【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

タイ国王・プミポンが生きた時代

荒木 重雄


 タイのプミポン国王が、10月、88歳で亡くなった。在位70年に亙り国民から厚い敬愛を受けて政治・社会の「安定の要」の役割をはたしてきた「国父」の死は、先行き不安なタイ社会に深い喪失感を残しているといわれている。
 では、プミポン国王とは、いったいいかなる存在だったのだろうか。仏教との関係も併せ、その時代を振り返っておきたい。

◆◆ 「民族・仏教・国王」が国家原理

 現代タイ政治に国王と仏教を復権させたのは、1957年、西欧型民主主義に倣ったピブン政権をクーデターで追い落としたサリット陸軍司令官であった。
 彼は、議会制民主主義はタイに腐敗・汚職と政治的混乱をもたらし、共産主義者の跋扈を許しただけであるとし、替わりに、「タイ式民主主義」を掲げ、かつてスコータイ王朝のラームカムヘン王(13世紀)が理想とした「ポークンの政治」の復活を唱えた。ポーとはタイ語で「父」、クンは「王」であり、国王と国民は、「支配する者・される者」ではなく親子のような「庇護する者・される者」の関係であると説く。

 サリットの主張を支えた理念が「民族・仏教・国王」の三位一体論である。
 ラーマ6世(治世1910~25年)が唱えたこの三原理論を、サリットは、新たな国民統合の中心イデオロギーに据えなおし、タイ民族のアイデンティティを構成する要素は仏教と国王であり、仏教の最高の擁護者として民族を代表するのが国王で、その国王を守るのが政治指導者および国民の最大の責務であるとした。
 在位10年を迎えたばかりのまだ若い(30歳)プミポンにその国王の任を体現することが期待された。

◆◆ プミポン在位は激動の時代

 サリットはこうして、32年の立憲革命以来、低下を辿った国王の権威の回復を図るとともに、仏教界の抜本的な改革にも着手した。まず、サンガ(仏教界)を内務省が管轄する中央集権的組織に改変すると同時に、「僧侶は国家の建設と国民の繁栄に貢献すべし」として、村々の住職を村落開発委員会の顧問に任命したり、バンコクの青年僧を地方の開発に大量動員したりした。東西冷戦下、インドシナ半島が不安定化するなかで、共産主義勢力の浸透防止がその目的であった。

 サリットの後を継いだ、彼の腹心の部下で陸軍司令官を兼任したタノム首相、プラパート副首相の政権下で、この傾向は一層拡大され、僧侶は、軍人や内務省の地方官吏、村民が結成する自警団とともに、地方における反共政策の要とされ、「仏教の信仰に消極的な村民は非国民であり、共産主義支持者である」とのキャンペーンが展開された。

 タノム=プラパート政権はやがて、その目にあまる独裁・強権ぶりと不正蓄財から、学生・市民の大規模な反対運動に遭遇し、ついに73年10月、学生・市民と軍・警察が衝突して多数の死傷者が出るに及んで、国王はテレビ・ラジオを通じて声明を発し、文民の新首相を任命して、タノム、プラパートらに国外脱出を指示した。
 この決断は国民にプミポン国王の威信を印象づけ、以後、国王は政治的な主導権を発揮して、新憲法の制定やクーデターの承認などの政治の節目には必ず登場するようになる。

 束の間、享受された民主主義体制は、しかし、そのさらなる進展に危機感を抱いた王室の支持のもと、軍・警察と右派勢力による民主派攻撃が開始され、軍服から僧衣に着替えたタノム、プラパートの帰国を機に、ついに76年10月、「血の水曜日」事件として歴史にのこる残虐なしかたで民主派勢力は壊滅させられた。紆余曲折の後、タイ政権は王党主義者プレム陸軍司令官に引き継がれていった。

 次のハイライトは92年5月、スチンダ陸軍司令官の軍事政権に反対する市民の集会に軍・警察が無差別発砲を加えて多数の死傷者を出した「流血の五月」事件である。国王はスチンダと市民側リーダーのチャムロン前バンコク市長を王宮に呼びつけ、拝跪する両名に直ちに事態の収拾を図るよう指示した。このときのテレビ映像は世界を駆け巡り、タイ国王の力の大きさを印象づけた。ご記憶の読者も多いことだろう。

◆◆ 社会変化で翳った国王の威光

 しかし、2001年、タクシン氏に率いられた、農村に基盤を置く新興政治勢力が圧倒的な力で議会を制して登場してくると、都市部を基盤とする既得権益層との間に深刻な摩擦が生じた。既得権益層の後ろ盾としてその政治的・経済的特権を支えてきたのが、他ならぬ軍と、王室の威光であった。ここに至って国王はもはや、私心なき「超越した調停者」ではなく、対立の一方の「当事者」とならざるをえなくなった。
 06年、タクシン政権を倒したソンティ陸軍司令官によるクーデターが国王の承認のもと、国王側近のプレム枢密院議長の指示で行われことや、以後、タクシン派の弾圧に「不敬罪」が頻繁に用いられたこともその証左とされる。

 20世紀後半のタイ政治では、政治腐敗が蔓延すると、軍が力で政権を「刷新」し、一定期間の軍政後、総選挙を経て議会政治に戻るが、再び政治腐敗とクーデター、という循環を繰り返してきたが、国王はそのサイクルの頂点に立って、最終調停者として数多くのクーデターの当否と成否を審判してきた。
 しかし、それが可能であったのは、このサイクルが既得権益層内での利益調整にすぎなかったからであって、農民大衆が既得権益層に挑戦する新興勢力として登場してくるに及んでは、国王は調停力を失い、軍と同様、既得権益層の側に自らを置くことになった。

 事実、06年以前なら国王のクーデター承認で一件落着となるはずだが、そうはならなかった。タクシン氏は海外の逃亡先から支持者にメッセージを送り、デモを組織して、反タクシン派の政権や軍と争い、その後、2度の総選挙に圧勝した。
 両派の対立で、首都の中心部が交互に占拠される流血の混乱が続き、14年には軍が再びクーデターでタクシン氏の妹インラック氏の政権を潰したが、もはや、プミポン国王が調停者として登場することはなく、それは国王の高齢化とも重ねて語られている。

◆◆ 分断社会に新国王はどう対応

 東南アジアの伝統的仏教社会には「王は仏教の擁護者」という観念がある。これは、王は過去生で無限に積んだ功徳から王であるとするカルマ・ラージャ(菩薩王)や、王は仏教の理想と正義をこの世に実現するから王であるとするダルマ・ラージャ(正法王)の観念にも敷衍されるが、要するに、「王は民衆の生きる拠り所であり社会正義の規範でもある仏教の護持・興隆に努めるがゆえに王である」という謂いで、民衆の王への敬愛と信頼を根底で支えてきたのはこの観念であった。
 そのような観念・心情が民衆から薄れ、経済価値最優先のもと「社会の分断」が著しく進行する今日のタイ社会で、いかにしたら国王が社会統合の一助となりえるのか、プミポン後の新国王のありようの模索はきわめて困難な途である。

 なお、王位継承者のワチラロンコン皇太子が当面即位しない意向を示したことを受けて摂政に就いたのは、76年の「血の水曜日」事件や06年のクーデターにも影がちらつく、96歳の王党主義者プレム前枢密院議長である。

 (元桜美林大学教授)


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