【コラム】酔生夢死

上海「巨鹿路物語」

岡田 充


 小路にはみ出すように果物や雑貨を並べる店。鳥かごの小鳥がさえずる。ガジュマル並木の小路を曲がると、その建物はひっそりとたたずんでいた。地番は「巨鹿路845弄1号」。上海旧フランス租界にある木造洋館だ。門柱には「上海国際問題研究所」と大書した木製看板。中国屈指のシンクタンクのひとつである。

 研究所は現在「研究院」に格上げされ、2009年に上海文教地区の近代的なビルに移った。巨鹿路の館は、上海市政府参事室として使われている。研究院は一九六〇年、周恩来首相の指示で市政府の高級研究機関、シンクタンクとしてここに設立された。グローバル・ガバナンス研究所、外交政策研究所など6研究所に、百名を超す研究者を擁する。

 「巨鹿路」とは変わった名前だが、巨大なシカが住んでいたわけではない。中国語の原名は「巨籁達路」(仏語 Rue Ratard)。1908-10年まで、フランス租界を管轄したフランス総領事の名に因んだ。その後43年に改名、「巨鹿路」に変わったのは66年である。東西二キロに伸びる通りには、上海作家協会の洋館をはじめ1930年代に建てられた欧風木造建築が立ち並ぶ。今はカフェや会員制クラブとして使われ、ロンドンのSOHO地区のような街並みを目指しているという。

 館の玄関ドアを開けると、広い芝生の庭に面した三十畳ほどの大きさの会議室。資産家の豪邸の応接室のようだ。建物は2004年、89歳で病死した栄毅仁(えい・きじん)・元国家副主席の革命前の館でもあった。

 栄一族はもともと、上海で銀行や繊維会社などを経営する資本家で、栄氏は革命後に資産をすべて国家に寄付、この豪邸もその一つだった。栄氏が外国資本と技術を導入するため創設した中国国際信託公司(CITIC)は総合金融投資企業になり、米経済誌はかつて栄氏を「中国一の富豪」と評した。

 66年に文化大革命が始まり、林彪副主席が毛沢東主席の後継者に指名されると、林彪の長男、林立果氏がわずか24歳で空軍を掌握し、上海の拠点をこの館に移した。今も近くには空軍南京軍区の施設が残る。

 かつて研究所に勤めた朱建栄・東洋学園大教授は「二階の所長室はもともと栄家の主人の寝室。後に林立果の寝室となり、『選美』(妻選び)もここで行われたと聞いています」。71年9月「反毛クーデター」が発覚したため、林氏は両親とともにソ連亡命を図り、モンゴルで墜死した。「反毛クーデター」の謀議もここで練られたという。

 租界時代、栄家や外国人富豪が毎夜のように開いた華やかなガーデンパーティー。文革時代の権力闘争と陰謀。海外の研究者や政治家、ジャーナリストを迎え交流した研究所時代。「巨鹿路」は、上海という巨大都市から近・現代史を見つめてきた「証人」でもある。

 (共同通信客員論説委員・オルタ編集委員)

画像の説明
  巨鹿路にある旧上海国際問題研究所の玄関(同研究院提供)

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