【アメリカの話題】

ジェンダーの平等を目指して(8)

武田 尚子


■フェミニズムの起源と三つの波のうねり

 フェミニズムの第一波は、19世紀から20世紀初頭にかけて、イギリス、カナダ、オランダ、アメリカ合衆国の女権運動者のとりわけ活発だった期間に所属する。運動の焦点は主として、非公式な不平等をただして、女性の投票権を獲得しようとすることであった。

■起源:フェミニズムの歴史と最初のフェミニズム

 シモーヌ・ド・ボーボワールによると、女性のために弁護の筆を執った最初の女性は、15世紀のクリスチーヌ・ド・ピザンであった。16世紀には(ハインリッヒ・コーネリウス)アグリッパおよび、モデスタ・デイポッゾ・デイフォルツィが出た。17世紀にはポッゾ及び、マリー・グーネイ、アン・ブラドストリート、フランソワ・プーラン・ドラバーが女性のために筆を揮った。

 前号で紹介したウオルストンクラフトは1792年に最初のフェミニストの約定である「女性権利の擁護」を著し、1790年の自身による小冊子「男性権利の擁護」をさらに広げて、両性間の社会的・道徳的な同等を主張した。彼女のその後の小説「マリアもしくは女性の過失」は、女性の性的欲望を論じたために、すくなからぬ非難を浴び、その後何世代にもわたって彼女の評価をおとしめる結果になった。

 ウオルストンクラフトは英国フェミニズムの祖母と目されていて、彼女の理念は、女性の投票権、参政権運動家の思考をその後何世代にもわたって形成した。英国での何世代もの努力を経て、それが英国の若干の女性に与えられたのは1918年、男性と同等になったのは1928年であった。

 結婚の平等と、女性の性的欲望の重要性を信じたマリーストープスは、「既婚者の愛」を著したが、1935年に行われたアメリカの学術関係者の調査では、このセックスマニュアルは、それ以前の50年間におけるもっとも影響力ある25冊の著作の一冊となった。それはアインシュタインの“相対性理論”も、フロイドの“夢の解釈”をも超える人気であった。

■20世紀の初頭

 英国女性は市民としての平等を、理論的には獲得した。
 第一次大戦中はそれまでより多くの女性が、家庭の外で働くようになった。20世紀の始め、女性の職場は工場労働と、家事に限られていた。彼女らは議会に出席する権利を得たが、実際に女性が選出されるまでにはその後の緩慢な道のりが必要だった。女性は学校や地域の会議にも出るようになり、大戦後にはその数は増え続けた。しかし男性が復員し始めると、せっかく開かれた職場は女性を閉め出し、男女の賃金も不平等に、シングルマザーや未亡人にも、状況は同じだった。

 この時期、1910年にはより多くの女性が、教育を受け始めた。女性は一流の医学校に入学し始め、1915年にはアメリカ医学協会は女性会員を受け入れ始めた。1918年の国民代表者条例によると、29歳以上の資産を有する女性は投票権を得るようになリ、それは1928年には21歳以上の全ての女性に拡大された。1919年の性差による資格剥奪条例の除去は、プロフェッショナルの職業や文官勤務の道を女性に開き、結婚を理由に、女が家庭の外で働く権利をとりあげる事は廃止された。1923年の matrimonial causes Act(結婚の解消申し立て条例−武田仮訳)は、男性と同じ理由で離婚できる権利を女性に与えた。

 しかし、1920年に始まった不況は、失業を増加させ、女性は先ず第一にその矢面に立つことになった。大戦中は多数の女性が軍務につき、第2次大戦では30万のアメリカ女性が、陸軍、海軍において、司書やタイピスト、看護婦として働いた。

 女性は学校や地域の会議にも出るようになり、大戦後にはその数は増え続けた。しかし男性が復員してくると、職場が女性を閉め出し、男女の賃金も不平等になったのは英国も米国も同じだった。

 多くのフェミニスト作家やフェミニストたちは、彼女らが必要としていたのは男性との平等でなく、女性が彼女らの内部に潜む可能性を仕事の上だけでなく、社会や家庭生活においても達成しようとする事への社会の認識が必要なのだと論じた。

 ヴァージニア・ウルフは、“自分だけの部屋”を書いたが、それは作家である女性、フィクションの中の女性のアイデアに基づいていた。ウルフは女がものを書きうるためには金と、彼女だけの部屋が必要だと論じた。ウルフはフェミニズム第一波の理論家の一人とみられている。“ニュージーランドは全国的なレベルで、女性に投票権を与えた最初の国であり、フィンランドおよびアメリカの若干州は、オーストラリアの女性が全国的な権利を獲得する以前に、州レベルで女性に投票権を与えていた”とウルフは述べている。

■米国のフェミニズム第一波

 第一波の米国のフェミニズムは19世紀から20世紀末までの運動をいい、主として女性の投票権獲得に焦点を当てていた。

 アメリカの市民戦争の終結に伴って、エリザベス・キャデイ・スタントン、スーザン・アンソニーらのフェミニストは、米国における女性投票権のためのキャンペーンを始めた。スタントンとアンソニーは1869年に「全国女性選挙権連盟」−NWSA−を創立し、その主導者になった。同年、AWSA−「アメリカ女性選挙権連盟」が発足した。

 著名なフェミニストには、アンソニー・スタントンのほかに「19世紀のアメリカ女性」の著作でしばしば、ウオルストンクラフトと比較されたマーガレット・フラーがあり、ほかにはルクレチア・モット、ヴィクトリア・ウッドハル、マチルダ・ジョスリン・ゲイジ、ルーシー・ストン、などがいた。

 第一波のフェミニズムは広範な女性を包含した。若干は保守的なクリスチャングループに属していたが、フェミニズム第二波によく似たNWSAに所属する前述のジョスリン・ゲイジなど、ラジカルな傾向を持っ女性も含んでいた。

 しかし大半の第一波フェミニストは実はラジカルでも革命的でもなく、むしろ保守的で、穏健であった。AWSAにみられるように、進んで働き、投票権取得のためには強力な男性の力が必要だと考えていた。一方NWSAの限られたメンバーは、女性の投票権を連邦政府からかちとるという事にもっぱら焦点を当てていた。彼女らはピケットをはったり、ハンガーストライクをも辞さない事でも知られていた。AWSAが伝統的なロビイングや講演をしたり、署名を集めたりするのとよい対照をなしていた。

 第一波のフェミニストたちは、第二波の女性と違って、堕胎や、産児制限や女性全体の再生機能の権利についてはほとんど問題にしなかった。スーザン・アンソニーは結婚はしなかったが、女性は夫のセックスの要求を退ける権利があるとした。その当時アメリカの女性には夫のレイプから身を守る法律がなかったのである。

 NY州は「既婚女性の資産条例」を改正して、彼女らに子供たちの所有権を共有する権利を授けた。子供たちへの遺言、賃金、資産の相続の権利への発言権を与えたのである。NYおよびそのほかの州で、さらなる前進と後退があったが、新しい特典が加えられるたびに、それをそのほかの州に応用して行くことができた。

 フェミニズム第一波の終わりは、しばしばアメリカ憲法第一九条の修正と同時に語られる。1920年の、女性に投票権を与えるという修正だ。これはこの運動の大きな勝利であり、さらに高等教育、職場そして職業における女性のための法の改善が含まれていた。

 女性の投票権運動ではアフリカ系アメリカ女性が別の妥協を得た。1974年のインタビューで、アリス・ポールは、南部グループは白人女性が先頭で行進し、次に男性、最後にアフリカ系アメリカ女性の行進を認めることになったといっている。

 興味深いのは、米国フェミニズム第一波の動きは、文化も言語も異なるイラン(当時はペルシャ)とシンクロナイズして、ペルシャの BADASHUT と、アメリカフェミニズムの最初の大集会となったセネカフォールズの会議は、時期も内容も似ていた。セネカフォールズはNYの田舎に有る街で、1848年に開かれた女権拡大のための会議には男女300名が集まり、その後のアメリカのフェミニズム発展の端緒になった。

 2日間の会議の後、68名の女性と32名の男性が“Declaration of Sentiments”(所感の宣言)に署名した。それは女性の不満をアウトラインし、女権運動が協議すべき事項をあげていた。女性と男性の法律上の平等待遇と女性の投票権を要求する12の決議が採択されている。

 ペルシャの BADASHUT の会議は1848年の6月−7月半ばまで開催されたが、セネカフォールズの会議は同年の7月半ばに行われた。そのいずれの会議でも、キャデイ・スタントン(アメリカ)と TAHIRIH(ペルシャ側のリーダー女性)は公的な場における女性の役割を強く訴えたために、出席者の若干からひんしゅくを買っている。最後には主導的な男性がそれぞれの会議で女性の要求を支持して分裂を取りなしたらしい。

 BADASHUT の会議は回教のきわめて封建的なシャリア法廃止への動きのあらわれとみる人もいる。女性の要求は非道徳的と非難されたが、それはイスラム体制に反対するものへの常道だと、革新的受け止められても居た。

 ところで、「フェミニズム第一波」の名称は、社会的文化的な不平等に焦点を当てた新しいフェミニズム活動を第二波とよぶようになってから後につけられたものである。

■フェミニズム第二波

 第二波のフェミニズムは、第二次大戦の終結とほとんど同時に始まり、活動の最盛期はおおむね、1960年代初頭から、1970年代末ごろまで続いた。その関心は、法律と文化における両性間の不平等の是正であった。それはフェミニズム第一波の業績を土台に、その理念をアメリカに適応させようとした。シモーヌ・ド・ボーボワールは、その哲学において、男性にたいして女性を『他者』と位置づけた事から、この第二波のフェミニズムに影響をあたえた存在とみられている。その理念はその後のウルフの著作でも触れられているが、家事と職場、さらに性行動における両性の役割にも適用された。ボーボワールはその後のフェミニスト理論の論調をきめた。

 男たちが戦場に駆り出された後、女性は立派に男性の残した仕事を勤め上げていたので、戦争の終焉は女たちに、家事の束縛と子供の養育の義務から自由になり、社会に触れるもっと高度な仕事をしたいと願わせるようになった。しかし現実には職業の機会も、報酬も平等からはほど遠かった。

 1960年代の始め、べテイ・フリーダンは『女性の神秘』を書き、当時のアメリカ中産階級の妻であり母である女性の生活パターンを吟味批判した。彼女は女性たちが快適な家に住み、教育を受け、子供に恵まれていてさえ、不満を持っている事、つまり彼女のいう『名もなき悩み』を抱えていること、妻たちが家事と子供の世話のほか役割を持たない事から来る中産階級女性の人生への不満を確認した。しかも1950年代には、この漠然とした不満は女性雑誌のしばしばとりあげる話題であり、決して新しいものではなかったのである。

 フリーダンは、女性たちが、与えられた適切な役割に適応できないと責めるのでなく、その役割自体と、それを作り上げた社会を批判したのである。そして各人がその人生において、男性優位の社会における個人的、職業的な使命を発見して力を尽くすべきであると力説した。

 フリーダンの[Feminie Mystique]は女性に強くアピールして、またたく間にベストセラーになり、女性は職場における性差待遇を取り除く事に意欲を見せ始めた。1966年には、べテイ・フリーダンを含む30名の女性が女性のための全国組織(NATIONAL ORGANISATION FOR WOMEN = NOW)を立ち上げた。主流の社会にほとんど足場をもたない女性たちに自覚を与えようとしたのである。その目的は、男性との完全な平等を実現する事であった。創立時の役員は次の通りであった。

 べテイ・フリーダン:会長
 キャスリン・F・クラレンバッハ:議長
 アイリーン・ヘルナンデス:執行副会長
 リチャード・グレハム:副会長
 キャロリン・デイヴィス:書記、財務官

 この期間に、フェミニストは文化的政治的な不平等に抗して運動したが、彼女らはその両者が深く結びついていると感じていた。この運動は女性たちに各自の生活を振り返らせ、性差による待遇や習慣のちがいが、如何に政治的に利用されているかに、眼を開かせようとした。

 フェミニスト第一波が投票権に焦点を当てたとしたら、第二波のフェミニストは差別に関連する問題に平等を求めた。フェミニストの活動家で著作家であるキャロル・ヘイニッシュは『個人的なことが、(実は)政治的なのだ』というスローガンを編み出した。[Personal is Political]はその後、第二波のフェミニズムと同義になった。

 1960−70年代にはもうひとつの主要な運動、女性の健康問題が出てきた。それはアメリカの健康制度が、如何に女性に不利であるかを明らかにし、全国女性健康ネットワーク、全国黒人女性健康プロジェクトなど個別のグループを包含していた。

 フェミニストはそれらの組織が男性により管理統率されている事を問題視し、女性を激励して医者志望を促し、助産婦は免許制となリ、より多くの女性がこの分野に活躍し始めた。こうした動きは1972年の、雇用機会平等条例、1980年の科学技術機会平等条例などを生み出し、この条例はことに、医学、科学、技術工学など、代表の少ない分野に、その後、女性を次々に送り込むことになった。1986年までに、女性健康問題に関する連邦負担の顧問委員会が樹立された。

 この運動の一端として、早くも1920年代には『いちゃつき禁止クラブ』が登場し、60年代以後は、堕胎手術禁止に反対するマーガレット・サンガー・クリニック、ブルー・ストッキング書店など、種々の抵抗運動があった。此処では、可成り思い切った行動を通して、アメリカ社会の眼を女性運動に開かせた『サンガー・クリニック』と「ノーモア・ミス・アメリカ」を紹介しよう。

■マーガレット・サンガーの 『わいせつ』事件 

 NYロアー・イーストサイド、オーチャド街に復元された TENAMENT MUSEUM のツアーをする人は、19世紀と20世紀の端境期に、いくつかの波になって押し寄せた移民の経験を歩きまわることになる。多くの場合彼等は、1部屋に5−6人が固まって暮らしていた。1900年の人口調査によると、オーチャド街の建物に居た18人の妻は、皆で11人の子供を産んだが、その後の人口調査時には67人の子供が生きていた。今でこそ嬰児と小児の死亡率が40%ときけば、ショックを受けるが、当時では標準だった。母親の死亡率は今日より99%高くそのうち40%は伝染によるもので、おまけのその半数は不法な、もしくは妊婦自身による堕胎が原因であった。産児制限は女性の健康を目覚ましく改善したが、そこに到達するまでには社会革命が必要だった。

 1912年、マーガレット・サンガーはイーストサイドの貧困所帯の女性の世話をする看護婦だった。患者のサデイー・サッシュはその一人で、すでに3人の子持ち。これ以上の妊娠では生命の危険があるといわれていた。サデイーが医者に、どうやったら妊娠を防げるかときくと、医者は夫を「屋根の上に寝かせろ」といった。またもや妊娠したとき、彼女はまた自己堕胎を試み、死んでしまった。

 サンガーは女性の産児制限への知識の乏しさを憂い、『全ての少女の知るべき事』というコラムを『コール』という社会主義者の新聞に書き始めた。日ならずして、サンガーを責める逮捕状がだされた。郵便を通してわいせつをふりまく事に反対している『コムストック法』に違反しているという理由であった。

 去る1873年、改革運動者コムストックのかけたプレシュアに応じて、法律は、避妊もしくは堕胎に関する情報を「わいせつ」と定義した。コムストックは淫らなものをとりのけたと勝利顔である。

 サンガーのコラムのかわりに、コール紙は「米国郵政省の命令により、サンガーのコラムは無くなりました!」と書いた。それに屈服するどころか、サンガーは『女性は反逆する』という定期刊行物を、コムストック法への直接抗議として出版した。それから彼女はヨーロッパへ逃げ、オランダの産児制限クリニックを訪ね、アメリカ全土にこうしたクリニックをもうける事を構想し始めた。
 サンガーが帰米する頃までには彼女の意見は可成り受け入れられるようになっていた。1916年10月16日に、サンガーはアメリカ初の産児制限クリニックをブルックリンに開いた。

 妹のエセルは看護婦であったが、彼女らが医者の協力を得るまでにはかなりの時間が必要だった。英語、イーデッシュ語、イタリア語で書かれたパンフレットが、近隣に配られた。464人の患者が来所した10日後、警官はクリニックを閉鎖した。続いて、サンガーはわいせつで好色な事項の伝搬者であると非難された。

 しかし、家族計画同盟を企画していたサンガーはこれによって、彼女のクリニックよりよほど大きな事業をなしとげた。彼女は女性の生殖−再生への自由を求める運動を起動したのである。

 20世紀にこの運動は誠に決定的な勝利を得たので、それが逆転し得るなどと考える女性は居なかった。産児制限、堕胎は合法になった。ピルなど、よい避妊法が発達し、政府は低所得層の女性には産児制限のための資金を加増するようになった。今日では90%以上の女性が、避妊を実行している。サンガーがクリニックを開いてから4年以上、女性は投票権を得ることができなかった。それでも、彼女の時代の女性の投票権や避妊法の論議は、驚くほど今日のそれと似通って聞こえる。

 こうした政策は一体女性の平等を促進するのだろうか、家族を破壊するのだろうか? それらは正義を前進させるのだろうか、あるいは無差別な性行為を激増させるのだろうか? 医療上のケアとポノグラフィーの間のどこに境を決めるラインがあるのだろうか。その答えは、あのときも今も、あなた自身の、女性、セックスそして権力への意見によって決まるのである。

■ノーモア・ミスアメリカ

 これはNYのラジカルな女性グループの企画した、1968年のミスアメリカ・コンテストに対する抵抗であった。このグループは女性解放運動を公衆の意識の中に目覚めさせるために、女性を説いて、ガードルやハイヒール、ヘアカーラー、付けまつげ、ブラジャー、プレイボーイマガジン、そのほか彼等のいう女性向けの「拷問用品」を「Freedom Trash can]と名付けた『自由のためのゴミ箱』に投げ入れさせるのである。これは女性に異性の気をひくための虚飾の一切、言動の一切を捨ててしまえと説得して従わせようとする大胆な運動であり、これらの品物(拷問用具)を抑圧のシンボルとして焼きはらおうとしたのである。

 キャロル・へイニッシュがそのアイデアを出した。ロビン・モーガンはプレス・レリースを書き、100人ばかりの女性が、ニュジャージー・アトランチック市のボードウオークで気勢を上げた。キャロル・ヘイニッシュなど数人のグループメンバーがバルコニーに旗印を掲げ、ミスアメリカが勝利の冠に輝いた瞬間 『女性を解放せよ』と叫んだのであった。

1968年8月22日 NY市
 ノーモア・ミスアメリカ(プレスレリース)

 「1968年9月7日、アトランチック市において、例年のミスアメリカ・ページェントが、あなた方の理想である女性に王冠を授与します。しかし、本年は真性な、整形手術なしの生気あふれる女性によって、あなた方の競売場を解放いたします。ウーマンリブ・グループ、黒人女性、高校と大学の女学生、女性平和運動グループ、女性福祉および社会事業グループ、「女性に職業の平等を」グループ、産児制限および堕胎に賛成グループ、などありとあらゆる職業や政治色の女性たちを皆ご招待いたします。アトランチック市のコンベンションホール前面のボードウオークで、午後1時にどうぞ集合、ご参加ください。
 ピケットラインも、ゲリラ劇場も、パンフレット配布も、我々の姉妹たちであるコンテスト参加者に、お笑い草のページェントを見捨てて我々に参加するよう説いてまわるロビイストも出るはずです。それに巨大な、自由のためのゴミ捨て箱ももうけますから、ブラジャーや、ガードル、付けまつげ、かつら、「コスモポリタン」「レディズホームジャーナル」「ファミリーサークル」などのほか、このイベントに関係のある記事を含む諸雑誌の代表的なものなど、お宅にある女性用のガラクタをみな持ってきて下さい。

 我々はミスアメリカのイメージに抵抗しますが、それは我々を代表しているといわれるそのイメージが、とりもなおさず女性を抑圧するイメージだからなのです。
 ミスアメリカの戴冠の様子を実況放送するウーマンリブの集会で、このプロテストの一日が終わることになります。そのほかいろいろな驚きが準備されますが、我々は破壊的な手段に訴えるつもりはなく、ポリスが介入するような場面はないはずです。万一我々の姉妹たちの中で、なんらかの理由で逮捕されそうなものが出たときには、我々は男性警官ではなく、婦人警官だけにそのしごとを扱ってもらうことにいたします。(実はアトランチック市では、婦人警官は人を逮捕できないのです!おわかりですか?)

 男性のショービニスト—反動主義者は、この場に立ち入られないのが最善です。またたとえリベラルの方でも、男性はデモに歓迎いたしません。しかし私たちの行動に共感なさる方は、お金を寄付して下さるもよし、車とドライバーの提供もありがたくお受けします。参加者をニュージャージーにお連れし、また送り返すのに車が必要なのです。男性ジャーナリストのインタビューはお受けできません。恩着せがましい報告記事はお断りです。女性のニューズウーマンは歓迎です。」

 さてこのページェントの後「ノーモア・ミスアメリカ」の大元の企画者であるキャロル・へイニッシュは、この日のプロテストに対する自己批判を書いた。要旨は次の通りである。

 「1968年9月のアトランチック市のプロテストは、アメリカに新しいフェミニズムが出現した事を告げた。マスメディアの報道は全米諸新聞のフロントページから、いくつかの外国紙まで及んだ。おかげで多くの新しいメンバーを我々のグループに迎える事ができた。多数の手紙が、『私たちはこんなことの起るのを長い間待っていました』といってくれた。

 闘争におけるこの時点で、我々のなすべき事は 1)女性に、彼女らに潜在する抑圧の事実を自覚させ 2)同じ展望を持つ女性たちと姉妹としての提携関係を結ぶ事である。

 プロテスト「ノーモア・ミスアメリカ」のアイデアを私たちの『NYラジカル女性』グループに提案したとき、ミスアメリカ・コンテストをどう思ったかと各自の体験をきいた。このコンテストを軽蔑した多くの女性ですら、実際にはほとんどがそれを(テレビで)見ていた事がわかった。私自身もその一人であるその他の女性は、ページェントに共鳴し、勝利者とともに涙を流していたのである。

 このグループの多数の女性による思考から、プロテストの案は生まれた。が、そのデモで我々が明らかにすべき事は、美人コンテストでは全ての女性—ミスアメリカも我々自身も—同様に傷ついていることを最重要な問題として提起することであった。

 ところがこのページェントで我々は『女性らしさへの反対— Anti-womanism』(アンチウーマニズム)を強調するという誤りを犯した。一人一人の女性が自分の気にいった事をするという気分と同時に、グループに属していても、反対意見を出さないまま自分の好き勝手をやるといった事態が起ってきた。こうした利己的な個人主義のおかげで、一般の女性たちには、「ANTI-WOMANIS」の持つ明確なひずみが露呈されることになった。

 『窮地に陥ったミスアメリカ』『ミスアメリカは大まやかしもの』といったポスターの文句が、女性の自覚を促すなどもってのほか。それらは姉妹提携の理想をおおいに傷つけた。ミスアメリカと美しい女性たちは我々と同じ悩みを悩む姉妹ではなく、敵になってしまった。グループは今はこうしたアンチウーマンの標識を退ける決定をしたのである。

 ポスターだけでなく我々が“アンチウーマン”から遠ざかったのは、我々の理念の明確さが十分でない事にあった。我々は、女性はミスアメリカの役割を演じることを壇上の美しい女性によって強いられているのでなく、男性に従う事を、男性優位の制度化した社会のために強制されているのだという事を、明確にしそこなったのである。

 この最初のプロテストの試みは、全くの成功とはいえなかった。『ミスアメリカ・プロテストJ』は、一人ずつに語りかけるグループの働きではなく、大きな力による急激な活動であった。そうした活動は我々のグループまたメディアの報道を通して女性への抑圧を意識的な社会問題にする。こうした活動において我々はグループとして男性あるいは女性に話しかける。彼等が言い返しできないまれな機会である。(男性は、耳を傾ける事を学ぶべきだ)我々の結束の力は、彼等を変えることができるはずだ。

 左派の多数が、我々の活動を「馬鹿げている。重要ではない事を攻撃している」と決めつけたように、右派の人々は『ロシアへ帰ってしまえ!』『毛沢東の母親!』などとピケットラインで叫んだ。皮肉な事に、左派の地下新聞は我々の最悪の間違いであった活動が、もっとも気に入ったようだった—つまりあの我々のアンチウーマンの標識である。

 驚いた事にそして幸いな事に、マスメディアの若干は我々の間違いを見過ごし、我々の最善の活動に注目してくれた。デイリーニュースを引用しよう。
 「こうした美人コンテストは、女性を卑しめるものだと信じる女性たちが、それを公衆の前に引き出してみせた、、、」、ボードウオークのプロテストでは、少女たちが「彼等は、美人に反対してるのではなくて、美人コンテストに反対なのだ」と話し合っていた。シャナ・アレクサンダーは、ライフ誌の論説に、「彼等がもっと先までいってくれればよかった」と書いた。ライフ誌とデイリーニューズは、全米でそれぞれ何百万もの読者を持っている。

 このプロテスト活動の最善のスローガンは、残念ながらコンテストの1ヶ月後に、ロス・バクサンドールがデヴィド・サスキンショーに出場したときに出てきた。『女にとっては、毎日が、ミスアメリカ・コンテストに出場しているのと同じなのですよ』

 われわれは最良のスローガンを待っているべきではない。我々は最高の理解に達しなければならない。私たちが最初に手をつけたこの侵略から、姉妹たちが皆、何かを学び取って下さる事を希望してやまない。時と努力をかけて、我々が学んだように。」

■フェミニズム第三波

 1990年代の初期、今ではフェミニズム第三波とよばれる運動が、フェミニズム第二波の失敗への挑戦として起ってきた。第二波のフェミニズムは、基本的、普遍的な女性のありかたを認め、中産階級上流の白人女性の経験にほとんど依拠して、女性の権利の平等を主張していた。第二波フェミニズムからの移行は、多数の法律上、制度上の権利が女性に与えられると共に起ってきた。それには女性とこどもに対する家庭内暴力からのシェルターの創設や、女性虐待やレイプの公的な認識、堕胎の合法化を含む避妊その他の生殖再生問題に関する公的なサービス、職場におけるセクシュアル ハラスメント対策の創設と強化、子供へのケアサービス、若い女性および女性学研究への同等またはより大きな資金の配分ほか、さらにいくつものプログラムを、第三次フェミニストの財源および道具としてサービスを提供した。

 第二次フェミニストから出たグローリア・アンダルジア、べル・フック、ケリー・アン・ケイン、チェリー・モーガン、マキシン・ホン・キングストン、その他多数の黒人フェミニストリーダーたちは、人種に関する思考をフェミニスト運動の中にふくませようと方法を探っていた。

 1981年、チェリー・モラガおよびグローリア・アンダルジュアは詩歌集「わが背というこの橋」を出版した。それは文集『全ての女性は白人だ、黒人は皆男性だ、しかし我々の中には勇敢なものも居る』とともに、白人の中産階級女性に焦点を当てた第二次のフェミニズムを批判した。

 フェミニズム第三波の根は、1980年代の半ばに始まった。第二波出身のフェミニストのリーダーたちは、フェミニストの声に新しい主観−主義を要求したのである。彼等は人種関係への考慮をフェミニストの思考にはっきりと入れる場所を求めた。この、人種とジェンダーの交差点への視点は、やがて貧しいコミュニティにおける投票者獲得の努力を、若い女性に向けることになった。

 1990年の始めには、オリンピア、ワシントンおよびワシントンDCで、ライオット・ガールの運動がはじまった。それは女性に彼女らの声と芸術的な表現を掌握する力を与えようとした。その社会的政治的問題とのつながりに、フェミニズム第三波の始まりを認める事ができる。この運動は思春期の少女の立場を中心において彼女らを激励した。それはDIY(DO IT YOURSELF)哲学−倫理に基づいていて、自足と自己信頼から、産業に反対して、全てのプロダクションを自分たちでやってのけようとするものだった。ライオット・ガール・バンドはしばしば、レイプや家庭内暴力、セクシャリテイなどを問題にした。この運動に関係したいくつかのバンドには、ビキニキル、ホール、ブラトモビル、トイランドのベイビーたち、ハギーベア、フィフスコラム、チームドレシュなどがある。サブカルチュアの一面もある。
 ライオット・ガールズは会合を開き、支部を発足させ、音楽者である女性の組織つくりの助けをする。

 1991年、アニタ・ヒルはクラレンス・トマスをセクシュアル・ハラスメントで非難したが、トマスは否定し、長い討議の後、トマスは52−48で無罪になった。その後トマスは、米国最高裁の判事に選ばれている。フェミニストに多少でも共感する人々が、この男性びいきに固まった一連の事件に憤慨した。

 レベッカ・ウオーカーは、この事件への反応を『第三波のフェミニスとになる』という記事で著したが、その中で彼女は『私はポスト・フェミニストではなく、第三波のフェミニストだ』と宣言した。ちなみに、レベッカ・ウオーカーは、著名な黒人作家で、自身第二波のフェミニストであったアリス・ウオーカーの娘である。

 第三波のフェミニズムは、第二波のフェミニストたちの達成したより大きな経済上、職業上の身分、20世紀後半の情報革命のもたらした知識や思想の普及機会のとてつもない拡大などによって可能になった。

 この新しいアプローチの帰依者の若干には、文字通り第二波のフェミニストの娘たちがいる。1997年の「第三波ファンデーション」「第三波直接行動団体」は、ジェンダー、人種、経済、社会正義上の諸問題に取り組む個人やグループを支援するもので、前述のレベッカ・ウオーカー、ジェニファー・ボームガードナー、エイミー・リチャードは『マニフェスタ』の共著者である。ともに組織された第二波フェミニストグループに所属した。家庭内における性差による労働の分類そのほかに眼を開かせた母親が、立派な後継者としての娘を育てたのである。

 『女性の年』1992年には4名の女性が米国上院に選ばれて、既に存在した2名に合流した。特別選挙でさらに1人が選ばれ、上院は7名の女性議員を抱えた。1990年には法務員総裁と、国務長官として最初の女性が出現し、最高裁には2人目の女性判事が出た。米国のファーストレデイ、ヒラリー・クリントンが、独立した政治、法律、重役、アクチビスト、公務にわたるキャリアを実践した。しかしながら、フェミニズム第二、第三波で支持された修正案、両性の平等権は、未だ実現されていない。

 こうして、フェミニズムの進化を、米国を中心にみてきた。が、実はこの原稿を書いている2014年現在、第三波は既に大きな業績を上げてきたものの未だに進行中であリ、驚くほどの女性の活躍が多くの分野で達成されつつある。そしてオバマの言うとおり、まだ真の平等は実現されていない。

 もうひとつ特筆したいのは、この運動のおかげで、女性の抑圧問題が人種問題にも、そして男性にも及び、フェミニズムというより、ジェンダーの問題として論じられるようになった事である。

 次号では、眼を見張る女性リーダーたちの活躍を、現今のアメリカを中心に追って行く予定である。

 (筆者は米国ニュージャージー州在住・翻訳家)


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