■ヴァージニア・ウルフ「私だけの部屋」をめぐって(2)  高沢 英子

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 一夜明けて、ヴァージニア・ウルフ「自分だけの部屋」の第二章の舞台は、ロ
ンドンである。第一章でリポーターに仕立てられた架空の女性メアリ・ビートン
は、今朝は大英博物館の図書室に来ている。彼女は昨日の二つのパーティの印象
が胸にわだかまり、なんとか解決したいと考えてここにやってきたのである。
疑問はごく単純なことだ。「なぜ男性はワインを飲み、女性は水を飲むのだろう
か?」「なぜ、いっぽうの性は繁栄しているのに、他方の性はこうまで貧しいの
だろうか?」

 問題を書物によって解明しようと、カードを検索したメアリ・ビートンは、女
性について男性が書いた本の数の夥しさに今更ながら驚く。これに反して、女性
の書いた男性に関する本はまったく見当たらない。同じ人間なのに、この違いは
何ゆえか?さらに男性が書いた女性問題に関連する本には、内容の如何にかかわ
らず、一貫している事がひとつあることに気が付く。しかしそれは彼女が目指し
ている真理とは程遠いものだ。所在無くノートに落書きしているうちに、次第に
架空の教授フォンxなる人物の肖像画が出来上がってくる。大きな顔に小さな目、
その風貌はまことに冴えない。そしてこのフォンx教授はひたすら怒りにかられ
ているらしい。

 「どうしてこの教授はこんなに真っ赤な顔をして怒っているのかしら?」彼は
大学教授で、女性の精神的、道徳的、肉体的劣等性に対する大著を執筆中である
が、どこから見ても、女性にもてそうにない風貌をしたこの男性は、ひたすら腹
立ちと焦燥に駆られているみたいだ。自分の手で仕上がってしまった肖像を見つ
めながら、ミス・ビートンは、あれこれ想像する

 「もしかして、奥さんが騎兵将校と恋仲になっているのかしら?その男はほっ
そりした体格をしていて優雅でアストラカンの服を着ているかしら?」

 いづれにしても、およそこの世の職業という職業、栄誉と繁栄をすべて独占し
ているはずの男性が、もう一方の性に対して、なぜこうも怒るのか、平素は紳士
的で模範的な態度を示し、献身的で素直な彼らが、書物の中でなぜこれほど女性
の劣等性をあげつらうのか?女性に対する歪んだ意識の人格化として、あきらか
にドイツ人を髣髴させるこの架空の人物選びの手際は、意地の悪さをユーモアの
オブラートに包み、心憎くも鮮やかだ。あちらも怒るなら、こちらも、というわ
けで、彼女も怒りながら考える。そして、はた、と、気がついたのは、彼ら男性
群の「圧倒的優越感願望」ということだった。

 「優越性は彼にとってかけがえのない宝石なのだから・・このささやかだが貴
重な能力を手っ取り早く生み出すには・・・他の人々が自分より劣っていると考
えればよい・・というわけで、他を征服し、支配せずにはいられない家父長連中
にとっては、人類の半数が生まれつき自分より劣っていると感じることがきわめ
て重大になってくる」
  彼女はこの観察の光を実生活に当てはめて、あれこれ考察してみた結果、彼ら
の怒りは自分を信じる力を多少とも侵害されたことに対する抗議であると納得し、
  「女性は過去何世紀もの間、男性の姿を実物の二倍の大きさに映して見せるえ
もいわれぬ魔力を備えた鏡の役目を果たしてきた。この力がなかったら、おそら
く地球は今日なお沼地と密林であろう。・・文明社会における用途が何であろう
と、鏡はすべての暴力的、英雄的行為には欠かせないものである。」

 「ナポレオンとムッソリーニが共に女性の劣等性をあれほど力説するのはその
ためである」「鏡に映る幻影は活力を充たし神経系統に刺激を与えてくれる・・・
この魔力のお蔭で人類の半数は胸を張り、大股で仕事に赴こうとしている」
云々、という動かせない「真理」を発見する。

 さらに、これまで長い間ひとりで生きてきた彼女は、女性であるために殆どま
ともな仕事を与えられないで、苦労してきたが、ポンペイで落馬して死んだ叔母
が遺してくれた年金、五百ポンドのお蔭で、定収入を得ることになり、ようやく
辛い半端仕事から解放された経験を披露する

 「定収入がどれだけ気持ちを変えてしまうものかは目を見張るばかりである。・
・憎悪と痛恨にも終止符が打たれ・・」ついに「数ある開放感の中でももっとも
大切な、物事それ自体を考える自由を得た」そして、あの絵が好きか嫌いか、そ
の本がすぐれているかつまらないか、自分の意見をもち、広々した空を眺めるこ
とができるようになった」と。

 それにしても、そもそも人生の価値は誰が決めるのか?基準は時代によっても
変わるかもしれないが、八人の子供を育て上げた家政婦と、十万ポンドを稼いだ
弁護士はどちらが世に貢献したか、を誰が決められよう?

 しかし、今後100年の間に、と、ミス・ビートンは調査をやめて帰る道々夢
想する。おそらく、女性の地位はめざましく変わるかもしれないが、今度は男性
と対等の仕事を獲得して働いた揚句、次々に体力を消耗し、あっけなく次々と死
んでゆき、人びとはかつて「なんと今日は飛行機を見たよ」と言ったように「な
んと今日女性を見たよ」と言うようになるかもしれない。この日の調査はこれで
おしまい。家についた彼女は、もやもやと割り切れない思いのままドアを閉める。

 続く第三章のイギリス、エリザベス朝の女性たちが置かれていた立場へのコメ
ント、なかでもシェクスピアにすぐれた詩人の才能を持った妹がいたら、という
大胆な仮説、架空のジュディスの話は有名で、また第四章の、筆で戦った女性群
像の苦悩と焦燥のさまざまな姿は、イギリスの女性史ならびに文学史の資料とし
てばかりか、生身の人間女性のありようとして興味深いが、ここでは割愛するこ
とにして、第五章を少し詳しくみてみよう。

 ミス・ビートンはこの日も書棚を探索しながら、ついに二十世紀初頭の現代、
つまりウルフと同時代の女性の手になる著作の棚にたどり着く。そこで行き当た
りばったりに、一冊の女性の手になる新刊書を抜き出す。メアリ・カーマイクル
著「人生の冒険」という小説で、どうやらまだ若い作者の処女作らしい。架空の
本の作品評の形を取りながら、ここでウルフ独特の、女性による新しい小説待望
論が展開される。女性独自の創造力による表現と文体を要求し、ありきたりの自
然小説家とならず瞑想的小説家たれ、と要求するあたり、論評は手厳しいものだ。

 やがて場面は一転して、テムズ川の南に延々と続いている住宅地のどこかの通
りが想定される。二人の女性の親子が通りを横切ってゆく。ひとりは八十歳に近
い老女だ。ここで、一つの問いが提示される。長い人生の中で、自分の感覚を表
現したり、行動を説明して刻み込む習慣を持たないで「男性の価値基準」のもと
に生活して来たであろう老女に、もし次のようにたづねるならば、どうなるか?

 「あなたの人生はあなたにとってどんなものでしたかとたづねるならば、彼女
はパラクラヴァの戦いの勝利を記念して灯火に煌々と照らし出された街路を覚え
ているとか、エドワード七世の生誕を祝福する号砲をハイド・パークで聞いたこ
とがあると答えるだろう。さらに時日と季節を知りたいと思って、ところで一九
六八年の四月五日には、又十一月二日には何をしていましたかとたづねるならば、
彼女はぼんやりした表情になって、何ひとつ覚えていない、と答えるであろう。

 毎度の夕食は料理しつくしたし、皿や茶碗も洗ってしまった。子供たちは学校
にあげたし、今では世の中に出ている。もう何ひとつ残っているものはない。何
もかも消えうせてしまった。・・・」ウルフはここで、はじめて、これから女性
が取るべき態度、書くべきと考える小説論を、この新人作者に語りかけるという
形で、聴衆である若い知的女性たちに正面から説く。

 「どこまでも闇に包まれたこのような人生こそ、あなたがこれから書きとめて
いかねばならないのよ」「書き記された事のない人生の集積、こういうものすべ
てを松明を手に探求しなければならないのよ」。

 最終の第六章で注目されるのは、ウルフの両性具有論であるが、ここでは彼女
が引用しているコールリッジの言葉「偉大な精神は男女両性を備えている」とい
う言葉を紹介しておくにとどめよう。

 また、女性が自己の創造性を失うことなく、自立するのに最低限必要なものは
自分ひとりになれる部屋と、年五百ポンドの定収入であると言う提言は実際的で
実に的を得たユニークなものだが、ウルフは慎重に、現代では、もうそれは満た
されつつあるかもしれない、従ってこれは、女性が抱える問題の解決的結論に至
る条件としての象徴的な提言に過ぎない、とほのめかすことを忘れない。

 こうして究極的にウルフが提案する女性の、女性自身による実践的改革論は、
どんどんものを書き、文学に限らず、いかなるテーマであろうと本を書け。いわ
ばペンで闘い、真実を曇りのない目で見詰め、男性社会の歪められたレンズを通
してでなく、人間として真実をを見る目を養い自分自身たれ。という点に尽きる。
彼女は、さすればいつの日か、生前に一語も書き記すことなく、不毛のまま命を
絶ったと私が信じているシエクスピアの妹ジュディスは、みずからの生命を引き
出して、肉体をつけて甦ることであろう、と切々と訴えて、長い講演を終える。
  世界は男性たちが起こした戦いのさなかにあった。一九四一年、三月この稀有
な才能を持った女性はテムズ川に入水。自から命を絶った。

 冒頭に掲げたメイ・サートンの「真に意味のあることは、女性が・・真実の自
己を発見すること」という叫びは、ウルフの言う「自分自身たれ」という訴えと
期せずして呼応する。亡命した両親に従って四歳でアメリカに渡り、アメリカ人
として生涯を送ったサートンだが、多分にヨーロッパ的感性と教養の持ち主だっ
たから、青春時代、たまさかの触れ合いもあったヴァージニア・ウルフの存在は、
生涯意識せずにいられないものだったに違いない。

 画才に恵まれた芸術家気質のイギリス人を母にもち、ベルギー人の父は高名な
学者ながら恵まれない境遇にあったサートン。父に対する怒りを頭痛の中に封じ
籠めるしかなかった母を知っていたサートン。うわべは申し分ない夫婦であった
両親を、鋭く観察していた「灯台へ」の作家ウルフ。家庭環境において共通する
ところも少なくなかったと思う。 

 ともあれ、日常の中に埋没する女性の物語を直視し、真実の光りを当てて、い
かなる形にせよ、書き記すこと。ウルフが目指したものを真摯に継承する試みは、
彼女自身も明言するように、やりがいのある仕事かもしれない。

        (筆者はエッセースト・東京都大田区在住)

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