【北から南から】フランス便り(18)

フランスと移民・難民問題

鈴木 宏昌


 フランスの移民・難民問題は、一度この欄で取り上げたいと思っていたのだが、多様な側面を持つ深刻な問題なので、これまで躊躇していた。最近ILO協議会から、フランスの移民問題というテーマで、小論を書く機会があった(世界の労働20号)。その小論は、フランスのイミグレの現状と問題の紹介だが、そこで書ききれなかったいくつかのポイントを今回のテーマにしてみたい。

 周知のように、フランスは、国内に10%を超える失業者を抱えているにもかかわらず、ヨーロッパの周辺部 ― 戦乱の続く中東やサハラ以西の国々 ― からの難民あるいは密入国者(経済的移民)は後をたたない。その経路はいろいろあるようだが、リビア経由の船のルートは、本年何千人単位の死者を出し、大きな国際問題となっている。一度ヨーロッパに上陸すると、シェンゲン協定を結んでいるヨーロッパでは国境管理がないので、ヨーロッパ域内を簡単に移動し、フランスにも来る。
 さらに深刻なのはフランスに定着している移民とその家族の社会的統合である。本年初めのシャルリ・エブドのテロ事件で明らかになったように、移民2世、3世の一部は、フランス社会に反発し、イスラム過激派として、いくつものテロ事件を起こしている。イスラム系移民のごく一部とはいえ、フランスの中には、イスラム系コミュニティに反発する人は多く、極右政党のFNがその受け皿になっている。移民とその家族は、大都市の周辺部に集住する傾向があるので、貧困や格差の問題、治安あるいは教育問題と結びつく。ある意味、フランスが現在直面している社会問題 ― 平等待遇、失業、学校からの落ちこぼれ、社会的保護、治安など ― は、イミグレ(移民とその家族)問題と複雑に絡み合っている。

 ところで、日本の外国人労働者問題の議論では、フランスは外国人労働者を受け入れに失敗した例として示され、日本はフランスのような轍を踏むことを避け、外国人労働者や難民を受け入れるべきではないと展開されることが多い(政治的な表現を使えば、外国人受け入れを慎重に検討すべきとされるが、慎重な検討は50年以上続いている)。日本からみると、フランスは遠いので、どうしても日本の視点でフランスの例を解釈する傾向がある。島国で、ほとんど移民や難民を受け入れた経験のない日本と19世紀以来多くの移民・難民を受け入れてきたフランスでは、置かれた文脈がまったく違っている。
 EU圏の真ん中に位置し、その人口の約2割がイミグレとイミグレ2世、3世となると、フランスには入国規制強化といった単純な選択肢はありえない。また、現在でこそ移民の負の側面が強調されるが、移民がフランスの文化・経済に貢献したものも大きい。19世紀から20世紀にかけてフランスに逃れてきたユダヤ人、20世紀はじめに、オスマン・トルコの侵略から逃れてきたアルメニア人、ロシア革命の際にフランスに来たロシア人、スペインの内乱を逃れてフランスに定着したスペイン人たちは、その2世、3世の時代になると、政治・経済・科学・芸術などの多く分野で足跡を残している。
 19世紀には、マリー・キュリー夫人、ショパン、富豪のロスチャイルドが有名だが、最近では、サルコジ前大統領、歌手のアズナブール、イヴ・モンタンなどは、いわゆるイミグレやイミグレの2世である。近世のフランスの文化は「外国人」の貢献によって豊かになったことを忘れてはならないだろう。フランス革命の父といえるジャン=ジャック・ ルソーがスイス人であったことは象徴的である。フランス革命は、法の前には、すべての市民は平等であることを基本理念としている。この市民の中には、外国人やフランスに帰化した人も含まれる。19世紀にナショナリズムが発達する前に、フランス革命は、市民権の普遍性を宣言し、その流れは現在まで続いている。

 この稿では、まず、フランスのイミグレ問題の現状を大まかに紹介し、その後、日仏の文脈の違いをいくつかのポイントに絞って、考えてみる。

◆ 1.フランスのイミグレの現状

 フランスの公式統計では、イミグレは外国で生まれ、現在はフランスに住む人と定義される(フランス人として外国で生まれたものは除かれる)。つまり、出生地が基準となる。これにフランスで外国国籍に生まれたものが加算される。したがって、フランスに移住し、その後、フランス国籍をとった人もイミグレとなる。このように定義されたイミグレは、2012年に550万人で、総人口の8.5%を占める。1999年と比較すると、イミグレは約120万人ほど増えたことになる。人口が日本の半分のフランスで、550万という数字は印象的である。なお、このうち約200万人は、現在、フランス国籍を取得している。
 イミグレの出身国をみると、アルジェリア(73万人)、モロッコ(67万人)、ポルトガル(59万人)、イタリア(30万人)、トルコ(24万人)などが多い。近年、西アフリカのマリやコンゴなどからの移民が増加しているが、西アフリカ諸国からのイミグレは合計で72万人までになっている。EU内では、原則的に、居住・労働移動の自由が認められているが、域内からのイミグレは全体の3分の1でしかない。

 EUの統計で、各国の総人口に占める外国人の比率を見ると、フランスは、400万人で6.2%であるのに対し、ドイツ(770万人、9.4%)やイギリス(490万人、7.7%)の方が高い水準となる(2013年)。ここで注意しなければならないことは、フランスのイミグレの4割はフランス国籍を取得している事実である(ドイツは、最近まで、外国人の国籍取得を厳しく制限していたので、外国人の比率は高くなる)。

 フランスのイミグレの範囲を移民の2世(フランス生まれ)に拡げると、異なるフランスが見えてくる。近年フランスに定着した移民の出生率が高かったので、移民2世の人口は670万に上り、総人口の11%を占める。同様なEU統計はないので、活動人口(25歳-54歳)に関するフランス統計局の推計で他の国と比較すると、少なくとも両親の一人が外国で生まれた労働者は、フランスが13.5%であるのに対し、ドイツ(17.6%)、イギリス(15.6%)とフランスの方が低いが、移民2世を加えると、話は異なる。労働力人口に占める移民と移民2世は、フランス26.6%、ドイツ21.9%、イギリス24.4%となり、フランスの2世人口の多さが目立っている(資料出所:INSEE, Immigrés et descendants d' immigrés, 2012)。

 このようにフランスで移民2世が多いのは、フランスの移民の歴史と関係する。高度成長期の1960年代になると、フランスの隣国であるイタリア、スペインからの移民が減り、その代わりにマグレブ諸国からの流入が増加する。第一次石油ショック後の1974年からは、原則的に新規の労働ビザの発給を停止するが、その後は、家族の呼び寄せというビザで女性や子供の流入が増える。はじめは出稼ぎ型の労働力として来たマグレブ諸国からの外国人労働者はフランスに定着し、その多くはフランス国籍を取得する。その子供たちが、現在労働市場参入している。
 なお、国籍取得に関しては、1980年代にミッテラン大統領の下、国籍法が大きく改正され、それまでの血縁による国籍取得に加えて、フランスで生まれ、教育を受けたものは、成年時に自動的にフランス国籍を得ることとなった。したがって、移民2世はフランス人である。

 このように、イミグレとその子供たちは、人口の約2割を占めるが、その地理的な集中度は激しい。移民1世の場合には、実にその4割がパリ地域に集中する(一般フランス人は15%がパリ地域に住む)。フランスに移住する理由が何であれ、移民1世の場合、言葉の障害や社会的ネットワークの不足から、同じ出身地の人が集住する傾向がある。移民2世の世代となると、パリ地域への集中度は25%に減る。イミグレの集住傾向は深刻な社会問題を引き起こす。イミグレの所得は低いので、家賃が安い低所得者住宅に住む確率が高い。その様な住宅が密集するところ、たとえばパリの北のセーヌ・サンドニ県は、社会的指標が最悪なことで知られる。建築基準に合致しない多くの住宅、交通や医療などの公共サービスの貧弱さ、レベルの低い教育機関、高い失業率と治安の悪化などがこのような地域に集中する。

 以上が現在のフランスのイミグレとその家族の概況だが、何と言っても、いわゆるイミグレ人口の大きさにはびっくりする。パリ地域は、最近では、アメリカ以上に様々な人種のるつぼになっている。

◆ 2.「フランスは、高度成長期に積極的に移民の受け入れ政策を行ったこことが、現在のイミグレ問題を発生させた」

 フランスにおいては、第二次世界大戦後、移民局が設置され、一括的に外国人労働力の入国、雇用管理、衛生状態をチェックする権限が与えられる。外国人の労働ビザは、この移民局に申請し、受理されることが必要となる。労働力不足の激しい1960年代初めには、移民局はいくつもの国と労働力提供に関する協定を結んでいる。しかし、移民局の業務の実態は、計画的な労働力導入ではなく、むしろ放漫な事後処理が多かったのではないかと考えている。
 フランスは多くの国と国境を持ち、あらゆるところから人が入ってくる。観光ビサで入国するのが一般的ながら、難民の申請あるいは密入国と多様な経路がある。いったん、フランスの中に入ってしまえば、身分証明書が要求される機会はほとんどない。人手不足が厳しかった高度成長期には、零細企業や飲食業などでは、労働ビザがなくても、目をつぶって外国人を雇うことも多かったと思われる。
 一例を挙げて見よう。その昔、私たちは、ジュネーブ郊外のフランスの小さな村に住んでいたが、そこには相当数のポルトガル、スペイン、モロッコから移民労働者がいた。ほとんどが、建設関係で働く人だった。その後友達になったアルフォンソは、スペインでも貧しい地方(ガリシア)出身で、石工であった。彼のいとこがまず近くの町で職を得、その後、いとこの伝でフランスに来た。建設現場の親方に頼み、労働許可を移民局に申請してもらい、フランスに定住する。アルフォンソの例は、観光ビザで来仏、実際に働きながら、労働許可を得るという典型的なケースとなる。
 自動車や石炭といった産業になると、大量の非熟練労働者を求めて、企業はモロッコやアルジェリアに連絡事務所を構えていたようだ。つまり、政府が計画的に毎年の移民労働者の数量枠を決めたのではなく、個別の企業や個々の労働者の申請を移民局が書類処理していたと思われる。
 時代は下るが、2年前に、私が滞在許可の手続きで、移民と統合局(昔の移民局)に呼び出されたとき、新規滞在ビザ取得者にオリエンテーションがあった。30人くらいの人(マグレブ系、アフリカ、中東出身者が主)がいたが、話を聞くと滞在歴5-6年が多かった。言い換えれば、彼らは何等かの形で労働許可なしで働いていたものと思われる。

 このようなフランスとは異なり、となりのスイスやドイツの入国管理は系統的である。給与水準の高いスイスは入国審査、労働許可の審査が厳しいことでも知られている。各州および連邦レベルで毎年の労働許可枠が決まり、それに沿って個別審査がなされる。当該の職務にスイス人では応募がないことがその大前提となる。従って、特殊な能力を要求されるような職種にしか労働許可は与えられない。また、出身国も審査の対象になっていると思われる(アフリカやアジア出身者には、原則的に労働ビザは出ない)。1960年代のドイツは、トルコに労働省の出先事務所を開き、毎年大量の労働者をドイツに送り込んだ。「ゲストワーカー」として、2-3年の短期出稼ぎ型労働者を優先した。ドイツの場合、労働力不足が激しい産業の使用者団体が、実際の労働者選抜を行っていたようだ。

 また、フランスの場合、このような労働力確保以外にも、様々な政治的配慮が移民や難民の受け入れに影響した。1960年代に、アルジェリアからの移民が急増するが、これはアルジェリアの独立戦争とかかわっている。1960年代後半から1970年代にかけてヴェトナムからの難民を多く受け入れたが、これはヴェトナム難民に手を差し伸べた結果であった。フランスは、伝統的に政治的混乱を避ける難民を受け入れてきたし、また、多くの人がそのような人道主義の政策を支持していた。このように、フランスの移民政策は、そのときどきの経済状況、政治、国際情勢により変化したので、フランスが系統的な移民政策を持っていたとはとても思えない。

◆ 3.「フランスは、1974年以降、新規労働ビザの発行を停止しているにもかかわらず、イミグレ人口が増えるのはなぜか?」

 フランスが外国人の滞在(観光目的を除く)を受け入れる理由はいくつかに分類される。家族の呼び寄せ、学生、経済的理由、人道的理由、その他となる。2010年における新規滞在許可(合計で約19万件)の内訳をみると、その45%は家族の呼び寄せで、その後、学生31%とと続く。経済的理由および人道的理由は、それぞれ9%(経済的理由:1.8万人)であった。1970年代初めまで主流であった経済的な理由による入国は、当時毎年12万人を超えていたので、近年は経済的理由による入国が激減していることが分かる。この経済的な理由の中には、多国籍企業内で人事異動などが含まれるので、昔風の移民労働者の比率はさらに低くなる。では、なぜ家族の呼び寄せが少しも減らないのだろうか?

 家族の呼び寄せは、フランスの法律あるいはEU指令で保障されている権利である。家族の一人がフランスで働いているとき、その配偶者および18歳未満の子供はフランスに来る権利が保障されている。1977年に、当時の政府は、家族の呼び寄せの際の入国許可の条件として、雇用目的でないことを確約させる法律を用意した。法の番人である国務院は、この法案をイミグレの家族が普通の生活を享受することを妨げるとして違憲とした。フランス革命以来の伝統として、法の前に、市民はその出身階層、宗教、人種などで差別されることなく、平等の権利を有する。フランスが、外国出身者にも寛容なのはこの伝統からくる。現首相のマヌエル・ヴァルスは、スペイン生まれで、20歳になったときにフランス国籍を取得したが、彼の過去を問題視することはない。この点、アメリカとは大きく異なる。ところで、日本では、いつになったら、外国生まれの日本国籍取得者が政治の分野で活躍できるようになるのだろうか?

◆ 4.「学校で、女子生徒がスカーフを着用することが社会問題になるのはなぜか?」

 数年前に、イスラム系の女子学生が顔を隠すスカーフ(ブルカ)を着用し、登校したところ、校長がスカーフをはずすことを要求し、裁判沙汰になり、大きな社会問題になったことがあった。裁判結果は、公的な場である学校では、宗教色の強い外観を示してはならないとし、学校側の措置を支持した。この事件は、増加し続けるイスラム・コミュニティの習慣とフランスの社会の伝統が衝突した象徴的な事件として知られている。その後も、類似の事件は何回となく起こっている。なお、フランスでは、教育はほとんどすべて公立学校で、教師は公務員である。20世紀のはじめに、政教分離(laicité)が共和国の原理になって以降、学校は共和国の公の場となった。

 現在、フランスのイスラム系の人口は500万人前後と見積もられ、総人口の1割弱を占める。マグレブ諸国からのイミグレに加えて、西アフリカ、トルコ、中東出身者がイスラム系人口を構成する。もっとも、毎日お祈りするような敬虔なイスラム教徒は200万人くらいと見積もられている。戒律を守る家族とその組織が、前述のスカーフ事件を引き起こした訳である。

 多文化を認めるイギリスなどでは考え難い事件でもある。国連などの組織では、施設の一部にイスラム教徒用のお祈りの場を確保することは常識となっている。しかし、フランスは、頑固なまでに、政教分離を守り、公式の場に宗教色を持ち込むことを許さない。その基底には、市民権という普遍的な理念がある。あらゆるフランスの市民は、出身階層、信教などによる差別はなく、平等に扱われる権利を持つとする。イスラム教徒を優遇すれば、カソリック、プロテスタント、ユダヤ教の信者は不利益な待遇におちいる可能性があることになる(もっとも、宗教色が薄い現在のフランスでは、それほど大きな問題になるとも思えない)。市民の平等待遇の原則は、イミグレの待遇の時には有利に働くが、それと宗教的な戒律と抵触するときには、融通の利かないものとなる。ただ、イスラム系の人口がさらに増え、学校や職場で、自分たちの戒律を主張すれば、フランスの保守層の反発が強まる可能性が強い。イスラム過激派の問題とも絡むので、大きくなったイスラム・コミュニティがどうフランス社会と共生できるかは今日のフランスの重要な課題となっている。  (2015年8月16日、パリ郊外にて)

 (筆者は早稲田大学名誉教授)


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