【コラム】酔生夢死

スマホ人

岡田 充


 スマホ人(スマホ中毒)が嫌いだ。駅のプラットホームで見かける「歩きスマホ」や、満員電車の中で人の背中にスマホを押し付けながら操作するのは論外。どんな美人でもこんな「スマホ人」と一緒に暮らしたくない。電車の座席に座るやいなや、スマホを取り出す人は7、8割を超えるのではないか。車内マナーに反するわけではないが、気味の悪い光景だ。

 多くの「スマホ人」がはまっているのがゲーム。50代のサラリーマンが、スマホやゲーム機を必死の形相にらみながら、指をせかせかと動かすのを見ていると「猿の××掻き」を連想させる。

 日本のスマホ普及率は、ある調査では約57%。20、30歳代の普及率は8−7割に上る。あと2年もすると、携帯電話メーカーが、「ガラ携は修理不能」として、スマホ切り替えを“強要”するらしい。9割近くが「スマホ人」になる時は近い。

 スマホの普及で、人はどんどん個化(アトム化)している。「空間にアナが空いてネットを通して情報が出入りするイメージ。近くにいる人が、全く違う情報空間を生きていることが当たり前になった」(社会学者、鈴木謙介)。

 車内や大学の教室という閉じられた空間にいても、「スマホ人」はその空間を共有していない。アナが開いた空間から、親しい友人やゲームとつながっている。
 さてここからが本題。情報技術への依存が一層深まりアトム化が進むと、いったいどんな社会になるのだろうか。サブカルチャーが専門の宇野常寛の見方は厳しい。

 彼は、われわれが現実に体験する世界には、物事を整理して記述してくれる「神」は存在しない。一人ひとりの体験はばらばらで、「(現実と)乖離している」とした上で、現状と将来を次のように分析する。

 「情報技術への依存の結果、乖離した現実を想像力で統合し、整理されたものに置き換えて理解する知恵を、いま人間は手放しつつある」と。
 多くの情報は受け身。「政府広報」と化した大手メディアの情報も無批判に受け入れる。その上「同調圧力」に弱い日本の伝統的文化を考えると、権力者にとって「スマホ人」ほど、扱いやすい人種はいないだろう。

 (筆者は共同通信客員論説委員)


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