【コラム】槿と桜(36)

ハングルと漢字(漢文)

 
                            延 恩株


 現在、韓国の使用文字がハングル(한글)だということは今さら言うまでもありません。
 しかし、韓国からいつ漢文が、そして漢字が消えたのかという質問をされますと、私を含めて、韓国人はおそらく明確に答えることができないのではないでしょうか。

 確かに韓国を旅行すればすぐ気がつくことですが、街はどこもハングルで溢れ、漢字を目にすることは、そう多くありませんが、漢字が完全に消滅したわけではありません。一方で、私の勤務先に毎年韓国と中国から留学生が来ますが、日本語を学ぶ上で中国人留学生と比較して、韓国からの留学生に大きなハンデがあります。それは漢字をまったく理解できないことです。この若者たちは生まれたときから漢字とは無縁で、自分の姓名さえ漢字で書けない者もいます。

 ところが日本の植民地から解放された1945年以降生まれの一定以上の年齢の韓国人は、たとえ日本語や中国語が理解できなくても、日本人や中国人とある程度の意思疎通は筆談によって可能だと言われています。実際、私も身近にそれを実践されている日本の方を知っています。こうした世代の韓国人はハングルだけでなく漢字教育も受けていて、生活の中に漢字や漢文が溶け込んでいたからです。

 一方、朴正煕(パクチヨンヒ 박정희)大統領は1970年に学校での漢字教育を廃止しました。日本の植民地時代に普及していたハングルと漢字の入り混じった国語を完全に純化するための措置でした。ですから単純に考えればそれ以降の子どもは漢字を理解しないことになり、韓国ではハングル世代(한글세대)と呼ばれるようになりました。
 でも実際には漢字は消えませんでした。親が個人的に漢字教育を行なったり(塾もあります)、自治体によっては初等教育での漢字教育を義務化しているところもあるからです。さらに就職する際、漢字能力が問われるところもあります。

 ところで15世紀半ばまで朝鮮半島(韓半島)では、ほんの一部の知識人たちが漢字を用いて朝鮮語を表記する以外は、一般の人びとは文盲でした。つまり自分の話す言葉を表記する文字を持っていませんでした。
 そのため、朝鮮時代の第4代国王だった世宗(1397~1450)は、中国の文字である漢字ではなく自国固有の文字の創出を推進し、世宗28年(1446)にハングルについての解説書『訓民正音(くんみんせいおん)』(フンミンジョンウム 훈민정음)を刊行しました。『訓民正音』とは「民を訓(おし)える正しい音」という意味です。

 「正しい字」としないで「正しい音」とした理由は、漢文化を否定し、漢字を排斥するかのような文字の制定に漢字擁護派が強く反対したからでした。世宗大王は反対派を抑え込む便法としてハングルは「文字ではない」、つまり漢文化を否定するものではなく、漢字を知らない者に朝鮮語の音の表記を教える記号にすぎない、と説得したと言われています。

 でもその後、ハングルは順調に一般の人びとに受け入れられ、浸透していったわけではなく、知識人の間で使われたり、国家事業として仏典の翻訳、儒教関連書の翻訳、中国語やモンゴル語、日本語の学習書などにハングルが使用されている程度でした。なぜなら朝鮮は何事も中国の強い影響下に置かれ、文字も漢字が重んじられ、公文書はすべて漢文が使われていました。それだけでなく朝鮮王朝第10代国王の燕山君(ヨンサングン 연산군 1476~1506)の時代にはハングルを使う人びとが弾圧されるほどでした。

 これ以降、ハングルは350年以上にわたって正統ではない文字として命を長らえ、ようやく光が当てられたのは、日本の明治維新に強い関心を寄せた「開化派」(別称独立党)の人びとの活動が活発になり始めてからでした。

 そしてここには日本人の関与も忘れてはならないでしょう。たとえば福沢諭吉は中国(清国)との隷属関係を断ち切るために朝鮮の独立を唱えていました。もちろんその裏には日本の強い影響力を及ぼそうとするもくろみがあったようですが。その彼が朝鮮人を教育し、知識を広めさせるためには識字率を上げる必要があり、朝鮮語の新聞発行が有効な手段だと考えていました。

 この福沢の意志を受け継いだのが井上角五郎(いのうえかくごろう 1860~1938)でした。彼は政府の公報、社会事情、国外事情、経済情報などを掲載する『漢城旬報(かんじょうじゅんぽう)』(ハンソンスンボ 한성순보)を1883年(明治16年)10月30日に創刊しました。朝鮮で発行された最初の近代的な新聞とされていて、「旬報」ですので10日に1回発行されました。計画ではハングルも使う予定でしたが、漢字こそ正式な文字だとする保守勢力に妥協して、すべて漢文表記でした。
 でも井上にはハングルへの強い思いがあり、『漢城旬報』がおよそ1年後の1884年12月に甲申政変(カップシンジョンビョン 갑신정변)で廃刊(全36号)に追い込まれると、1886年(明治19年)1月25日に開化派と協力して『漢城周報(かんじょうしゅうほう)』(ハンソンジュボ 한성주보)の発行にこぎつけ、ハングルを採用した朝鮮での最初の週刊新聞となりました(1888年7月7日廃刊)。

 このように韓国でのハングル普及に日本人が大きく関わっていたことはなかなか興味深いと言えます。しかし、こうした人びとのハングル普及の努力は、一般庶民の間にまで浸透することはありませんでした。発行元の博文局が赤字財政で経営できなくなった日をもって『漢城周報』も廃刊となってしまったことをみても明らかです。わずか2年半しか存続しなかったのです。当時は啓蒙、広報、宣伝などの機能を持つ新聞に関心を抱く人はごく少数で、ましてやハングルが採用された新聞では漢文こそ正式な表記と認識していた多くの知識人から軽視されたことは想像に難くありません。

 当時、ハングルはハングルではなく「諺文(げんぶん)」(オンムン 언문)と呼ばれていました。「諺」は日本語では「ことわざ」とも読みますし、もともと「俗語」という意味があります。あくまでも中国の文字で綴られた漢文が正統と考えられていた朝鮮では、自国の言語を表記するハングルは「俗語」とみられていたわけです。

 日本の「かな文字」が「仮名」と漢字表記されるのは、あくまでも正統からはずれた「仮り」あるいは「本筋ではない」表記と考えられ、女性や子どもが使う文字と見られていたのに似ていると思います。そのため「諺文」のほかに「女文字」(アムクル 암클)、「子ども文字」(アヘックル 아햇글)などと呼ばれることもありました。

 『漢城周報』廃刊から8年後の1896年に、漢文を採用せずハングルだけの新聞『独立新聞』(독립신문)が徐載弼(ソジェピル 서재필)と開化派によって発行され、創刊時には英文での記事も掲載するなど、立憲君主制、教育の振興、工業育成といった主張を展開していきました。この新聞はハングルの分かち書きを取り入れて、よりわかりやすいハングルへの実践が試みられていました。しかし、この新聞も長続きせず1899年には廃刊となりました。

 ハングルは朝鮮時代の最後の国王(第26代高宗(コジヨン 고종 在位1863年12月~1897年10月)に至ってもなお陰の存在でしかなかったのです。それでも金弘集(キムホンジツプ 김홍집)によって進められた国政改革の「甲午改革(こうごかいかく)」(갑신개혁 1894年7月~96年2月)では、封建的身分制の廃止、科挙の廃止、銀本位制採用、度量衡の統一、身分差別の撤廃などの改革が行われ、その中に政府の公式文書にはハングルを使用することが定められました。残念ながら金弘集の改革があっけなくつぶれてしまったためにハングルの存在はまたもや漢文に隠れてしまいました。

 その後、ハングルに強い光を与えたのは言語学者の周時経(チユシギヨン 주시경 1876年~1914年)でした。彼は上述しました朝鮮で初めてのハングル新聞「独立新聞」の校正係となったことをきっかけにハングル普及に力を注ぎ、1906年に『大韓国語文法』、1908年に『国語文典音学』を出版しました。一説では「ハングル」という呼称は周時経が名付け親だとも言われています。「ハン」は「偉大な」、「グル」は「文字」だという説と「ハン」は「韓」だという説もあります。

 この周時経の努力は皮肉なことに1910年から朝鮮半島を植民地とした日本帝国の朝鮮総督府に受け継がれました。学校教育ではハングルと漢字の混じった朝鮮語が必修科目となり、ハングルの普及に貢献することになりました。しかし、その一方で日本帝国は日本語を「国語」として教えていきました。
 日本統治時代、朝鮮半島(韓半島)では、ハングルが朝鮮民族の文字と人びとに認識され、識字率も上がっていきましたが、その一方でこの時代もハングル第一主義を貫くことはできなかったと言えます。

 1948年に「大韓民国」(韓国)が建国されますと、すぐさま李承晩(イスンマン 이승만)初代大統領によって「ハングル専用法」が制定されました。日本の植民地統治から解放されて、新しい国家が誕生したわけですから、使用文字が朝鮮民族の文字であるハングルと定められたのは当然でした。でもこの「専用法」では、公文書はハングル表記とするとしながら、しばらくは漢字を括弧に入れて使用してもよいとされていました。また学校でも漢字教育が維持されていました。ですから当時の韓国では依然として漢字や漢文の知識や運用能力に優れた人びとが多く存在していたのです。政府も漢字使用を禁止せずに、ハングルと漢字の併用を認めていました。

 冒頭に書きましたように、1970年に朴正煕大統領によって、まず学校から漢字教育が消えて、漢字を理解する者が自然消滅していく韓国政府の政策は1990年代後半になると、漢字使用の存続を主張していた新聞社までが漢字使用を次第に取り止めていきました。
 こうして韓国から漢字表記がほとんど姿を消し、現在に至っているのです。ようやく朝鮮民族みずからが創出したハングルが一人歩きを始め、自国の文字表現形式を完全に手にしたことは当然とはいえ、喜ばしいことだと思います。

 ただし漢字の知識や漢文の素養が完全に失われて良いのかという疑念が韓国内にあることは冒頭に記したとおりです。
 たとえば「伝記」「電気」「前期」と漢字で表記されていれば、日本の方はこれらの文字の意味はわかりますし、なぜそれぞれ異なる漢字が用いられているのかすぐ文字を見ることで理解もできます。でも韓国では3つとも「전기」(チョンギ)という同じハングル表記になってしまいます。前後の文脈を見たり、聞いたりしないかぎり意味はわからないのです。

 また1970年以前にはハングルと漢字が混用された書物が多く刊行されています。そして高等教育を受けている大学生などは、やや高度な専門書なども時代を遡って目を通さなければならない場合があるはずです。ところが1970年以降、ハングルしか教育されていない人が次第に増えて、日常的にも漢字にほとんど触れる機会が失われた1990年代前後になりますと、もはや1970年以前刊行の書物や資料を理解できない韓国人が多数を占め始めてきています。
 さらには漢字に込められた抽象性の高い概念を理解できないため、ハングルだけでは論理的思考を深めることが難しい場合も出てきます。

 1970年以降の政府が目指してきたハングルの純化方策と、そこに露呈してきたマイナス面を巡って、韓国では漢字復権論者とハングル重視論者との間で、さまざまな意見が戦わされてきています。おそらく両者の論争は今後も続くものと思われますが、日本で漢字を学んだ韓国人として、今後の動きには大きな関心を寄せています。

 (大妻女子大学准教授)

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