【オルタの視点】

なぜ、ロシアはシリア空爆に踏み切ったのか
—ロシアの視点から見る中東世界—

石郷岡 建


 ロシアのプーチン政権は9月末、シリアのイスラム過激派集団への空爆を開始した。旧ソ連以外の他国への軍事介入としては、ソ連崩壊後初であり、1979年のアフガニスタン軍事介入以来の大規模な国外軍事活動となる。欧米諸国は、今回のロシアの軍事介入を予期しておらず、不意をつかれた印象である。このため、欧米メディアを中心に、「ウクライナの内戦から注意をそらすのが狙いだ」とか、「中東で唯一のロシア軍港が存在し、ロシア兵器の有力な買い付け国のシリアのアサド政権を支えるためだ」、さらには、「対露経済制裁を発動する欧米諸国、特に米政権への牽制であり、中東での勢力拡大を目論んだ駆け引きだ」などとの論評が相次いだ。これらの報道をすべて全面否定するわけではないが、今回の空爆の背景はもっと深く、中東の歴史をめぐるロシアの解釈と今後の世界秩序の構築への長期的な戦略への思惑が含まれている。

◆◆ <ソ連崩壊と中東>

 そもそもの始まりはソ連崩壊による世界秩序の崩壊だった。中東全域で米国との覇権争いを繰り広げていた超大国ソ連の喪失は、中東アラブ世界に大きな衝撃を与えた。そのもっとも大きな影響を受けたのが、イスラエルとの軍事対立を続けていたアラファト議長が指揮するパレスチナ解放勢力で、ソ連という軍事的後ろ盾を失い、急速に衰退していった。もはや、パレスチナ勢力がイスラエルに対して、軍事的勝利を収める可能性はなくなった。代わりに、登場してくるのが、イスラム強硬派武装組織で、これは中東全体に影響を与えていくことになる。簡単にいえば、近代的軍事力の代わりに、個人的な爆弾テロ戦術の展開となる。

 一方、ソ連は崩壊したあと、15の共和国、すべてが分離独立し、ロシアは「ロシア共和国連邦」として再生することになる。再生ロシアの指導者は、ゴルバチョフ・ソ連大統領に代わって、エリツィン初代ロシア大統領が責任を負うことになる。毀誉褒貶のあった大統領だったが、経済政策は欧米型の市場経済導入を目指し、欧米諸国経済への統合を目指した。外交政策は旧社会主義諸国との関係見直しであり、開発途上国への経済・軍事援助の全面的な見直しだった。中東アラブ諸国への経済・軍事支援は大幅に縮小され、ロシアは事実上、中東アラブ世界から引き揚げることになった。ソ連崩壊後の政治・経済・社会の混乱で、それどころでなかったのが実情だっただろう。

 しかし、ソ連崩壊後導入した欧米型市場経済は思うほどに発展せず、混乱や腐敗、さらには社会的格差を生み、結局、エリツィン大統領は引退を表明し、国家保安委員会(KGB)の対外諜報機関員だったプーチン氏が第二代大統領の座に就くことになる。誰もが予期していなかった新しい人物の登場であり、「PUTIN WHO?」(プーチンとは、何者だ?)という声が全世界で飛び交った。当時、欧米では、エリツィン大統領は自分の権益・資産、権力を維持するために、大統領に忠実な無名の人物を選んだと評されたが、今から振り返ると、かなり大きな間違いだったことが分かる。プーチン大統領はエリツィン初代大統領を上回る力を示す、世界的な指導者に成長する。

 2000年の大統領選挙に当選したプーチンは、当初、エリツィン政権の政策を踏襲し、劇的な政策転向はしなかった。中東地域などの外交政策でも大きな変化は出さなかった。混乱するロシア政治・経済の立て直しが先決で、精いっぱいだったというべきかもしれない。しかし、中国経済の台頭による国際石油需要の増大が予想され始め、石油価格の急上昇が始まると、石油・ガスなどのエネルギー資源の輸出国であるロシアには、莫大なエネルギー資源の売上代金が入り始め、ロシア経済は急激な立ち直りを始めた。

◆◆ <9・11米国同時多発テロ事件>

 プーチン政権2年目、2001年9月11日、世界を震撼とさせる事件が起きる。国際イスラム過激派組織による米国同時多発テロ事件の発生である。米民間航空機ハイジャックによるニューヨークの世界貿易センタービルや首都ワシントン郊外の国防総省本部庁舎(ペンタゴン)への自爆テロだった。世界に大きな衝撃を与えた。
 その日、プーチン大統領は直ちに、政府緊急会議を招集し、「われわれはあなた方とともにある」という有名なメッセージを、米ブッシュ大統領に送ることになる。ゴルバチョフ、エリツィンの前政権とは異なる親米路線への転換の表明で、もはや、ロシアは米国と張り合う国家ではなく、超大国の地位にもいない、世界を指導する国家は米国しかいないという一極世界観の承認だった。

 事件の背景には、アフガニスタンなどで勢力を広げる国際イスラム原理主義組織「アルカイダ」の存在があり、アフガニスタンと国境を接する中央アジアなどを抱えるロシアは、米国の同時多発テロのユーラシア地域への波及を恐れたのである。一言でいえば、他人事ではない話だったのである。

 プーチン大統領は、アフガン軍事行動に積極的支持・支援するとの立場を示し、北(つまり、ロシア・中央アジア地域))から米軍アフガン軍事作戦の展開を許した。ロシアにとっては、地政学的な“柔らかな下腹部”といわれた軍事的な弱体地域・中央アジア国境地帯への旧敵国・米軍の進出の承認であり、ソ連時代には考えられなかった戦略・政策の転換だった。

 米ブッシュ政権は対テロ軍事作戦を「テロとの戦争」と呼び、単に犯行グループを捕獲するだけではなく、イスラム系過激組織を全世界的にせん滅すると宣言した。米軍事戦略の大幅変更であり、「非対象戦争」の開始ともいわれた。つまり、戦争は国家間のみならず、国家と武装組織や少数グループとの間でも起き得るとの主張で、戦争の概念が変わったと説明された。具体的な戦略としては、(1)単独主義(2)先制攻撃(3)体制転換の3本柱が骨子だった。
 つまり、(1)相手国(集団)に対しては、米国単独でも軍事行動を展開する(2)相手国(集団)に対しては、相手が奇襲攻撃を加える前に、先制攻撃を行い、未然に損害を防ぐ(3)相手国(集団)に対しては、権力体制の転換・転覆も辞さない—となる。戦争への積極的、かつ素早い行動を鼓舞する軍事戦略となっている。

 当時のプーチン大統領は、ブッシュ大統領の対テロ戦争に全面的な支持の方針を打ち出した。背景には、再生ロシア国家にとって大きな問題となっていたチェチェン紛争(1994年〜1996年、1999年〜2009年)があった。9・11事件当時はチェチェン第二次紛争の真っ最中だった。紛争とはいっても、ロシア政府軍は約10万の兵士を動員し、戦車や戦闘機が動員される本格的な戦争で、「ロシアの非対称戦争」だった。
 ロシア政府軍は圧倒的な軍事力を背景に有利な戦闘を展開していくが、それがイスラム系テロ組織による小学校や劇場占拠事件などを引き起こし、多数の被害者を引き出すことにつながった。ロシアの治安を揺るがし、社会全体に覆いかぶさる国内不安を増大させたのだった。

 一方、ブッシュ米政権はアフガニスタン平定を目指し、大規模な軍事作戦(「テロとの戦争」)を展開するが、指導者と目されたビン・ラディンの行方は分からず、ゲリラ化したイスラム原理主義組織の掃討には手を焼いていたのが実態だった。ちなみに、指導者ビン・ラディンが捕獲・射殺されるのは、約10年後の2011年5月で、パキスタンのアポッターバードという町の隠れ家だった。

 対テロ作戦がうまくいかずに、業を煮やしたブッシュ政権は、軍事作戦の重点目標をアフガニスタンからイラクへと変更していく。イラクのサダム・フセイン独裁政権が、イスラム過激派テロ組織と連携しており、しかも、大量殺傷破壊兵器(核爆弾、生物・化学兵器)を保有しているとの告発だった。後の調査では、イスラム過激派テロ組織との連携関係は実証されず、大量殺傷破壊兵器も発見できなかった。

◆◆ <2003年、イラク戦争>

 ブッシュ政権は2003年3月、米国内世論の不満や不安を抑え込むように、フセイン政権打倒のイラク戦争を開始する。米政権の新軍事戦略である単独行動・先制攻撃・体制転換の発動でもあった。

 一方、プーチン大統領は、2001年の9・11同時テロ事件では、ブッシュ政権の全面的支持を打ち出したが、イラク戦争開始では、態度を180度変え、全面的不支持という強硬姿勢を示した。「世界の世論に反し、国際法および国連憲章に違反し、どのような理由であれ、正当化できない」という骨子の声明を出した。

 9・11後のテロ掃討作戦には全面支持をしながら、フセイン独裁政権打倒の軍事作戦には反対するというプーチン大統領の考え方の背景には、国家に謀反をはかるテロ組織には強硬な態度をとるが、独裁政権であっても一応、正規の政権と見られている国家への軍事介入は許されないとの考えがあった。さらに、体制転換政策、つまり、国家転覆となると、国家の大きな混乱をもたらすだけで、百害あって一利なしと考えていた可能性が強い。
 国家機構擁護の治安組織KGB出身のプーチン大統領は、何よりも、どんな形であれ、国家機能を守ることが、国家指導者としては、最大の義務であり、責任であり、最高の価値であると考えている。ロシア社会では、プーチン大統領は「国家主義者」(ロシア語ではガスダールストヴェンニクという)と分類される。

 国家機構を破壊し、国家機能を失わせ、無政府状態になると、その国家被害はもっと大きくなると考え方の持ち主で、国家機構を守るためには、ある種の妥協が必要であると主張する「現実主義者」でもある。多民族・多言語・多宗教・多文化国家であるロシアに生まれたプーチン大統領の本能的な考え方でもあった。これは後のシリア内戦におけるアサド政権支持の背景にも現れてくる。

 プーチン大統領はイラク戦争反対の記者会見の場では、「私は米軍のイラク戦争に反対だ。しかし、この戦争で米国が敗北することは望んでいない」とも発言していた。米国無き無極世界は、もっと混乱するという不安感の表明であった。

◆◆ <自由の拡大戦略>

 米ブッシュ政権が始めたイラク戦争は、アフガン軍事行動と同様にうまくいかなかった。圧倒的な軍事力の行使の前に、イラク政権は崩壊したが、戦後の復活は見るべきものがなかった。フセイン大統領も捕獲・処刑されるが(2003年12月捕獲、2006年12月死刑)、イラク国内の混乱は収まらず、イスラム教の多数派のシーア派、少数派のスンニ派、クルド民族グループの三つの勢力による国内分裂が起き、いまでも対立・混乱状態は続いている。そして、スンニ派の原理主義過激勢力「イスラム国」を台頭させる結果にもなった。フセイン政権下で活躍した旧政府軍のスンニ派将校団は、「イスラム国」に合流・吸収され、中東アラブ世界を震撼させることになる。

 ブッシュ政権は、イラク戦争開始の当初の理由だったイスラム原理主義組織との連携行動や大量破壊兵器が証明できないと分かると、イラク戦争の理由は、テロ組織掃討ではなく、フセイン政権の独裁政治の是正であり、「自由と民主主義」の確立であるとの説明するようになる。特に、2004年から2005年にかけての第二期政権時代に入ると、大統領選挙に不利な「テロとの戦争」の話は避けるようになり、代わって、「自由の拡大戦略」が華々しく発表され、「米国は全世界の民主化促進を支援する」と声高に説明された。

 この「自由の拡大戦略」は、中東地域の民主化促進が主な目的とされたが、当時、その喚声の中で実施された中東選挙は、パレスチナ自治政府も、エジプト選挙も、原理主義に近いイスラム勢力が勝利し、米政府が目論んだ親欧米民主化勢力の支持拡大にはつながらなかった。

 代わって、ブッシュ政権が目をつけたのが、旧ソ連地域の“民主化運動”で、グルジア、キルギズ、ウクライナなどで展開された反政府勢力による政権交代騒ぎを全面支援することになる。それぞれ「バラ革命」、「チューリップ革命」、「オレンジ革命」などと名付けられ、旧ソ連地域への支配を強めるロシアへの反発・反乱と解釈された。ロシアの圧政から「自由と民主主義」を獲得する「民主化運動」(「カラー革命」とも呼ばれた)と解釈され、賛美されたのである。

 プーチン政権は、ブッシュ政権の「テロとの戦争」を積極的に支援したにも関わらず、「裏切られた」との感情を持つことになる。「自由の拡大戦略」への反発であり、その反米感情への増大から中露接近へとつながっていく。2005年7月1日、モスクワで開かれた中露首脳(プーチン・胡錦濤)会談では「21世紀の国際秩序に関する中露共同声明」が発表され、「21世紀は米単独一極世界から多極化世界へと移っていく」という中露の世界観の合意が強調された。中露の戦略提携の始まりである。もっとも、中国は、その後、多極化世界から米中の2極化世界へと、世界観を変えていく。ロシアは世界に影響力を与ええる「極」ではないとの突き放した立場でもある。

 プーチン大統領は2007年2月、ミュンヘンで開かれた国際安全保障会議で演説し、「冷戦後に(訪れると)考えられていた(米国の)一極世界は成立しなかった」との有名な言葉を発する。ブッシュ政権の「テロとの戦争」への支持から、「自由の拡大戦略」に転換した米政権へ不支持、「決別宣言」でもあった。プーチン大統領は、欧米から中国を中心としたアジア接近戦略へと急展開していくことになる。

◆◆ <ジャスミン革命、あるいは「アラブの春?」>

 2010年12月、北アフリカのチュニジア北部の町で、一青年が投身自殺したことから、大規模な抗議活動が始まり、23年間に続いたベン・アリー政権が崩壊する事件が起きる。「ジャスミン革命」と呼ばれた。投身自殺をした青年は失業中で、止む得なく屋台で野菜などを売っていたが、地方役人や女性警察官に違法行為と指弾され、暴行され、抗議の自殺を図ったとされる(のちに、女性警察官は暴行をしていなかったと主張し、無罪釈放になっている。真相は不明だ)。焼身自殺の背景には、失業率17%という高さによる若者の行き場のない怒りがあり、ベン・アリー政権の長期的経済停滞への不満、将来への不安が渦巻いていた。

 この怒りや不満は、中東全体に広がる若者の共通意識であり、「どうして中東は発展しないのか、どうして生活は豊かにならないのか」という抗議行動に火をつけることになる。
 中国などのアジア地域が飛躍的に発展するなか、中東地域は明らかに停滞しており、人口が増大するなかで、若者たちは、仕事もなく、失業に苦しんでいた。チュニジアの投身自殺は人ごとではなく、中東全体の若者の共感を引きだし、抗議の共鳴へと広がっていくことになる。

◆◆ <エジプト革命>

 最大のドラマはエジプトで2011年1月に発生し、首都カイロでは数十万人の人々が反政府活動に参加し、約30年にわたり続いたムバラク軍事独裁政権の崩壊につながっていく。中東世界の政治的中心に位置するエジプトの革命騒ぎは、中東全体へ衝撃となって伝わり、各地で、反政府デモの波が引き起こされる結果になる。

 この革命騒ぎを、欧米諸国やマスコミは「アラブの春」と呼んだ。待ちに待った「自由と民主主義」を求める民衆の蜂起であり、独裁政治への抗議で、「正義は民衆にある」という解釈だった。「アラブの春」と呼ばれた理由には、ムバラク政権の崩壊が1月から3月にかけての北半球の春に起きたことにある。

 しかし、それよりも、1968年、社会主義政権時代のチェコスロヴァキアで起きた民主化・自由化運動の「プラハの春」のイメージを重ね、中東世界の変革を期待したことが大きい。世界のどこへでも「自由と民主主義」は広がるという米ブッシュ政権の「自由の拡大戦略」路線と、西欧世界の普遍的価値観世界を、エジプトの政変と合致させるイメージで使われた「アラブの春」という言葉だった。

 ちなみに、中東世界では、この「アラブの春」という言葉はあまり使われていない。エジプトの場合は、「エジプト革命」もしくは、反政府大規模抗議が始まった「1月25日」を記念して、「1月25日革命」などと呼ばれることが多い。

 中東イスラム研究で有名な小杉泰・京大教授は「アラブに春はない。あるのはハムシーン(砂嵐)だ」と、エジプトの気候を説明したという。3月から5月まで、サハラ砂漠から押し寄せる砂混じりの熱風のことで、人々の生活をストップさせるほどの力を持つ。チェコスロヴァキアなど欧州地域で想像される「長い冷たい冬の後にやっと訪れる心温まる春」というイメージは、中東世界にはない。欧米諸国の思いこみにすぎないのである。

 2012年に起きたエジプトの政変も、単純な革命騒ぎではなく、その後、イスラム政権が誕生し、これに反対する軍部のクーデターが起き、軍事政権が復活し、イスラム勢力への大弾圧が展開されるなど、ジグザグの大混乱が続いている。「自由と民主主義」を求めた民主化運動などとは、とても言えない状況にあるのが現実だ。

◆◆ <オスマン帝国の崩壊、イスラム最高権威の消失>

 では、なぜ中東世界は混乱をするのか? 現在の混乱のもとをさかのぼると、第一次世界大戦終了後のオスマン帝国の崩壊につながっていく。
 オスマン帝国とは、中央アジアのチュルク系遊牧民族の流れを引くオスマン族が、13世紀にアナトリア(小アジア=現在のトルコ)建国し、次第に中東からバルカン半島まで領土を拡大した国家のことを指す。東ローマ帝国全域に及ぶ力を持っていた。

 1517年、エジプトのマムルーク政権を滅ぼし、アラブ民族居住地域を支配下に収めると、8世紀以来、続いていたイスラム帝国の最高権威者を指す「カリフ」(預言者ムハンマドの代理人、イスラム共同体の指導者)の称号を奪い、事実上、オスマン帝国皇帝(スルタン)としての政治・軍事的権力とイスラム教世界の宗教的権威(カリフ)の二つの力を確立したとされる。色々解釈はあるが、「スルタン・カリフ」制度と呼ばれることもある。

 その後、強大な力を持ったオスマン帝国は、欧州の列強に浸食され、第一次大戦の敗北で、帝国崩壊となる。トルコ青年党による革命が発生し、帝国から近代的国民国家の歩みを始める。そして、皇帝の名称でもある「スルタン」制度を廃止し、同時に、イスラム教の宗教的権威制度である「カリフ」制度も放棄する。

 イスラム教徒にとって、神(アッラー)から啓示(お告げ)を受けた預言者ムハマンドの教えに従う代理人(カリフ)の喪失であり、信者の集まりである「イスラム共同体」(ウンマ・イスラミーヤ)の崩壊を意味する。カリフの指導のもと、公平・平等に生きていくという人々の願いや人生の目的が宙に浮くということで、政治・宗教的な指針の喪失であるばかりでなく、人々が依拠する価値観や精神世界の喪失を意味することになった。イスラム社会を指導する「カリフ」がいなくなったことは、われわれが考える以上に大きな衝撃であり、秩序の混迷でもあった。

 しかし、オスマン帝国崩壊以後の中東アラブ社会は、人々がひとつにまとまることがなかった。新しい政治秩序、宗教的権威も回復することなく、政治・宗教的権威指導者(カリフ)を失ったままの漂流を続けた。それが、現代まで続くアラブの混乱の源になる。

◆◆ <英国の三枚舌>

 第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊し、アラブ世界がオスマン帝国から解放される直前、英仏露などの欧州列強は、中東アラブ地域を三分割する秘密協定を結んでいた。「サイコス・ピコ協定」(1916年)である。と同時に、英国はアラブの部族長たちに対し、アラブの独立支持を約束していた。「フサイン・マクマホン協定」(1915年)で、オスマン帝国に反旗を翻すことの代わりに、独立を支持すると約束だった。映画「アラビアのロレンス」の世界の話である。そして、英国は第一次大戦を戦うためにユダヤ人社会の協力を必要としており、ユダヤ人の「民族郷土」の建設も約束していた。「バルフォア宣言」(1917年)で、後の、イスラエル建国・パレスチナ紛争の源になる。

 つまり、第一次大戦終了後のアラブ世界の将来について、英国は三つの相異なる計画を提唱し、それぞれに約束をしていた。後に「英国の三枚舌」といわれる取り決めで、約束というよりは、狡猾な騙しだった。中東アラブ世界が英国ならびに西欧社会への不信感を抱く大きな理由ともなった。

 一方、ロシアは、第一次世界大戦でロマノフ王朝が崩れ、ロシア革命が起きる。英仏と約束していたアラブ世界三分割の秘密約束「サイコス・ピコ協定」の存在を暴露し、協定から脱退を宣言する。革命後の混乱、国内内戦で、中東に手をまわす余裕はなかったのが実態だったともいえる。しかし、英仏と共謀してアラブ分割支配に加わらなかったことで、ロシアは、中東地域では、「植民地主義者」の汚名を免れることになる。後の中東進出の基礎ともなった。

 そして、アラブ地域の都市知識人や若者の間に、反西欧・反トルコ・反イスラム教の社会主義思想を吹き込むことになる。後に、「アラブ民族主義」と呼ばれるが運動がアラブ地域全体に吹き荒れた際、平等・公平を唱える社会主義が中東地域で大きく広がった理由でもあった。とはいっても、ソ連型社会主義とは、全く異なる思想・考え方で、「アラブ社会主義」とも呼ばれた。

 第一次大戦後の中東アラブ地域は、結局、英国支配地域(のちのイラク、クエート、パレスチナ、エジプト)とフランス支配地域(レバノン、シリア)に分割されることになる。現在の中東アラブ地域の不自然な国境線の誕生の説明であり、約3000万人とされるクルド民族がトルコ、シリア、イラク、イランなどに分割され、国家を持つことがなく、漂流する理由でもあった。また、中東諸国が強靭な国家性や国境線などを持たず、国家機構・機能が脆弱で、常に不安定性を抱える理由でもある。現在のイスラム過激派組織「イスラム国」が国家や国境線を越えて、簡単に支配地域を広げる説明ともなる。

◆◆ <アラブ民族主義>

 第二次大戦後、強大な力を誇った英仏を初めとする欧州列強国が衰退を始め、その帝国主義的、あるいは植民地主義的な統治能力を失い始めると、中東アラブ地域は、独立・国家形成を始める。しかし、その国家形成は英仏支配の分割の際に作られた人工的な枠組みを土台としており、矛盾を抱えたものだった。そして何よりも、西欧型市民社会や国家意識が欠如しており、西欧型近代国家を構築するのには大きな問題があった。

 そんな中東アラブ社会に、大きな問題が持ち込まれる。第二次大戦中、ナチス・ドイツの抑圧から逃れた大量ユダヤ人のパレスチナ移住と「イスラエル国家」の建設である。中東アラブ世界とユダヤ・イスラエル国家の対立・衝突の始まりとなる。
 中東諸国とイスラエルは、4回にわたる戦争(1948〜49年、1956年、1967年、1973年)を繰り返した。最初の戦争(第一次中東戦争)では、ユダヤ人移住者による「イスラエル」独立国家の宣言に対し、周辺の中東諸国が反発し、イスラエルに攻撃を仕掛けるが、古い王族・部族意識の強い中東諸国連合軍はイスラエルの国民軍の団結に負けることになる。

 アラブ地域の人々の間に伝わった深い敗北感は、王族・部族の旧体制への批判へとつながっていく。その批判運動のなかで、現れたのがエジプトの自由将校団のナセル少佐だった。1952年7月、エジプト革命を指揮し、国王を追放し、権力を握る。ナセルは、イギリス植民地主義に反対し、アラブの独立の「アラブ民族主義」を提起することになる。
 内容は反西欧・親社会主義の「アラブ近代化」だった。
 ナセルは、第二次中東戦争の際、スエズ運河を国有化し、さらに英仏の軍事介入を、米ソの後ろ盾もあり、阻止することに成功する。ナセルは中東アラブ世界の英雄となり、「アラブ民族主義」が中東全体に爆発的に広がることになる。

◆◆ <自由将校団>

 エジプトのナセルが始めたエジプト自由将校団の「アラブ民族主義」運動は、アラブ各地へ広がり、自由将校団が次々と設立され、各地で軍事クーデター騒ぎを起こすことになる。この流れは、のちに、イラクのサダム・フセイン、シリアのハフェズ・アサド、リビヤのムアンマル・カダフィなどの「アラブ民族主義」の流れを組む指導者の台頭を促す。現在の中東の政治地図の基礎を作ることになる。
 いずれも、イスラエルに対しては強硬な態度をとり、欧米諸国とは対立し、ソ連からの軍事支援を受けてきたことで知られる。「アラブ強硬派」とも呼ばれ国々でもあり、振り返ってみると、今回の「アラブの春」と呼ばれた反政府運動や革命騒ぎが起きた国々の大半が、いわゆる「アラブ強硬派」の反西欧主義国で、イスラム教を抑え、社会主義的国家建設を目指した国々であったことが分かる。

 また、ソ連時代を通じて、ロシアとは深い関係や交流を持ってきた国々でもあり、もともと、中東アラブ世界の王族・部族社会を批判し、トルコ型の脱イスラム教の世俗国家と近代的軍事組織の樹立を目指した国々だった。独立政治意識が強いだけに、波乱万丈の歴史を歩み、現在はいずれも混乱の真っただ中にいるということになる。復古主義的なイスラム教ワッハーブ派の教えを守り、王族支配政治を続けるサウジアラビアやアラブの盟主だったハシム家伝統の王朝政治を守り続けるヨルダンなど、政治体制変革がほとんど起こしていない国とは対照的な歴史を歩むことになった。

◆◆ <イスラム原理主義の台頭>

 しかし、この「アラブ民族主義」運動は長く続かなかった。第三次中東戦争で、ナセル大統領が指導するエジプト軍がイスラエルに惨敗したことで、失望感が広がり、衰退の道へと入っていく。 
 代わりに台頭してくるのが、イスラム原理主義運動で、ナセルらの近代国家構築構想への根本的な疑念を突き付け、「イスラムの古き良き、正しい時代へ戻れ」とのイスラム復古主義への共感を示した。「アラブ民族主義」も「イスラム原理主義」も、西欧近代思想への懐疑と反発が底流に流れており、反西欧主義の運動ではあったが、前者が近代国家思想そのものは否定しなかったのに対し、後者のイスラム原理主義は近代国家を完全否定し、歴史の後戻りを主張したといえる。イスラム原理主義たちは、アッラーの神の下の平等な社会、「ウンマ・イスラミーヤ」(イスラム共同体)の復活を主張し、イスラム教信者を中心に、支持者を深く広げていくことになる。

 イスラム原理主義台頭の変化のなかで、エジプトでは、ナセルに次ぐ指導者として、アンアル・サダトが現れ、大統領職を受け継ぐと、ナセル時代の反西欧親社会主義路線からの転換をはかる。自由将校団時代の「アラブ民族主義」思想の否定であり、親西欧自由主義路線への国家戦略の180度転換だった。そして、米国の後押しで、宿敵イスラエルとの休戦・和解への道を始める。戦争から和平への転換・模索であり、アラブ社会から見ると、パレスチナ紛争から離脱・逃亡であり、「アラブの大義」の放棄だった。
 このエジプトの新国家戦略は、西欧社会から歓迎されたが、市場主義経済の導入による経済格差やパレスチナ問題のイスラエル寄りの立場などに反発する一般民衆には評判が悪かった。これが1981年10月のアンワル・サダト大統領暗殺事件につながっていく。

 サダト大統領死後、ソ連で軍事訓練を受けた経歴を持つホスニ・ムバラクが大統領職に付くが、サダト軍事政権の親西欧路線を崩すことはなかった。逆に、イスラム勢力への弾圧は厳しさを強め、それがまたイスラム原理主義派勢力の過激さを増大させるという負の連関を続けることになった。
 1979年12月、ソ連がアフガニスタン侵攻を行うと、アラブ世界各地から義勇軍が集まり、アフガニスタンへと入っていった。「アルカイダ」と呼ばれるイスラム原理主義武装組織が誕生する。その「アルカイダ」の指導者ビン・ラディンは、サウジアラビア出身で、イスラム原理主義に共鳴し、アフガニスタン入りした。一時は、米国CIAの支援を受けたとされる。
 しかし、1990年8月に始まった対イラクの湾岸戦争では、メッカ、メディナのイスラム教聖地が汚されたということから強硬な反米主義者に転向し、2001年9月11日の米国多発テロ事件を引き起こすことになる。ちなみに、「アルカイダ」のNo.2の指導者の名前はアイマン・ザワヒリでエジプト出身、ムバラク政権の弾圧をうけたイスラム原理主義系の「ムスリム同胞団」のメンバーだった。現在は、ビン・ラディン亡きあとの「アルカイダ」のリーダーを務めているという。因果は回るという話である。

◆◆ <シリアの春?>

 では、今回のロシアのシリア空爆の背景には、何が起きたのか? なぜ、ロシアは空爆に踏み切ったのか? 中東アラブ世界で何が起きていたのか、という命題を頭に置きながら、ロシアとシリアの関係を考えたい。

 2011年春、エジプトでムバラク大統領軍事政権に抗議する反政府運動が始まり、ついにはムバラク大統領追放へと発展すると、中東アラブ全域へ、この反政府抗議運動が広がっていった。抗議の内容は様々だったが、長期独裁あるいは権威主義政権による経済発展の遅れや閉塞感に対する反発が、エジプトの政権交代騒ぎを見て、各地で爆発的に広がったといえる。そして、政治意識の強い「旧アラブ強硬派諸国」では、その政治的な怒りや抗議が、他の王朝国家より過激な形で噴出し、政治権力の交代騒ぎへと発展し、利害集団がぶつかり合い、流血の騒ぎへと拡大することになる。

 シリアでも、アサド大統領政権に対する不満や怒りが爆発し、チュニジアやエジプトの跡を追うことになる。欧米諸国は、「シリアにも“アラブの春”の民主化の波が押し寄せた」と賛美し、アサド独裁政権を批判し、政権批判に立ちあがった人々を支援する声が高まる。「独裁者対被抑圧市民」という単純な構図で理解されることが多かった。
 しかし、チュニジアやエジプトと違って、アサド政権は簡単には倒れなかった。アサド大統領はイスラム教シーア派の流れを汲む少数派のアラウィ派教徒出身で、政権をアラウィ教徒で固めていた。ちなみにシリアの宗派別の割合はアラウィ派12%、スンニ派74%で、そのほかにキリスト教徒10%、ユダヤ教徒、ドルーズ派などとなっている。
 つまり、シリアは、圧倒的少数派のアラウィ派独裁政権で、多数派住民のスンニ派を抑え込む仕組みになっていた。抑圧されたスンニ派住民は、長年にわたる怨み・つらみを蓄積していた。エジプトのムバラク軍事政権の崩壊の知らせを受けて、スンニ派住民の怒りは爆発し、政権交代をめぐる対立へと発展する。

 シリアの反政府運動は、もともとはアサド政権退陣を要求する政治運動だった。しかし、アサド政権側の弾圧により、運動は過激化し、ついには、反政府側が銃をとり、武装闘争を始める。この段階で、シリアの反政府運動は純粋な政治抗議というよりは、アラウィ派とスンニ派の宗派武装対立へと変化し、内戦への移行が必至となった。
 そして、アサド政権が倒れると、アラウィ派住民は、すべての利害・権益、資産を失う可能性が強かった。それどころか、少数派のアラウィ派住民への大虐殺事件が起きる可能性さえ危惧されていた。アラウィ派は兵器を長期政権の間に管理し、力を貯め込んでおり、組織的な戦いに強かった。さらに、敗北すれば虐殺もあり得るとの意識から団結力が強く、戦いへの意識も強かった。
 これに対し、多数派のスンニ派は、強硬派から穏健派まで様々なグループに分かれ、団結力が弱く、お互いに対立し、衝突を繰り返していた。背景には。近代国家意識よりも、血縁・地縁に基づく部族意識が強いことがあった。アサド政権の政府軍に対抗するには問題を抱え込んでいたのである。

◆◆ <プーチン大統領とアサド政権>

 このような事態になることは、中東アラブ研究者では予想されていた。ロシア側関係者も、そのような説明や分析をしていた。そして、プーチン大統領も、アサド政権は「なかなか倒れない」と分析し、そのような説明をしてきた。
 欧米では、プーチン大統領がアサド大統領と関係が深く、また、長年の歴史的利害関係から縁が切れず、アサド政権の支援に必死になっていると説明することが多い。もしくは、解釈されることが多かった。
 しかし、本当のことを言えば、ロシアの大半の人は、アサド大統領を応援しておらず、好きだとも思っていない。欧米のロシア研究者のなかでも、そう主張する人もいる。英国のブレントン元ロシア駐在大使は「ロシアの人と個人的な話をすると、アサド大統領がどんな人物かよく知っており、特に好きだと思っていない」と述べ、「アサドは悪い奴かもしれないが、イスラム国に比べれば、まだ、まし、ということだ」と指摘した。

 実は、プーチン大統領に限らず、ラヴロフ外相も、ザハーロヴァ報道官も、「ロシアはアサド大統領を個人的に支援しているわけではない」と何回も繰り返していた。ザハ—ロヴァ報道官は、「ロシアはアサド大統領ではなく、シリアの国家性(ロシア語でガスダールストヴェンノスチ=国家のあり方・強靭性)を支援しているのだ」と発言した。その意味は、「シリアが国家、もしくは国家性の強靭さを失い、崩壊すると、シリアには、より脆弱な国家が登場し、未曽有の混乱が押し寄せる」という指摘で、シリアが国家崩壊し、無政府状態になる場合の怖さを警告していた。強靭な国家性を失った国家の行方は、周辺地域にも、大きな混乱と被害をもたらすという意味でもある。
 多民族国家の統一の難しさを抱えるロシアならではの警告であり、シリアの危機は中東ならびに世界の危機へつながるという主張でもある。プーチン大統領は国家主義者としての国家崩壊による安全保障体制の崩壊に対して過敏なほど反応しており、また、ソ連崩壊という混乱を経験したロシア国民の多くは、大統領の危機感に同調し、その政策に同意している。プーチン大統領はアサド大統領もしくは、アサド政権を応援しているのではなく、少数派独裁政権の崩壊によるシリア及び中東世界の混乱に危機感を抱いていたのである。

 実は、このような現実義的な考え方を米政権が持っていた時期もあった。2003年の「イラク戦争」の12年前に起きた「湾岸戦争」で、イラク軍のクエート侵攻に対し、米国を初めとする多国籍軍はイラクへの反撃を開始し、イラク領内に進出するが、当時のサダム・フセイン政権崩壊への攻撃を直前にストップする。フセイン政権の崩壊によるイラク情勢の混乱・不安定化を危惧したといわれている。
 ブッシュ(父)大統領政権時代の話で、後に、ブッシュ(息子)大統領は2003年の「イラク戦争」開始にあたり、「パパの敵(かたき)を取る」と言ったという話がある。真偽は不明だが、ブッシュ親子がイラクのフセイン政権に複雑な怨念の感情を持っていたという話でもある。

◆◆ <ロシア海軍基地?>

 もうひとつ、西欧マスコミなどが、シリアにはロシア海軍基地があり、アサド政権崩壊で地中海唯一の海軍基地が失われることを、ロシアは恐れていると主張することが多い。シリアの地中海沿岸タルトス港のことを指すが、100m程度の浮き橋と小さな補助施設がある程度で、大型艦船が着岸することはできない。ロシア政府は補給所と呼んでおり、米軍は施設と名付けている。とても海軍基地と呼ぶような代物ではない。一時、同港の改修工事計画があったが、資金不足でうやむやになり、そのまま放置されてきたのが実態だ。
 また、ロシアはシリアへ兵器を輸出しており、アサド政権の崩壊で兵器の輸出がストップすることを恐れているとの説明も良くされる。これも間違っている。簡単にいえば、シリアはアサド政権であろうと、反政府勢力であろうと、輸出の相手は誰でもいいのである。アサド大統領にこだわる必要性はない。

 シリアはユダヤ人国家イスラエルと国境を接し、軍事的対立する国家だ。強力なユダヤ・ロビー団体が活動する欧米諸国では、このイスラエルに対抗して、シリアに兵器を調達する勇気はない。つまり、シリアに兵器輸出できるのは、ロシア以外には見当たらないというのが現実だ。アサド政権であろうと、別の政権になろうと、シリアは常に、ロシアから兵器を調達するしかない宿命にある。ロシアは、そのことを良く知っている。権力体制交代の対立が始まっても、どちらが勝つのか、見極めるだけでいい。勝ち馬に乗ればいいのである。
 つまり、アサド政権をどうしても支援する必然性はないし、シリア支援の理由の説明にはならないのである。問題は、どの勢力が安定政権を作れるかということで、現状では、反政府スンニ派勢力は四分五列の状態で権力を握る態勢にはない。アサド政権を倒し、安定政権を作る余裕はない。また、アサド政権を倒したとしても、各勢力の内部対立で、「ソマリア型無秩序状態」(アフリカ北東部の国家で、内部対立の激化から国家構造が崩れ、武装勢力が乱立し、結果的に、イスラム原理主義勢力が力を増大させている状態)がやってくる可能性の方が強い。ならば、まだアサド政権の方がましであるというのが、プーチン大統領の考え方である。正義よりも現実主義である。逆に、シリア安定のためには、プーチン大統領はアサド大統領に見切りをつけることも十分にあり得ると、私は考えている。

◆◆ <イスラム国>

 プーチン大統領が一番、危惧しているのはアサド政権の行方ではなくイスラム原理主義勢力の行方である。特に、イスラム原理主義過激派勢力の「イスラム国」の台頭は、ロシア政府にとっては、無視できない問題となっている。ロシア南部のカフカス(コーカサス)地域では反ロシアの独立運動がイスラム原理主義運動へと傾斜していくことが多い。ロシア治安当局の発表によれば、約2000人の若者がすでにシリア入りし、イスラム原理主義過激派の「ヌスラ戦線」や「イスラム国」などに合流している。さらに、中央アジアなどイスラム教諸国を加えると、中東各地の過激派に合流している若者は5000人を越えるといわれる。そして、この若者たちの背後には、イスラム原理主義に傾倒しつつある若者が数千人から数万人の単位で存在しているとされる。

 ロシアは、欧州で最大のイスラム人口を抱える国であり、半端でない数のイスラム教徒が存在する。中東のイスラム過激派が増大すれば、増大するほど、イスラム過激派の影響はロシア南部から北へどんどん浸透してくることになる。
 首都モスクワには、すでに数十万人のイスラム教徒が住んでいるとされ、ラマダン(断食月)最終日のお祭り日には、モスクワ北部のイスラム寺院周辺がイスラム教徒でぎっしりとなる。交通はストップし、寺院からあふれ出た人々が、通りいっぱいに、ひざまずいて礼拝する壮観な情景が繰り広げられている。
 ロシア社会としては、もはや、イスラム教の動向は無視できない状況であり、プーチン大統領も神経質にならざるをえない。ロシアの国家性のなかに、イスラム住民を、どのように加えるのかという問題は、ロシア国家の行方を決める重要な問題なのである。

 もっと深刻な問題が、イスラム原理主義過激勢力の「イスラム国」で、シリアのイスラム原理主義勢力の増大の背後で急速に支配地域を拡大し、シリア全体を飲みこもうとしていることだ。
 そして、この新興勢力「イスラム国」は、ロシアなど周辺国に衝撃を与えている。指導者とされるバクダディが、自らを「カリフ」(預言者の代理人)と名乗ったからだ。

 すでに説明したように、イスラム教徒にとって、イスラム世界全体を支配する「ウンマ・イスラミーヤ」(イスラム共同体)の再生という課題は、特別な意味と響きを持つ。アッラー(神)に通ずる預言者ムハマンドの教えを実行する指導者「カリフ」の下で作られる「ウンマ・イスラミーヤ」の世界は宗教的な理想社会であり、7世紀から8世紀に繁栄した「イスラム帝国」の再来を示唆する。イスラム教徒にとっては、憧れであり、否定することのできない神聖さを持つ。その「カリフ」が現れたというのである。
 「イスラム国」の指導者とされるバクダディが本当に預言者ムハマンドの血を引く代理人かどうかは胡散臭い話だ。しかし、その真偽は別として、オスマン帝国崩壊以来、消滅していた「カリフ」の再来という話は、イスラム教徒にとっては、あらがうことができない期待とカリスマ的な魅力を突き付ける。世界各地のイスラム原理主義者たちが、「イスラム国」への忠誠や合流を宣言するのも、止む得ない背景があるのだ。

 プ—チン大統領から見ると、もし、シリア全域が「イスラム国」の支配下に入り、「カリフ国」が国家としての政治的正統性を持ち始めると、イスラム世界全体にバクダディ信仰者が爆発的に増える可能性が出てくる。チェチェンを初めとするカフカス地域では、「イスラム国」、もしくは「イスラム国もどき」の組織や準国家形態組織が台頭・乱立してくる可能性が強い。ロシア国家の安定性の瓦解の始まりで、ロシア国家、そのものの危機につながりかねない。
 さらに、「イスラム国」の権威は、アフガニスタンに飛び火し、アフガニスタン国内を席巻するとともに、アムダリア河を越えて、中央アジア諸国へ浸透し、中央アジア全体を揺るがすかもしれない。「カリフ国家騒動」の混乱や騒乱が旧ソ連全域に広がる前に、シリア国内で火種を消しとめたいというのが、プーチン大統領の考え方だろう。そして、ロシア国民の大半は、この考え方を理解し、賛同している。「イスラム国」問題は対岸の火事ではなく、膝元まで火が燃え伝わって来ているのが現実の感覚だといえる。
 さらに、ロシアの政府関係者は、ロシアの南部国境からシリアまでは約600キロ。モスクワからサンクトペテルブルグまでの距離より短いと強調することが多い。イスラム中東世界はロシアのすぐそばまで広がっており、ロシアの切迫感は、欧米よりも強いという説明になる。

◆◆ <空爆前の中東状況>

 ロシアは、シリアの反政府運動が内部対立から内戦状態へと混迷化しても、すぐには介入には踏み切らなかった。基本的には、複雑なアラブ・イスラム問題に関わりたくないというのが本音だ。シリア国内勢力で紛争解決ができるのならば、その流れに任せたいと思っていたはずである。そして、勝ち馬が誰になるのか、しばらくは、静観の態度をとっていた。また、アサド政権支援の立場を明白にしたあとも、反政府側組織とのチャンネルは閉ざさず、モスクワで和平準備交渉に呼んだりしていた。

 状況が変化するのは、今年の春ごろで、北西部を中心にイスラム原理主義勢過激勢力が支配地域を拡大し、地中海岸沿いのアラウィ派の拠点都市、ラタキアへ近づいたことだ。この時点で、アサド政権はロシアのプーチン政権に軍事介入を要請した可能性が強い。
 当時、ロシアは、イランの核開発凍結の話し合いをめぐり、相対立する米国とイランの両国間の仲介役を務めていた。1970年代に、パーレビ王朝崩壊・イラン革命・米大使館占拠事件などを起きて以来、怨念の対立を続けてきた両国の歴史的な和解であり、オバマ政権にとっては、歴史に残る外交成果になるはずだった。

 その一方で、米国とイランの和解は、中東全体に大きな衝撃を与える破壊力を秘めていた。中東世界の大変革の始まりであり、中東諸国は国家戦略の洗い直しに迫られていた。そんな状況の中でのシリアのアサド政権の崩壊は、中東地域の政治地図を大きく塗り替え、中東世界を土台から大きく揺るがす可能性を秘めていたのである。
 ロシア仲介の米国・イランの歴史的合意は7月中旬に達成される。すると、イランは政府高官をロシアに派遣し、重要会談を行ったとされる。その会談が本当にあったのか、誰と誰が会談したのか、詳細は不明だ。しかし、イランはロシア側に、対イラン制裁解除後の中東情勢の協議を持ちかけ、シリア問題の解決に向けての提携・協力構想を提案したといわれる。本当かどうかは分からない。しかし、シリア空爆が始まるまでの2ヶ月間に双方で、シリア支援の軍事作戦の情報交換及び協力について突っ込んだ話しあいが行われた可能性が強い。

 ロシアが最終的にシリア空爆に踏み込んだ背景には、2015年夏に中東地域からの難民が欧州へ数万から数十万単位で押し寄せ、大きな騒ぎになったことが大きいと思われる。
 難民流入問題は、欧州だけではなく、ロシアを含む全世界に広がる可能性が強い。事実、イラク難民がロシア経由で極北国境からノルウェーに脱出を図る騒ぎが起きていた。
 そして、シリア難民に関していえば、問題の根底には内戦があり、内戦を解決しない限り、根本的な解決にはならない。もはや、軍事介入するしかないというのがロシアの考え方だ。欧州各地で起きた難民騒ぎは、軍事介入への絶好的機会を提供したといえる。難民問題解決のためというのならば、軍事行動も、それなりの理解が得られるかもしれない。シリアへの空爆開始というショックも和らげる効果があるとの判断をしたのではないかと思われる。欧州難民騒ぎは、ロシアの軍事介入を後押し、プーチン大統領の決断につながった可能性が強い。

◆◆ <空爆作戦開始>

 ロシア政府は9月に入ると、ラタキア空港とタルトス海港への軍需物資の輸送を開始する。その輸送に、ウクライナ、ブルガリアなどが米国の圧力を受け、輸送機の領空通過禁止などの措置を取る。すると、軍需物資輸送はイラン領空経由で運び続けられた。明らかに、ロシアとイランの間に事前協議があったと見られる。
 さらに、ロシア海軍はカスピ海から巡航ミサイルをイラン経由で発射した。イランとイラクの両政府が了解しない限り、巡航ミサイルはイランとイラクの上空を飛べない。これも事前了解があった可能性が強い。

 このことを確認するように、ロシアのシリア空爆直後に、イラン・イラク、シリア、ロシアの四カ国は、イスラム原理主義過激派組織「イラク国」攻撃のための「情報センター」を設置する。四カ国共同戦線構築の発表である。ロシア以外は、いずれもシーア派政権が樹立されている国々で、ロシアは中東シーア派連合に合流した形となった。
 そして、ロシアはシリア国内の原理主義過激派勢力の攻撃について、イラン、イラク、シリアの三国から貴重な情報を入手したはずである。イスラム・スンニ勢力と直接対峙してきたシーア派情報はかなり重要であり、欧米連合軍の空爆よりは、効果的な攻撃を展開した可能性が強い。

 ロシアのラヴロフ外相は空爆開始直後に、ニューヨークの国連本部で記者会見し、攻撃対象は「国連およびロシアの司法機関がテロリストと認めた集団」と述べた。つまり、「イスラム国」以外にも、ロシアが認めた過激組織はすべて攻撃対象とするということで、欧米マスコミが報道するような、「イスラム国」以外への空爆をしないとの約束はしていない。
 ラヴロフ外相は、さらに、シリア穏健派の「自由シリア軍」は攻撃対象になっていないと説明した。ロシアの目的は、イスラム原理主義過激派組織の一掃であり、その他の穏健組織との対話の可能性を残しておくということで、アサド政権との連合政権を樹立させるのが目標だと暗示したのである。

 アサド政権は、今のところ、いずれのシリア反政府勢力とも、和解合意には達してはいない。なお、戦闘状態にある。アサド政権は、今のところ、シリア反政府勢力を、穏健派と過激派ときちんと分けてはいないのが実情だ。ロシア側への過激派拠点情報でも、両派を区別しているかどうかは不明で、極めて怪しいといわざるを得ない。つまり、ロシア軍は怪しい情報に基づいて空爆を続けている可能性がある。
 また、ロシア軍の空からのピンポイント攻撃も、米国同様、一般市民への誤爆があることは確実で、テロ組織だけを攻撃しているとの発表は現実的ではない。欧米諸国が穏健派グループを空爆しているとの批判は現実にあり得る話だといえる。

◆◆ <ロシア国内のスンニ派>

 ロシアのイスラム教徒の9割以上はスンニ派で、シーア派はロシア南部のダゲスタンなどの一部しか住んでいない。つまり、ロシア国内のイスラム教徒(スンニ派)は、シリアのスンニ派過激組織への空爆に複雑な心境を抱いている。世論調査では、9割が空爆反対だ。同胞が爆撃攻撃されているという意識は消えないのである。一方、ロシアの一般市民は8割近くが空爆賛成で、際立った対照を見せている。ロシア政府にとっては、東方正教会系(ロシア正教)のキリスト教徒たちと、スンニ派イスラム教徒たちを、二つに分断し、社会不安をもたらす政治的危機状況を持ち込んでいるといえる。

 にもかかわらず、なぜ、プーチン政権はシーア派連合に、積極的に合流したのか? ここでも、「イスラム原理主義過激勢力の伸長は絶対に許せない」という強い意識が、プーチン大統領の考え方の中にあることが見て取れる。
 一般的に、スンニ派とシーア派の違いは、ムハマンドの血縁の流れの違いで説明されることが多いが、このほか、根本的な宗教観の違いがある。通常、「外向けの道」と「内向けの道」と説明されることが多い。つまり、「社会救済」か、それとも「自己救済」か、ということで、仏教でいえば、大乗仏教と上座部仏教(小乗仏教)の違いにあたる。そして、「外向けの道」は社会改革や社会制度、法律の整備などに力を入れる。その社会改革の思想が純化し、過激になると、テロ思想へと転化することもある。

 イスラム教における「外への道」はスンニ派、「内への道」はシーア派とされることが多い。つまり、過激な原理主義思想からテロ攻撃や異教徒処刑に走るのは、スンニ派の方が多いとなる。プーチン政権が国内のイスラム教スンニ派を差し置いて、シーア派と連合を組むのは、過激な社会改革を求める宗派とは連携できないという強いアピールにもなり、それなりの筋は通っていることになる。

◆◆ <中東社会の反応>

 ロシアのシーア連合への合流は、中東アラブ社会に衝撃となって伝わった。シーア派国家連合勢力の拡大が、さらに進むということで、どのように対応すべきか、激しい動きが中東世界を中心に、すでに始まっている。

 伝統保守・スンニ派の代表であるサウジアラビアは、今年初めアブドラ国王が死去し、サルマン新国王が成立すると、新国家戦略を目指し、ロシアのプーチン政権との接近を開始する。核開発凍結問題で米国とイランが和解へ向かうという中東政治状況の変化を受けたもので、米露の対イラン接近を阻止する狙いもあった。サルマン国王の息子のサルマン王子(国防相)が4月にロシアを訪問、さらに、シリア空爆開始後の10月にも、ロシアを訪問し、プーチン大統領と会談を行っている。このほか、再三にあたり、電話会談を行い、以前には見られなかった密接な接触を交わしている。
 サウジアラビアは、シリアのアサド大統領の退任を強く要求する欧米諸国と隊列を組んでいた。しかし、その後、アサド大統領の即時辞任の要求を引っ込め、同政権と反政府穏健派組織との連合政権樹立にも柔軟な態度をとり始めたとされる。サウジアラビアは中東全体の流れを見ながら、微妙なバランスを取り始め、ロシアの動きは無視できないとの立場にある。

 アラブ世界のもう一方の盟主であるエジプトは「アラブの春」騒ぎの後、軍事クーデターで権力復帰し、イスラム勢力を弾圧する側に立っている。ロシアの進めるイスラム原理主義過激派勢力「イスラム国」などへの攻撃には反対しておらず、どちらかと言うと、ロシア支持の立場だ。シリア内戦には、どちらと言うと、静観の構えにあり、積極的な介入を避けている。国内のスンニ派住民を刺激したくないとの立場だろう。
 同様に、ヨルダンも、政府軍パイロットが「イスラム国」の武装グループに拘束され、焼き殺されるという事件が起き、原理主義過激勢力と対立する立場にある。こちらも、住民の多くはスンニ派であり、シリアのアサド政権を支持するかどうかは、デリケートな問題となっている。

 もっと微妙なのがトルコで、エルドアン大統領率いる与党・公正発展党は原理主義意識の強いイスラム政党で、スンニ派のイスラム原理主義組織に対しても、それなりの理解を示す。シーア系アサド政権に好感を抱いているわけではない。その一方で、トルコ国内および周辺国に住むクルド人勢力の独立運動に非常に大きな警戒観を持っている。アサド政権の弱体化で、シリア北部のクルド勢力が自立することは好ましくないと思っている。クルドの自立の動きを抑えるためには、スンニ派原理主義過激派勢力を大目に見るというのが本音だろう。ロシアの動きに対抗するように、クルド勢力支配地域に空爆攻撃を仕掛けている。クルドの勢力拡大は抑えるという意志表示でもある。
 それでも、エルドアン大統領はロシアと緊密な関係を維持する努力も続けており、ロシアのシリア空爆の直前の9月末、パレスチナのアッバス議長とともにロシアを訪問し、プーチン大統領と会談をしている。ロシアとの関係を断絶はしたくないが、アサド支持・シーア派連合加盟のロシアの中東政策にはセーブをかけ、できる限り牽制するということかもしれない。

 中東で、もうひとつ大きな力を振るう国がある。非アラブのユダヤ人国家イスラエルである。イスラエルも、ロシアの動きに細心の注意を払っている。イスラエルと対峙するパレスチナ勢力やシリア、イランなどの敵国は、すべてロシアからの軍事支援や兵器供与を受けている。イスラエルにとっては、ロシアは無視できない存在で、大きな事件や動きがある度に、ロシアを訪れ、プーチン大統領と会談を行っている。
 ネタニエフ首相は9月中旬、トルコのエルドアン大統領の訪露の前に、モスクワを訪れ、プーチン大統領と会談をしている。アサド政権の軍事支援による兵器の横流しへの懸念を表明したとされ、パレスチナのイスラム強硬派組織「ハマス」やレバノンのイスラム強硬派組織「ヒズボラ」への兵器供与防止を訴えたとされる。

 実は、イスラエルはアサド政権を批判しながらも、実際はイスラエルの実力を分かっているアサド政権の方が、シリア反政府組織の原理主義過激派組織よりも、ましだと考えている。シリアがアサド政権の崩壊により無政府主義的な混乱を起きるのはまずいと思っており、歓迎はしていない。プーチン大統領の中東戦略、対シリア政策には同調できる立場にある。そして、イスラエルの人口の5人に1人は、ロシア語を母語とする旧ソ連・ロシア出身で、100万人を越える同国最大勢力になっている。ロシアとイスラエルは敵対しているようで、緊密であり、その関係は外部からはうかがい知れないものがある。
 個人的には、プーチン大統領は、シリア空爆に関し、イスラエルへの影響が出ないように努力すると約束したのではないかと疑っている。そして、プーチン大統領は、そのことをイランにも伝えたはずである。

◆◆ <米国の中東政策>

 プーチン大統領と中東関係国の動きをみると、お互いに、いかに接触し、お互いの動きをいかに探り、牽制し合うかという複雑なゲームが展開していることがよく分かる。日本のような単純な2国関係だけに頼っている国には、うかがい知れないものがあり、到底、ついてはいけない世界でもある。

 米国は、圧倒的な政治・経済・軍事力を駆使して、中東世界を支配、もしくは牛耳ってきたが、最近は、その力がとみに弱まっている。中東世界をコントロールできなくなっているといってもいいかもしれない。そのコントロールが乱れ、秩序体制の崩れを感じると、中東諸国は自らの安全と生命をかけて、複雑な動きをする。中東地域の民族の歴史的知恵と言ってもいかもしれない。その複雑な動きが、米国にははっきり見えていない。「テロとの戦争」や「自由の拡大戦略」がその例であり、複雑な価値観の入り混じり合いを理解し、分析するよりも、単純明快な理論で、すべてを切ろうとする。それが、大きな間違いを犯し、にっちもさっちもいかない立ち往生状態を作り出す。
 シリアのアサド政権についても、「アラブの春」という概念から、独裁者と被抑圧市民という単純な構図から、独裁者が追放されれば、民主的な政治、社会が作られると単純に考えた。しかし、現実に起きているのは、自由を求める市民による独裁政権追放というようなことではなく、結果的に、様々な人々・市民集団による凄惨な殺し合いであり、「イスラム国」というような、正義なのか不正義なのか、理解に苦しむような存在が現れるということにもなる。

 米コロンビア大学のレグヴォルド教授は、シリア紛争には四つの側面があるが、米政府はそのひとつの側面しか理解しなかったと主張した。四つの側面とは、(1)アサド政権と反政府勢力の国内政治対立、(2)シーア派(アラウィ派)とスンニ派のイスラム教宗派対立、(3)スンニ派内部の世俗主義穏健派と原理主義強硬派の内部対立、(4)シリア国内の各地に跋扈する部族間対立——である。

 シリアでは、この四つの対立が複雑に絡み合っており、これを解き放すのは、容易なことではない。「自由と民主主義」の名のもとに、(1)の側面だけを強調し、問題が解決できると思っても、実際はうまくいかない。そして最大の問題は人々が団結しておらず、近代的国家意識がないことがある。つまり、国家どうなろうとかまわないという意識が強いことで、宗派や組織、地縁近縁の人間関係を優先することにある。自分たちは同じ国家の国民であり、ひとつの国家の下で助け合って生きていくという意識が出てこない限り、紛争や内戦はいつまでも続くということになる。
 もしくは、アッラーの下に団結する「ウンマ・イスラミーヤ」(イスラム共同体)型の宗教優先社会の中で生きていくしかないとなる。近代的市民国家か、それとも伝統的宗教共同体かという、われわれ日本人には理解するのが難しい選択の話になる。

◆◆ <シリアの行方>

 では、シリアの今後は、どうなるのだろうか? ロシア政府はイスラム原理主義過激派勢力への拠点攻撃により、大成果が上がっていると宣伝・主張しているが、これで過激派が一掃されたかというと疑問は多い。まず、ロシアは空爆を行ったが、地上軍の派遣はしていない。シリア政府軍は、ロシアの空爆と連携して、行動しているようには思えない。つまり、ロシアは爆弾を落としているだけで、過激派一掃とはいえない状況である可能性が強い。
 また、イスラム原理主義過激派組織は、拠点を攻撃されても、ゲリラ的活動、もしくは地下活動に入るだけで、押せば引くが、押さないとまた戻ってくるという海の潮の満ち引きのような対応する可能性が強い。完全には掃討ができないまま、軍事作戦は長引くという、米軍アフガン軍事作戦の二の舞になる可能性が十分にある。過激派組織が単なる犯罪グループならば、簡単に壊滅できるかもしれないが、イスラム教徒住民のなかに、それなりの理解がある集団だとすると、完全掃討というのは極めて困難である。
 そして、軍事作戦が長引けば、中東地域の人々の不満が募るだけでなく、ロシア国民の不満や不信が強まる。ロシア軍の派手な軍事作戦の裏側で、国家の行方をかけた綱渡りをしているというのが現実であり、プーチン政権は、極めて危うい政治・経済・社会運営を強いられているといってもよいと思う。

 プーチン政権は、シリア空爆の長期化を望んでいない。できるだけ早く、問題解決をしたいのが本音だ。そして、問題解決の第一歩は、シリア国内の穏健派組織とアサド政権の連合政権樹立で、その後、憲法改正、さらに、大統領議会・議会選挙の実施というのがロシアのシナリオのように見える。何やら、ウクライナ東部のルハンスク・ドネツク離反地域の政治的和解を決めた「ミンスク合意」と似ている話だ。
 ロシア政府は、まず、連合政権樹立のために、国民和解の会議開催を目指している。すでに37人のメンバー名簿も明らかにされ、米国やサウジアラビアへ打診中といわれる。さらに、反政府勢力の中では穏健派とされる「自由シリア軍」関係者とも接触をしており、エジプト政府がこの仲介を行っていると伝えられる。
 ただ、連合政府に、誰が入るのか、誰を排除するのか、さまざまな思惑がうごめいており、和解会議が成立するのかどうか、全く未知数だ。会議に参加できる穏健派と、参加を締め出される過激派の境界線が、どこにあるのか、これもはっきりしない。アサド政権、反政府組織、プーチン政権、シーア派諸国連合、サウジアラビア、トルコ、米国など、様々な立場による主張が入り乱れており、簡単には合意ができそうにもない。
 そして、反政府側は、空爆という軍事行動が展開されている限り、和解はありえないと主張しており、アサド政権側も、同様な立場にある。しかし、イスラム原理主義過激派組織「イスラム国」などへの軍事作戦が、いつ終わるのか、全くめどはついていない。

 そして、連合政権および選挙が実施されても、アサド大統領の処遇をどうするのか、大きな問題が残っている。アサド大統領は10月中旬、モスクワを電撃訪問し、プーチン大統領と会談を行っている。この会談では、空爆以後の政治解決の問題が話われた可能性が強く、アサド大統領の処遇についても、ロシア側からの示唆があったと見られている。その内容については不明だが、“ポスト・アサド”を前提とした協議であった可能性が強い。
 とはいっても、シリア国内状況を安定化させるような候補者を反政府側が出せるのか、これまた極めて疑問である。プーチン政権は、連合政府樹立後の大混乱・無政府状態は絶対に受け入れらないとの立場にある。そのような円満解決が達成できるのか、見通しは暗いといわざるを得ない。
 ロシアの中東専門家のアクセニョーノク氏によれば、空爆前のシリアは「イスラム国」を含む過激派勢力が農村地域を中心に国土の60%を支配し、アサド政権の支配範囲は20〜25%にすぎない。残りの15〜20%を、第三勢力であるクルド民族とシリア各地の少数勢力が奪い合いをしている。連合政権が樹立されたとしても、どの程度の支配地域を保持できるのか、また本当に国内統一が達成できるのか、不透明であり、困難を極める。シリアの正常化は、10年以上かかると予測する関係者が多いのが実態である。

 10月中旬、日本を訪れたスタブリディス元北大西洋条約機構(NATO)総司令官は、シリア情勢について講演し、「アサド大統領が政権を去り、欧米諸国はロシアが進めている連合政権樹立に相乗りするしかない、それが政治的現実だ」と説明しながらも、シリアの国家統一は当分あり得ず、西部の連合政権樹立地域と東部の無秩序・無政府砂漠地帯のふたつに分断される可能性が強いとの予測を述べた。

 米政府のロシア批判にもかかわらず、米国はシリア情勢に手を焼き、もはや、ロシアのシナリオに任せるしかないと覚悟している可能性が強い。現実的主義的な対応であり、ロシアがシリア問題解決で失敗すれば、それはそれで、米国の失敗にならず、ロシアが得点を失うということで、構わないということなのだろう。シリア問題で、米露が対立だけをしていると考えると、情勢分析を間違える可能性が十分にあるという話でもある。
 「アラブの春」というスローガンの下に、アラブ世界が引き込まれた混乱の代償は大きく、結局、その支払いは、なお長く続くということなのかもしれない。
それにしても、「アラブの目覚め」は、いつ来るのだろう、というのが、中東アラブ世界の人々の偽りのない気持ちだろう。嘆きと言うべきかもしれない。中東世界の人々の行く末を思うと、本当に、同情を禁じえない。(11月3日記)

 (筆者はジャーナリスト)


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