■【オルタのこだま】

オルタ93号西村徹氏「聖書を裏口から覗く」について  木村 寛

     ~ マルコ伝九章の一幕物語 ~
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 「なんという不信仰な時代」というイエスの言葉でこの物語は始まる。「悪
霊の仕業と考えられたテンカン」持ちの少年とその父親、とりまく人々、学者た
ち、イエスの弟子たち。「憐れんでお助け下 さい」とは父親の痛切な願いであ
った。イエスは「もしあなたが信ずるならば」と父親に直接言わず、「信じる者
には」と第 三人称で突き放す。父親は「信じます。不信仰な私をお助け下さい」
と叫ぶのだが、涙があふれてくる。涙があふれる(私の 意訳)とあるのは若い頃
から読んでいる欽定訳聖書(KJV)であり、日本語聖書には残念ながら無い。ギリ
シャ語聖書の Stephanus Textus Receptus(1550)、Greek Orthodox Church、
Byzantine Majority Text(2000)には「meta dakruoon、涙とともに」とあるので、
欽定訳聖書はその流れをくむものである。

 この物語と対をなす話はルカ伝7章36節以下にある「罪ある女」が涙を流 しな
がらイエスの足を自分の涙で濡らし、香油をぬった物語である。キルケゴールは
この話をとりあげる(「愛は多くの罪を おおう」アテネ文庫)。

 実は涙が登場するドラマは四福音書でこの二つのみ。感きわまった時に涙が
出るのは人間にとってごく自然なことなので、福音書がこの事件の伝承に涙を添
えている方が真実らしい気がする。人生には 多分涙があふれる瞬間があり、涙
を流すことで救われる瞬間があるのだと思う。そこでは言葉の地平線が消えうせ、
宇宙的空 間だけが広がり、時間さえも止まるのではないだろうか。

 イエスの弟子たちは自分たちにできなかったのはなぜかといぶかるのだが、
「祈りによらなければ追い出すことはできない」がイエスの答えであった。私が
思い出すのは富田和久先生のドイツ出張のみ やげ話(ORAetLABORA、祈りかつ熱
心に働け、著作集第6巻102頁)である。この言葉はヨーロッパキリスト者 のエー
トスだと思うのだが、その基盤は祈りである。テンカン少年をとりまいた学者た
ちとイエスの弟子たちは技術論争を繰 り広げていたのではないだろうか、祈り
を忘れて。

 「信じます」と言った瞬間に照らしだされるのは自分の信仰の足りなさ(不信
仰)ではないだろうか。不信仰という言葉は広がりを持つ。全く無い状態からア
モルファスな信仰、形のある信仰とさまざ まなスペクトルを持つ。私はアモル
ファスな信仰こそが原点だと考えるのであるが、「信仰がある」、「信仰が無い」
という 人間的判断は決着のつきがたい論争を引き起こす気がする。

 神殿へ祈りに行ったパリサイ人と取税人の物語(ルカ伝18章9 節)は、「自分を
義人だと自任して他人を見下げている人たち」への辛辣な批判である。バリサイ
人は「この取税人のような 人間でないことを感謝する」のに対して、取税人は
「神様、罪人の私を許して下さい」と言うのみ。取税人は神の前に立った が、
バリサイ 人は神の前に居なかったとキルケゴールは前掲書で言う。この信仰の
パラドックスは現代にも複雑な形で生きていると私は考える。

 私はこの一幕物を「涙と祈り」という二つの視点から理解したい。欽定訳聖
書の訳者たちが「涙」を持つ原典を選択した意図は明白である。涙が祈りを備え、
祈りが行動を生む。そしてこの二つ、涙と 祈り(行動)は現代に生きる我々が最
も忘れがちな課題ではないだろうか。

            (筆者は堺市在住・福祉作業所顧問)