【マスコミを叱る】

マスコミ批判に代えて~江田三郎を偲ぶ

田中 良太


 5月22日は故江田三郎氏の命日である。1977年死去だから、今年は没後40周年となる。その日は長男の江田五月氏の誕生日であり、五月氏は「天の啓示だ」と言って、後継者として政界入りすることを決めた。

 三郎氏の死後、毎年5月に「江田三郎さんを偲ぶ会」が行われている。毎年必ず行われているのは、三郎氏の死去、五月氏の誕生という二重の記念日であり、五月氏夫妻が出席するからだろう。今年も13日、40回目の会合が行われた。
 出席者はショート・スピーチを求められたのだが、私は以下のような話をした。
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 江田三郎さんが好きな言葉は「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道となるのだ」だった。中国の作家・魯迅(1881-1936)の短編『故郷』の末尾の言葉だ。その直前に「思うに希望とは、確実に存在するものではない。逆に存在しないと言い切れるものでもない。希望は地上の道のようなものである」という言葉があった。
 道の方が分かりやすいが、誰かが新たな道を歩みはじめ、その道を多くの人が歩むようになると、その道は確実に存在する新たな道となる。同様に、誰かが新たな希望を抱き、多くの人が同じ希望を抱くなら、それが現実の力を持つ思想となる……という意味だろう。

 私自身、高校生のとき、魯迅に夢中だった。読んだだけでなく、魯迅をテーマに評論文のようなものを書き、ガリ版刷りの「生徒会誌」に掲載したりした。江田三郎氏と直接の接触は無いに等しかったが、魯迅の言葉を通じて「共感」したと思っている。
 改めて考えると、江田三郎氏は新たな希望を抱き、新たな道を歩むことこそ政治家の使命だと考えておられた。しかし政治の世界では、「実権派」が圧倒的多数だ。彼らは「多くの人が歩んでいる道に同調することが権力保持の道」と考える。江田三郎氏が戦った当時の社会党実権派はまさに「新しい希望=新たな道などナンセンス」と考えていたはずだ。

 その後「KY=空気が読めない」という言葉が生まれた。「空気」を広辞苑第6版でひくと「(2)その場の気分。雰囲気(ふんいき)」という意味が記述されている。
 その用例として「険悪な空気」が挙げられている。KYの場合の「空気」は、まさに場の雰囲気だろう。
 その「KY」が非難語となり、中学校・高校などで「アイツはKY」と決めつけられると、いじめの対象となるという。大勢順応は、政界だけでなく、一般社会でも「従うべき処世訓」となった。

 江田(三郎)人気はたいへんなものだったが、一挙に消えてしまった。それと真逆の「KY=空気が読めない」こそ、今の世相を示すキーワードだろう。テレビ・新聞などメディアの世界でも「逆KY=空気を読むだけ」というべき主張が日々展開されている。

 だからこそ、江田三郎氏が好きだった魯迅の「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道となるのだ」という言葉を貴重なものだと、いま主張したい。
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 前号まで【マスコミを叱る】というタイトルの文章を毎号連載させていただきました。この連載は打ち切り、今号は一般の論考として、この文章を掲載させていただきます。ご了承下さい。  <gebata@nifty.com>

 (元毎日新聞記者)

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