宗教・民族から見た同時代世界

テロに脅かされていたソチ五輪

                      荒木 重雄

 ロシアのウクライナへの介入が国際社会に緊張をもたらし、ウクライナ国内ではウクライナ系住民(カトリック)、ロシア系住民(ロシア正教)、クリミア・タタール人(イスラム)の宗教・民族問題を激化しかねない雲行きだが、まずは、ともかくも無事に終わったソチ五輪について語っておこう。

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 ソチ五輪が無事に終わった。ともかくも無事に終わった。
各国の選手が熱戦を繰り広げ、世界中に感動を届けた雪と氷の祭典であったが、じつは、イスラム武装勢力に阻止を予告されていた、かつてない危険な五輪であった。

 欧米の首脳が揃って開会式を欠席したのは、表向きは同性愛規制など人権問題への批判とされるが、じつは危険を避けてのことであったとも囁かれている。

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◇◇ テロの影におびえて
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 それだけに警備は厳重であった。「ソチは閉鎖都市になった」と報じられた臨戦態勢で、4万人の警官が配置され、一ヵ月前から、地元ナンバー以外の自動車はソチ周辺への乗り入れを禁止。鉄道駅では、到着客全員が金属探知機で空港並みの安全検査を受けた。
 監視カメラ付きの高いフェンスに護られた競技場への出入りや、ホテルへの出入りが厳しくチェックされたのはもちろん、人工衛星でソチ全体を監視下に置いた。
 プーチン政権が威信をかけた安全対策に要した経費は、夏季を含む過去のどの五輪よりも高額な20億ドル(約2千億円)に及んだという。

 警備陣に緊張が走ったのは、開催を一ヵ月余りに控えた前年12月末、ソチの北東約650キロの中核都市ボルゴグラードで起こった連続テロ事件である。29日、鉄道駅で自爆テロ。死者18人、負傷者40人余。翌30日には、走行中のトロリーバスが爆発。死者16人、負傷者40人余。ソチと首都モスクワなどを結ぶ交通の要衝である同市では、10月にも路線バスで自爆テロが起こり、乗客6人が死亡している。

 同じ頃、ダゲスタンでも警察車両や検察職員の車に仕掛けられた爆弾が爆発。年を越えては、ソチに300キロに迫るスタブロポリ近郊で4台の車から5人の射殺遺体が見つかり、近くに爆発物も発見されるなど、無気味な事件も相次いだ。

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◇◇ ダゲスタンとチェチェン
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 ボルゴグラードの10月の路線バス爆破事件で自爆した犯人は、ダゲスタン出身の女性で、チェチェン独立紛争などで夫を亡くした女性たちによるイスラム過激組織「黒い未亡人」のメンバーとされている。12月の鉄道駅自爆事件も、後にロシア人男性の犯行と変更されたが、当初は同じくダゲスタンの女性の犯行と見られていた。ではなぜダゲスタンなのか。

 ソチから600キロほど東に離れたダゲスタンは、チェチェンなどと並び、北カフカスでロシア連邦を構成する共和国の一つである。北でチェチェン共和国、南と南西でアゼルバイジャン、グルジアと接する。

 そのダゲスタン共和国は、いま、テロの多発地域として、黒い目出し帽で重武装した特別治安部隊の威圧の下に置かれ、銃声が絶えることがない。ロシアの人権団体によると、治安部隊による過激派掃討作戦やこれに対抗して治安機関を狙った爆発事件などで、昨年一年間の死者は400人に達するという。

 これにはじつは隣国チェチェンの状況が深くかかわっている。
 チェチェンは、1991年、ソ連の崩壊に際して、ドゥダエフ初代大統領のもと独立を宣言するが、94年、ロシアのエリツィン大統領は分離独立阻止にロシア軍を侵攻させる。
 96年に一旦、停戦が実現するが、99年、プーチン首相(当時)が制圧作戦を再開。過酷を極めた無差別壊滅作戦で、90年代初頭のチェチェン人推定人口約100万人の内、5分の1に当たる約20万人が死亡した。

 2000年、独立派を破ったプーチンはチェチェンに傀儡のカドイロフ政権を立て、経済振興を図る一方、恐怖政治を展開し、拉致、拷問と裁判なしの処刑、遺体投棄などによって行方不明になった市民が、2000年から05年までで1万8千人に及んだという。

 こうした過程で、チェチェンを逃れた人たちが移った先が、隣国ダゲスタンであった。

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◇◇ 祖先の骨の上にソチ五輪
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 イスラム教徒であるチェチェン人、ダゲスタン人、チェルケス人など北カフカスの民とロシアとの確執は、だが、現在に始まったことではない。古くは16世紀半ばのイヴァン雷帝の侵攻にはじまるが、19世紀初頭、グルジアとアゼルバイジャンをペルシアから奪ったロシアは、ロシアとの間を分断する位置にある北カフカスの征服を企て、「カフカス戦争」を仕掛ける。戦いは苛烈を極め、ついにロシア帝国に併合される1895年までにチェチェン人やダゲスタン人の半数が殺されたといわれる。

 さらにスターリン政権下、第二次大戦末期の1944年には、対独協力の懼れありとしてチェチェン人やダゲスタン人を中央アジアのカザフスタンに強制移住させ、移動中や移住地の劣悪な環境のために当時の人口の40%ないし60%が死亡したといわれる。57年に故郷への帰還を許されるが、そこにはすでにロシア人が多数入植していた。

 「我々の先祖の骨の上で五輪を開こうとしている」とソチ五輪開催阻止を宣言したのは、イスラム過激派最大組織を率いるとされるドク・ウマロフだが、その言葉がまさに当てはまるのがチェルケス人である。ソチ周辺に約200万人のチェルケス人が住んでいたが、カフカス戦争が終結した1864年、ロシア軍の攻撃を受けて約30万人が虐殺され、生きの残った者のほとんどはオスマン帝国へ追放された。

 そのときソチに留まったチェルケス人の末裔(現在約4千人)の一部の人たちは、いま、チェルケス人の文化や言語の保存に取り組む市民団体を組織し、たびたびロシア政府に「虐殺」を認めるよう嘆願書を出しているが、政府は拒み続けている。五輪開催が決まって、開発で山野が切り開かれる前に祖先の墓や遺跡の調査・発掘を行政に求めたが、これさえ認められなかったという。「暴力には絶対反対」といいながら、彼らのロシア政府への不信感は深まっている。

 とにもかくにもソチ五輪が無事に終わったことは心から喜びたい。だが、強面プーチンのロシアは、五輪終了と入れ替わるかのように、ウクライナで新たな難題と緊張を抱えることになった。この問題についてはいま小欄で論じるところではないが、ソチに関していえば、パラリンピックが支障なく終了することを願うのみである。

 (筆者は元桜美林大学教授)


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