【コラム】
風と土のカルテ(66)

ハンセン病患者の隔離を生み出したもの

色平 哲郎

 先日、ハンセン病の元患者の家族に対して国に賠償を命じた熊本地裁の判決を受け、家族への補償法案を検討していた超党派の議員懇談会が開かれ、補償額を判決よりも増額した法案の骨子がまとまった。11月にも法案は議員立法として提出されるという。
 家族訴訟でも原告の多くが匿名だ。元患者の家族でさえ名前を隠さなければ生きられない……。長きにわたったハンセン病隔離政策を思うと、それを堅持し続けた日本政府と医療界への憤りを感じるとともに、同じ医師として慙愧の念にたえない。

 私にハンセン病への凄まじい差別と排除の実態を教えてくれたのは、回復者で作家の伊波(いは)敏男さんだった。伊波さんは14歳で家族と離れて療養所生活に入り、様々な苦闘を経て、障がい者の就労事業を行う社会福祉法人に勤務し、常務理事を務めて退職。文筆家として立ち、自伝『花に逢はん』(NHK出版、沖縄タイムス出版文化賞受賞)など多くの作品を書いておられる。最近、インターネットTVのデモクラシータイムスで「ハンセン病を生きる」と題した伊波さんのインタビューが公開されたので、ぜひご高覧いただきたい(youtube動画)。
 https://www.youtube.com/watch?v=G6XYz509C1A&t=57s

 ハンセン病の原因のらい菌が発見されたのは1873年だった。菌の発見者名からハンセン病と呼ばれている。治療薬の開発は遅れたが、1941年にドイツのドマーク博士が特効薬のプロミン(一般名グルコスルホンナトリウム)を開発。日本でも戦後の1946年から使用されるようになった。ところが、日本政府は1907年に制定された「癩予防ニ関スル件」を踏襲し、1931年の「癩予防法」より、すべての患者・感染者の強制隔離を断行する。男性患者には断種が行われ、女性患者への堕胎手術が優生保護法によって合法化された。

 プロミンの開発後、諸外国は隔離から「開放医療」へ転換し、1953年のMLT国際らい会議や、1956年のローマ会議で開放医療化が世界の標準となった。にもかかわらず、日本政府は「らい予防法」(1953年)を制定。強制隔離を継続し、入所者の外出禁止を墨守する。患者たちの闘いと国際世論に押されて日本政府が「らい予防法」を廃止するのは、1996年になってからだ。実に1世紀近くにわたって、法が人権を蹂躙し続けたのだった。

 なぜ、このような非人道的な政策がとられ続けたのか。まずは厚生省(現、厚生労働省)の隔離、撲滅を絶対視する硬直した官僚組織が挙げられる。反時代性を感じる官僚がいても、結局、悪法を断てなかった。それと、当時の「日本らい学会」の責任も大きい。伊波さんは『花に逢はん』で、こう指摘している。

 「(日本らい学会の)主流はハンセン病療養所の勤務医を中心メンバーとしている。そのほとんどが、特効薬のない時代から、国家浄化理念に燃え、ハンセン病の撲滅は患者の隔離でしか解決しない、と思い込んでいる人たちだ」

 プロミンの臨床効果は明らかだったのに開放医療に転換しなかった医療者の胸の奥には「パターナリズム(家父長主義)」があったと思われる。油断をすれば、パターナリズムはいつ顔を出すかしれない。心しておこう。

 (長野県佐久総合病院医師・『オルタ広場』編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2019年10月31日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。
 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201910/562889.html

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