【コラム】大原雄の『流儀』

ワイダ監督最後の作品『残像』と3つの死

大原 雄


 2016年10月9日、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督が亡くなった。享年90歳であった。1926年、ポーランド北東部のスヴァウキ生まれ。世界的な名監督の名に恥じない、輝かしき作品群と受賞歴がある。ポーランド軍の大尉だった父親は「カティンの森事件」に巻き込まれて、虐殺されている。

 1939年、ポーランドはナチスドイツとソ連(ソビエト連邦)の両方から侵略され、全土がどちらかの占領下となった。武装解除されたポーランドの軍人や民間人は両軍の捕虜になり、このうち、ソ連軍に降伏した将兵らは、ラーゲリ(強制収容所)に送り込まれた。その後、ポーランドの亡命政府の要請に応えて「釈放」(亡命政府の首相とスターリンとの会談の席上、スターリンも「確かに釈放した」と言ったという)されたという軍人らが行方不明となり、実際には、今のロシアのグニェズドヴォ近郊のカティンに近い森で、およそ22,000人(人数は諸説あるようだ)のポーランド人の将校、国境警備隊員、警察官、官吏、聖職者らが、ソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺されていた。
 1943年、ナチスドイツ軍が、カティンに近い森の「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発掘し、事件が発覚した。ナチスドイツは、この事件を反ソ・キャンペーンに利用した際、虐殺現場のカティンに近い森に因んでこの事件は「カティンの森事件」と名付けられ、広く知られるとともに、永遠に歴史に残ることになった。ソ連は、事件発覚後も、スターリン時代(1924年から1953年まで)とあって、長く「虐殺はナチスの仕業だ」と虚偽の主張に基づく反論をしていた。

 1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でソ連のペレストロイカが進められた結果、情報公開の風潮が高まり、1990年、事件がNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフ書記長らはスターリン時代の犯行と認めざるをえなくなった。この事件や事件後の経緯を扱った映画『カティンの森』は、ワイダ監督によって2007年に製作された。私も日本で公開されたこの映画を当時観ている。

 1926年生まれのワイダ監督自身は、第二次大戦中の1942年、16歳でナチスドイツに対するレジスタンス運動に参加した体験を持っている。戦争中のナチス占領と戦後のスターリン時代の全体主義下のポーランドの運命を見据えながら、戦後は映画というメディアを武器に人間の尊厳と自由精神の高揚を、鋭い映像を駆使して、力強く訴える優れた作品群を生み出し続けることになる。ワイダ監督は、生涯にわたって、「抵抗とは何か」を探求した。

★抵抗3部作

 戦後、ウッチ国立映画大学を卒業したワイダは、1955年、レジスタンス体験を基にした映画『世代』(1954年製作)で監督デビューをした。『世代』は、1942年ナチスドイツ占領下のポーランドが舞台。ワルシャワ近郊で母親と暮らす青年がレジスタンス運動に加わって行く姿を描く。青年は、ワイダ監督自身を投影しているのだろう。

 1956年製作の映画『地下水道』では、いわゆる「ワルシャワ蜂起」に参加し、敗れて死に行く若者たちを描いた。この映画で、1957年、第10回カンヌ国際映画祭で、審査員特別賞を受賞した。ワイダ監督は31歳であった。

 「ワルシャワ蜂起」とは、第二次大戦中の1944年8月1日から63日間に亘って、ナチスドイツを相手にしたポーランドのワルシャワで起きた武装蜂起の一連の事件をいう。ロンドンにあるポーランド亡命政府が、ポーランド国軍に命じて、ワルシャワにいわば、「地下国家」を作っていた。「地下水道」は、地下国家を象徴しているのだろう。

 映画『地下水道』は、1944年のワルシャワが舞台。ポーランド軍は、ソ連の裏切りに加えてナチスドイツの猛攻に追い詰められていた。中尉の率いる中隊はワルシャワの街区の地下に迷路のように張り巡らされた地下水道を通り、市の中心部に出て抵抗活動を続けることにする。夜になって隊員は地下水道に潜入して行くが、やがて離ればなれになり、暗闇の中、ある者は発狂し、ある者は暗闇と悪臭と恐怖心に耐え切れず、マンホールから地上に出てナチスドイツの兵士に発見され、射殺されてしまう。別のある者たちは、やっと地下水道の出口を見つけたと思ったら、そこは川へ注ぐ水路であった。脱出が困難。一方、先を行く中尉と隊員たちは遂に攻撃対象地に近い目的の出口を見つけたが、出口には頑丈な鉄柵が張られていて、脱出できない。何十年も前に観た映画のシーンが、私には、いまも断片的ながら思い出される。窒息感させ感じさせる地下水道の彷徨は、戦争がもたらす抑圧感を鋭く観客にも実感させていたと思う。

 映画『灰とダイヤモンド』は、イェジ・アンジェイェフスキの小説『灰とダイヤモンド』(原作は1948年発表)を1958年に映画化した作品。映画『灰とダイヤモンド』は、それまでのナチスドイツ相手の抵抗戦とは異なる。社会主義下の全体主義というべき、スターリン時代のソ連やスターリンの政治方針に強く影響を受けたポーランド政権に対するレジスタンス、つまり反ソ化したレジスタンスを描く。この映画でワイダ監督は、1959年、第20回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。

 映画『灰とダイヤモンド』は、1945年5月8日、ナチスドイツが降伏した日のポーランドを描く。党・委員会書記のシュチューカの暗殺を依頼されたロンドン亡命政府派の青年マチェクが誤って別人を殺害し、翌朝、軍によって射殺されるまでの一日の物語である。若いテロリスト・マチェクの末路を鮮烈な映像で描き出す。マチェクがゴミ山の上で息絶えるラストシーンが印象的。ワイダ監督は、若いテロリストへの同感の眼差しを込めて、ラストシーンを描いたのだろう。

 1942年から45年までの3年間、つまり第二次大戦末期、そして大戦直後という歴史の大転換の中で、歴史に翻弄される若者たちの姿をワイダ監督は描いた。これら3つの作品は、戦中の反ナチスのレジスタンスや戦後、スターリンの率いるソ連社会主義の影響を強く受けたポーランド政権に対する抵抗を描いた作品として、「抵抗3部作」として知られている。

★監督の死

 ワイダ監督は、2016年10月9日、肺不全で逝去、90歳。ワイダ監督は、最晩年になっても、反権力への批判として映画表現への熱情を失わず、最後の作品を完成させていた。この映画を観て強く感じたのは、ワイダ監督は生涯、抵抗3部作を映画作りの原点としてこだわってきたのだな、ということであった。

 映画『残像』は、ワイダ監督が亡くなる1ヶ月前にトロント国際映画祭で初めて上映され、2017年度アカデミー外国語映画ポーランド代表作品に選ばれた。
 映画『残像』は、ポーランド人の実在の前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの物語である。ワイダ監督の抵抗3部作の中でも、1945年5月のポーランドの長い一日を描いた映画『灰とダイヤモンド』に通底しているように思える。

 第二次大戦後のスターリン時代。ソ連の強い影響下におかれたポーランドで、社会主義政権による圧制と闘い続けた実在の前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893年から1952年)の生涯を描く。

 時代は1945年。スターリンがポーランドへと侵略の手を伸ばす中、絵画をのっぺらぼうにするような社会主義リアリズムに対抗して前衛的な芸術至上主義を貫徹しようとして、大学教授の職を失うなど迫害を受けながらもスターリンの全体主義(個人は全てを全体に従属させるべきとする思想または政治体制)に抵抗した前衛芸術家の姿を照らし出す。

 ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキは第一次大戦時、ロシア軍の工兵として出征し、1916年、戦傷で左腕、右脚を失くす。1945年、ウッチ造形大学の設立に尽力し、大学で教鞭をとるようになる。

 映画『残像』で、ワイダ監督は冒頭から映画らしい手法で画家の戦傷を描く。なだらかな草原の丘。画家の教え子たちが、丘の上や斜面に散らばり、イーゼルを立てて絵を描いている。彼らを見守るように丘の上に松葉杖を突いて立っている初老の男がいる。学生を指導する画家らしい。集合が掛かったので、学生らが丘の下に集まって来る。新参者が先生は、なだらかな斜面とはいえ降りてくるのが大変なのではないかと心配をする。「否、大丈夫よ」とほかの学生が言う。なるほど、先生は、斜面に身体を横たえると先陣を切って笑いながら斜面をゴロゴロと転がり落ちて来る。ほかの学生たちも一斉に先生と同じように笑いながら斜面を転がり落ちて来た。なだらかな草原の丘の下に集まった学生たちに画家の教授は次のようなことを言う。「残像とはものを見た時に目の中に残る色なのだ。人は認識したものしか見ていない」。「認識したものしか見えない」。この言葉は、映画のタイトルであり、テーマである、ということを観客は後に知ることになる。

 映画『残像』では、映像的にも印象的なシーンをいくつも巧みに盛り込んでいる。すでに冒頭で見たように、なだらかな草原の丘。教授は、隻腕隻脚の身体を倒して、草原の丘を転がり落ちてきたではないか。

 もう一つ私の印象に残ったシーンも書き留めておこう。スターリンの肖像を描いた巨大な赤い垂れ幕が市街地の交差点の角にある4階建ビルの屋上から降り被される。歌舞伎の浅葱幕のように。ビル内の自室で絵を描いている画家のストゥシェミンスキの自室の窓などが一気に幕に覆われる。画家の全身も赤い光が覆う。絵を描いていたキャンパスも一瞬にして真っ赤に染まる。画面はすべてが赤化されてしまった。突然、窓からの光を奪われた画家は怒り心頭に発して、自室の窓を開けると、松葉杖の先で幕を切り裂いて行く。画家は何度も、何度も幕を切り裂く。交差点で幕を垂らす作業を見守っていたソ連の将校らが、異変に気がつき、ビルに飛び込み、3階角部屋の画家の自室のドアを激しく叩き、中にいたストゥシェミンスキを引き摺り出し、連行する。

 第二次大戦後のポーランドは、スターリン全体主義のソ連勢力圏に組み込まれた。1948年、ポーランド統一労働党が結成され、共産党独裁体制が確立される。映画では、芸術至上主義の画家の画業も生活も、すべての分野に渡って、スターリン独裁体制が浸透して行くさまを、まさに体を張って抵抗する画家の身体を通じて具体的に(リアルに)、あるいは象徴的なエピソードを積み重ねながら描いて行く。

 大学に講演に来た文化大臣は、集まった教授や学生を前にしたり顔で「社会主義リアリズムを最優先せよ」と威丈高に訴える。会場から一人立ち上がったストゥシェミンスキ教授は芸術表現の自由を主張して、集まった学生の拍手を浴びると、壇上に立ち尽くす大臣を残して、松葉杖を突きながら悠然と会場から出て行く。この結果、ストゥシェミンスキの生活は、あらゆる面で共産党上層部という権力からの妨害にあうようになる。大学の教授職から追われる。美術館やギャラリーに飾られていた彼の作品は撤去される。学生たちと開催する予定だった展覧会は、会場も作品も破壊されて、中止となってしまった。

 生活面のあらゆる権利が剥奪された。配給切符がもらえず、食料品など生活必需品も買えない。美術家の会員証も無効になり、画材も売ってもらえなくなった。アルバイト的な仕事を見つけて、共産党のプロパガンダの看板書き(スターリンの似顔絵つき)のようなことも匿名でするが、何処かから内通され、それも阻害されるようになる。権力者の似顔絵書きも許されない。権力というのは、いつの時代であれ、どういう体勢であれ、己にまつろわぬ者に対しては、執念深く敵対視し、継続的に迫害して来る、ということが改めて判る。

★画家の死

 映画は、1952年、病を得た画家の死で終わる。病魔に侵されながらも適切な治療を受けられず、画家は商店のショーウィンドウの飾り付けのアルバイトをしている。画家は、ショーウィンドウの中に立ち入り、ウィンドウに立ち並ぶ複数の裸体のマネキン像を抱き抱えるようにして床に倒れこんで行く。59歳であった。ショーウィンドウの中の孤独死。その死に様は、「灰とダイヤモンド」の青年テロリスト・マチェクがゴミ山の上でひとり息絶えるシーンに似ているように思える。

 1893年生まれのストゥシェミンスキは、彫刻家の妻カタジナ・コブロと共にポーランド前衛芸術の地盤を築いた功労者であった。作品はウッチ近代美術館に所蔵されて、1930年から34年の作品は、特に「非具象の古典」と言われた。彼が設立に尽力したウッチ造形大学は、現代では、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ記念ウッチ美術大学という。

 生年が、30歳あまり、つまり一世代違うヴワディスワフ・ストゥシェミンスキとアンジェイ・ワイダ。ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの家庭的な不幸などを含めて画家の栄光と悲惨さの生涯を描いた『残像』とアンジェイ・ワイダの自伝的な色合いの濃い抵抗3部作との類似に気づかされる。『鷲の指輪』『聖週間』『カティンの森』など、私もワイダ監督の作品は幾つか観てきた。多数の作品を残したワイダ監督だが、性根のところは、抵抗3部作を映画作りの原型となる定点にしながら、定点の位置から横にずれることなく、上へ螺旋階段を昇るように、あるいは絵の具を重ね塗りする油絵の技法の通りに作品を積み重ねて来た、ということなのだろう。ワイダ監督が阻止しようとしてきたのは、いかなる体制であっても、権力による表現の自由の死だけは迎えないように抵抗しようというメッセージだったのではないか。

★三番目の死

 「三番目の死」を私たちは阻止しなければならない。それがワイダ監督が私たちに残したメッセージなのではないか。では、三番目の死とは、何か。

 映画『残像』が伝える「死」。一つは、1952年12月28日の画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの死。ストゥシェミンスキを苦しめながら、およそ2ヶ月後、1953年3月5日のスターリンの死も時代は同伴させた。惜しむらくは、ストゥシェミンスキのために、画家と独裁者の死の順番を逆にして欲しかった。

 二番目は、映画の抵抗3部作に生涯こだわりながら、60年も映画監督を勤め、映画『残像』を遺して亡くなった、2016年の監督アンジェイ・ワイダの死。ワイダ監督は、承知のように、モスクワ国際映画祭、カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭などでの受賞、アメリカアカデミー賞でのノミネートなど、国際的にも評価が高い監督だった。遺作『残像』を通じての彼からのダイイングメッセージは、「抵抗をせよ」だろう。

 2017年の日本。日本では、国会で共謀罪の法制化が審議されている。執念深い国家権力は、いま、安部政権という鎧を纏って不死鳥の如く、言論表現の自由を圧死させようと、「4度目の執念」を燃やしている。ストゥシェミンスキの死後、およそ2ヶ月後に権力者を襲ったのは、死であった。こんなことをここに書いたり、どこかで喋ったりする。それに同意する読者のあなたも、共謀罪が法制化される時代が来ると、そういう内心の自由(良心の自由)も抑圧されるようになるだろう。

★三番目の死とは、表現の自由の死

 表現の自由の死は、あってはならない。国会で審議されている共謀罪が法制化されると共謀罪の対象となる277の罪名のうちに、「著作権等の侵害等」というのがある。私が理事・委員長をしている日本ペンクラブ電子文藝館委員会では、「電子文藝館」(日本ペンクラブ専用のデジタル・ライブラリー。現在、日本近代文学の山脈を鳥瞰するように、1,000を超える作品が掲載されている。中には、英仏語に翻訳された作品も掲載している)への作品掲載にあたっては、委員からの掲載希望作品提案を元に、皆で「共謀」して掲載の是非について検討する。委員相互の「合議」を重ね、委員長が「合意形成」を判断して作品掲載の運びとなる。

 委員会のこうした日常的な【文学活動】が、「共謀罪」になるかどうか、権利者・権利継承者の「親告」を踏まえて(あるいは、「親告」を受けたと、でっち上げあげられるかもしれない)、捜査当局の判断(あるいは思惑)次第で恣意的に疑いをかけられると、日本ペンクラブ全体(電子文藝館委員会は、複数の委員のほかに、委員長、館長=会長などで構成)が捜査対象になる恐れがある。

 ペンクラブの当たり前の【文学活動】が萎縮させられかねない法案は、是非とも4度目の廃案にすべきだ。そうでないと、調べるだけ調べて、結果的に嫌疑不十分、起訴猶予、あるいは不起訴になっても、権力側は、自分たちが必要とする資料やデータをペンクラブの中から、ごっそりと持ち出すことができるようになる。277の罪名を見て欲しい。誰もが脚元をすくわれかねない身近な罪名が必ず見つかるはずだ。共謀罪の法制化とは、そういう怖い問題なのである。身近な罪名、罪状の曖昧な定義、捜査当局に委ねられる恣意的な判断、目的は言論表現の自由の事前の束縛などなどが、皆さんにも見えてくるはずだ。

 ワイダ監督が、遺作として描く映画『残像』のテーマで浮き彫りになった三番目の死とは、言論表現の「自由の死」のことである。ワイダ監督が体験した社会主義的全体主義であれ、昨今、世界に吹き荒れるウルトラナショナリズムであれ、権力者の専横は、国民にとって、表現の自由の死を招く。ワイダ監督は、三番目の死への警告を発したまま、逝去した。その警告とは、基本的人権としての「抵抗」の復活への呼びかけだろう。抵抗権を!

 映画『残像』は、6月10日(土)から東京・神保町の岩波ホールほかで公開され、順次全国公開となる。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)。日本ペンクラブ理事。オルタ編集委員)

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