■【エッセー】

メイ・サートンの世界(2)             高沢 英子

   「私は不死鳥を見た」
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 自伝的エッセイ、と銘打たれたこの作品は、1954年、ニューヨーカー誌に
一部(前半数編)が掲載され、1959年に後半部分をあわせて出版されている
が、1998年武田尚子さんの日本語訳がみすず書房から出版されるまで、日本
の読者には殆ど知られることがなかった。

 スケッチという呼び名ながら、目も眩む様な豊かで魅力に溢れた事象が、惜し
げもなく散りばめられているのに驚かされ、今更ながら、ブリテン諸島と大陸を
ひっくるめてのヨーロッパ世界と、さらにアメリカ大陸との互いのかかわりの根
の深さ、自然の、人間の、生活のそれぞれのもつ多様さにもかかわらず、相互に
共有する知的世界の広さと高さをつくづく再認識させられた。

 ベルギー人を父に持ち、母親がイギリス人というのも、それほど特殊なことと
は言えないと思うが、サートンは、それぞれの土地に、人間に、なんという誠実
さで対していることだろう。愛と寛容を籠めながら、その筆にいささかの虚飾も
交えまいと心を張り詰めていて、その結果、ありきたりの自伝というより、もっ
と完成度の高い芸術作品として読むものを愉しませるのである。

 もし、これらのうっとりさせるようなお話を、作品に仕立てたなら、トーマ
ス・マンや、ロマン・ローランなどの仕事に匹敵する大作も不可能ではない、あ
るいはヘンリー・ジェイムスばりのミステリアスな世界の構築も、可能であった
かも、と思わせる。サートンも、いつかそうした作品を書きたい、とひそかに切
望して、このスケッチを書き留めていたのかも知れない。

 結局彼女は、そうした仕事はしなかったが、かわりに、かずかずの魅惑に満ち
た日記が、私たちの手に残されたのである。豊かな土壌に育まれ、嘘偽りのない
女の詩と日記が。

 後年、サートンの日記を読んだ評者の一人が、「ここにはすべてがある!」と
叫んだ、というのも、あながち誇張とは思えない。 コロンビア大学教授で近代
イギリス文学、さらに、フェミニズム文学を講じ、文芸評論家でもあったキャサ
リン・ハイルブロンは、1973年を、近代女性の自伝の分岐点と位置づけ、次
のように述べている。少し長いが、引用しておきたい。

 「この重要な変貌は、アメリカの詩人で小説家、自伝作家のメイ・サートンの
中に最も明瞭に見ることができる。1968年に発表された彼女の『夢みつつ深
く植えよ』は、家を買って独りで生活しようとする冒険を描いたすばらしく美し
い物語だが、結局作者自身は落胆した。

 人生に対する怒りやはげしい葛藤や絶望が、この本にはぜんぜん描かれていな
いことに気がついたからである。彼女はわざと苦しみを隠したわけではない。古
いジャンルの女の自伝を書いたのだった。こうした自伝は苦痛のなかにさえ美し
さを見出し、怒りを精神的満足へと変える傾向があるからだ。

 のちに、自分を先駆者と仰いでくれる人々の希望に満ちた目でその理想化され
た人生の話を読み直し、彼女は自分が怒りと苦痛を無視した点で、無意識のうち
に不正直になっていたことに気がついた。時代の変化のおかげで、この点に気づ
いたのだった。

 それで彼女は次作『独り居の日記』のなかで、慎重に『夢みつつ深く植えよ』
に描かれた歳月の苦しみを語り直すことにした.こういうわけで、1973年の
「独り居の日記」の出版は、女の自伝における分岐点と見なすことができる。

 私がこれを分岐点と呼ぶのは、それまで正直な自伝が書かれなかったからでは
なく、サートンが慎重に怒りの記録を語り直したからだ。それに、他のすべての
タブー以上に女に禁じられていたのは怒りだった。」(「女の書く自伝」キャロ
リン・ハイルブロン著大社淑子訳より) こうして、かつてヴァージニア・ウル
フが「これまで真の自伝を書いた女性はいない」と嘆いた時代は、終わったので
ある。 繰り返すように「私は不死鳥を見た」は、彼女の精神形成の軌跡を、つ
ぶさに、辿ることができる貴重な作品である。

 全体は二部に分かれ、第一部は、家系と4歳まで暮らしたヨーロッパでの生活
が詳細に生き生きと描かれる。四章の終わりで、ベルギーへの無法なドイツ兵の
進撃で、サートン一家のウォンデルヘムでの牧歌的なつつましい暮らしと、若い
両親の夢は滅茶めちゃめちゃに壊れてしまういきさつが描かれ、メイの父はベル
ギーを離れる決意を固め、サートン一家三人は、進軍してくるドイツ兵とすれち
がいながら、国境に向かう。

 イギリスの旅券を手に入れ、書物や衣類を詰めたスーツケースとトランク一
つ、身の回りの品を、運良く手に入った一頭の馬に積めるだけ乗せて、ウォンデ
ルヘムの家をあとにし、ひとまずイギリスに向かう。メイは2歳半。記憶は朧で
ある。

 イギリスは母の母国であり、戦時下ながら、親子は寛大な親戚や友人の家で居
候をする。しかし父ジョージ・サートンには一家を支えるに足る職はみつから
ず、翌1915年6月、ジョージは単身アメリカに渡る決意をする。100ドル
の金と二、三の紹介状だけを持って。

 同じ年の9月、メイと母はついに父と合流するために、アメリカに渡ったの
だった。
  第一部の最終章「おお、わがアメリカよ!」では、この巨大で力に満ちた国
で、サートン一家が再出発の第一歩を踏み出したいきさつが描かれたあと、つい
に、この国の市民となった両親の宿命を思うサートンのしめやかな回想が、ホ
イットマンの「草の葉」との不思議な絆を軸として、象徴的に書き記され、静か
な感動を呼び覚ます。

                (筆者は東京都大田区在住・エッセースト)

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