが、その捕鯨基地のために日本にやって来たのです。

 島などの領土は宣言しただけでは領土にならず、地図や文献に書かれていなければならないそうです。それで一八五〇年にペリーに対応するため、幕府が保己一の息子治郎にあわてて請求したというのです。それが「和学講談所」にあった文献(群書類従)で、この講談所は保己一のものでした。保己一が文献を持っていたということで、それでアメリカやロシアなどの列強と対応して、明治九年に正式に小笠原諸島が日本国領土になったのです。この埼玉に、たいそう立派な盲人がいたわけです。

●明治時代

 いよいよ明治時代を迎えます。疎外された身分制社会の中で一定の安定を得ていた盲人史も、激動の時代に入ります。明治四(一八七一)年の廃藩置県とともに護官の制度も廃止されて、全国にあった「鍼治講習所(学問所)」も幕府の財産として新政府に没収されます。それで、鍼治の教育研修の場がなくなるわけです。しかも明治七(一八七四)年には、医師制度が制定され、漢方や東洋医学は西洋医学にとって替わられ、鍼灸あんまは民間医療となるわけです。

 話は変わりますが、明治十一(一八七八)年に東京盲唖学校が設立され、続いて「楽善会訓盲院」つまり東京盲唖学校が明治十三(一八八〇)年に設立されます。当時は「盲唖」でしたが、明治末に盲と聾唖が分離され、それぞれの学校になります。

 そして明治二十三(一八九〇)年に東京盲唖学校の教諭である石川倉治が、「日本訓盲点字」を考案します。点字には英語があるんですかとよく聞かれますが、そもそも点字はフランス語のアルファベットで、一八二九年、フランスの盲人ルイ・ブライユが点字を考案しました。当時の軍隊が暗号として発明して使っていたもので、それを盲人のために点字にしたものです。それを日本語に当てはめたので、基本的にはひらがなの表音文字ではありません。

 (共同連代表・元参議院議員)

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