【オルタの視点】

シールズとは何か

元山 仁士郎


 「おまえ誰だ」という方もいらっしゃると思うので、自分がどういう者なのか、どういう立ち位置にあるのか、どういうふうに SEALDs に関わったのかをお話しします。SEALDs とは何か、ということですが、これは本当に SEALDs のメンバーひとりひとりが違う見解を持っていると思うのです。その中で、自分が話せることとか、事実関係のようなものをお話ししたいと思います。

 また、SASPL という特定秘密保護法のことから、SEALDs (自由と民主主義のための学生緊急行動)として動いていること、そして自分は沖縄出身で、沖縄の学生と一緒に立ち上げた SEALDs RYUKYUという団体についても話したいと思います。

 それから、今後のことで、市民連合という団体があるのですが聞いたことのある方はどのくらいいらっしゃいますか? ・・・半分ぐらいの方が聞いたことあるということですが、先日、野党共闘をするということで、中野のゼロホールで市民連合のシンポジウムがありました。学者の人、SEALDs のメンバー、総がかり行動実行委員会の高田健さん以外にも、議員の人もいらっしゃってスピーチをしてもらって、民主党、維新の党、社民党と共産党、生活の党は残念ながら来られなかったんですけれども、4党で野党共闘できました、というような報告と、これからの参議院選挙に向けて、安倍政権を打倒したいという抱負を語られていました。市民連合と SEALDs がこれから取り組んでいくことについてもお話ししたいと思います。

 私も皆さんから、私や、SEALDs とか、市民連合とかを、どういう風に見ているのかなどを、いろいろ忌憚のないご意見とともに賛同する発言でもあるいは「ここはどうなんだ」「こうした方がいいんじゃないか」など、ご意見をお聞きしたいと思います。

 自分は1991年に生まれました。ちょうどベルリンの壁が崩壊した後に、ソ連が瓦解というか、解体された年に当たりますが、冷戦が終わったといわれる年になります。沖縄の宜野湾市という、ちょうど1月に宜野湾市長選挙があったところで、普天間基地、いまニュースでもよく取り上げられていますが、移設先が辺野古と日本政府に言われている基地がある街で生まれ育ちました。数字で言うと、宜野湾市の約25%を普天間基地が占めているという街で育ったということで、フェンスのすぐそばで生まれ育ちました。今は国際基督教大学(ICU)で、立憲主義という、SEALDs でもよく「憲法を守れ」というコールをしていたのですが、日本国憲法と国際人道法という、国際法と基地を維持させている日米地位協定、日米安全保障条約について学んでいます。

 なぜ関心を持ったのかというと、まず沖縄での体験があります。自分の父方の祖父はアジア太平洋戦争に従軍していて、マレーシアとかフィリピンなど、東南アジアで戦闘に参加していました。イギリス軍の捕虜になり、一命を取り留めて、日本に戻ってきたのですが、小学校ぐらいまで一緒に住んでいました。畑仕事とかに連れて行かれて、にんじんを取ったり、マンゴーを取入れるのですが、そのときに、彼の体に銃痕、銃弾の痕があったんですね。貫通していたり、体の中にまだ(銃弾が)入っているような痕がいくつかあって、そういうものを見る機会がありました。「おじいちゃん、何これ」と、触れる機会もありました。すごくえぐれていたり、やけどのあとのようにグロテスクで、何か気持ち悪いなっていう印象を受けていました。おじいちゃんは、「これは自分が戦争に行ったときに受けた傷なんだ」ということを話していて、そのときは、戦争っていうことは、今よりもわかんないですし、「こういうグロいものなんだ」「気持ち悪いな」「こういう体の痕に残るんだな」っていうような印象を受けたのを覚えています。話を聞くというよりは、身体的なところから、戦争に対するイメージが入っていったというところがあります。

 母方の祖父母は、沖縄戦の体験者で、おじいちゃんに関しては、鉄血勤皇隊ってご存知の方も多いと思うのですが、鉄血勤皇隊は南部の方で、那覇や糸満のあたりで従軍していた通信部隊ですが、もうひとつ、北部の方、名護や辺野古、本部のところとか、やんばるっていうんですが、山がある地域のゲリラ部隊として従軍していたんです。護郷隊っていう部隊がありまして、山の中にゲリラ部隊として、スパイ活動も行っていたと。直属の上の部隊は陸軍中野学校なんですね。その部隊の下で、沖縄ではスパイ活動を行ったり、ゲリラ部隊として、山にこもって、山を上がってくる米兵と撃ち合っていたと話していました。

 これを聞いたのは大学1年生の頃、2012年の頃なんですけど、護郷隊という部隊に入っていて、戦闘に参加していたということです。おじいちゃんはいま87歳なので、17歳、16歳の頃に徴兵されて、護郷隊に入って、戦ったということです。いろいろ話はあるのですが、自分の中でインパクトのあるエピソードとしては、学校がまるまる徴兵されるので、となりで友だちであった同級生が撃たれて苦しんで亡くなっていった。そのとき、軍国教育が行われていて、軍隊でも隊長から「天皇陛下万歳と言って死ぬんだ」と習ったけれども、誰もそんなこと言う人はいないんだ、と。「おかあさん」、沖縄の言葉で「アンマー」と言うんですけれども、「アンマー、アンマー」と言いながら、死んでいったっていうことを、おじいちゃんは話していました。

 あるいは、昼も夜もないくらいだったと。昼は太陽で明るいのですが、夜も沖縄の本島を囲むように、米軍の艦隊があって、艦砲射撃がすごくて、それぐらい明るかったっていうことを、エピソードとして話していました。艦砲射撃であったり、空爆にあって、いっしょに戦っていた上官であったり、同級生の体とかが吹っ飛ぶところとかも見ていたと話していて、ほんとにどういうことか、あんまり想像ができないんですけれど、それをすごく遠くを見つめながら語る彼の表情は—まだ存命ですが—ずっと忘れることはできないだろうな、って思っています。

 他にも、おじいちゃん、おばあちゃん以外にも、小学校、中学校、高校を通して、6月23日の慰霊の日は、沖縄では公休日ですが、その日の前に、平和学習があって、ひめゆりの塔に行ったり、平和資料館に行ったり、あるいはガマに行ったりということをしながら、沖縄戦の体験者の話を聞いたりということをしていました。そういった場所に行って、見たりしたことも覚えていますし、戦争体験者の話を体育館の中で聞いて、沖縄の6月は梅雨の雨が降って、じめじめしていて、体育館も蒸し暑くて、正直そのときは「だるいな」「早く終わんないのかな」という感じでしか聞いていなかったんですね。今思えば、もっとちゃんと聞いとけば良かったなと。そのときは単なるルーティンというか、毎年ある年中行事としてこなすという意識が強かったです、正直なところ。そういった戦争体験の話とか、自分のおじいちゃんとの触れ合いっていうものがあって、自分の戦争に対するイメージがつくられていきました。でもやっぱり何か、遠いところで、昔あったとか、そういった感じがして、それが基地と結びつくことはなかったです。

 基地をめぐる体験としては、ほんとに家から、2〜3分歩いたら、フェンスがあるようなところで、ジェット機、軍用機があった。横田基地にも配備されるオスプレイが飛び交っていますし、他にも米軍ヘリが飛んでいます。それが、ふつうに家の上空を飛んだり、通っていた普天間高校っていう高校の上空を飛んだりってことがありました。それ以外にも、米兵がトレーニングでランニングをしていたり、今はもう住宅は少なくなっているんですが、自分が小学校の頃は、フェンス越しに米兵の子どもが家族と一緒に遊んでいる姿を見て、すごくうらやましいというか、よくハリウッドの映画であったり、NHKでもありましたけど、そういうアメリカンファミリーというか、そういう温かいものを見ていて、アメリカに対するイメージというものも、フェンス越しではあるけれど、すごくよさそうなものに見えていました。

 また、英会話教室に通っていたのですが、ハロウィンになると、先生が軍属関係であれば、基地の中に入れるんですが、そこで「トリックオアトリート(trick or treat)」と言って、アメリカの文化を体験したり、中で食事をしたり、買い物をしたりとかっていう体験もして、すごく豊かな国だなっていう印象を抱いていました。小学校、中学校の頃のことです。

 一方で、そういう米軍基地に対する反対運動も強いわけですから、そういったものも見ていました。でも何か、自分が沖縄にいた頃に思っていたのは、それでも基地はたくさんあるし、反対運動をしてもむだなんじゃないか、という印象が強かったです。実際に、北部の方に国頭村の安田(あだ)っていう地区で、射撃場が住民の反対運動によって、建設されなかったり、今はリゾート地の恩納村に、都市型施設の建設計画が半分以上進んでいたのに、住民の人たちが座り込んで阻止したりとか、そういった運動の成功例とか、運動で基地をつくらせなかったということも多々あるんですけれども、今そこにある大きなものばかりが目について、そういった基地反対運動の、意味や意義というものは、沖縄にいた頃は、見出せないでいました。「これして何の意味があるんだ」と。日本の国のためで仕方ないんだとも言われていますし、それだったら仕方ないんじゃないかと思っていました。

 2011年に東京に出てきて、19歳ですが、高校は野球しかやっていなくて、小・中・高とずっと野球やっていたのです。高校の5分の4ぐらいは野球に捧げて、白球を追いかけ甲子園に行きたいと思ってやっていました。野球ばっかりやっていて、勉強はそれが終わってからだろうと思っていたので、大学には合格することができなくて、浪人しました。沖縄ではあまりICUって有名ではなくて、たまたま塾にあったパンフレットを手にとって、おもしろそうな大学だなと思って、そこに行きたいと思ったんです。ICUに一浪しても受からなくて、じゃあどうしようかと。他の東京の私立の大学に受かっていたので、どうしようかなと思って上京していたら、それが3月8日で、そのあと、宿探しとか、やっぱりICU諦めたくないから、浪人しようと思って、塾に下見に行ったりしていて、そういうことをしていたら、3月11日になりました。

 14時46分に、そのとき外出していたので、帰宅難民というか、なかなか帰れずに、夜12時ぐらいに下宿先に着いたのですけが、そこでテレビを付けたら、津波が来て、家や、車、あるいは何人亡くなったっていうことが報道されていて、原発が爆発した報道も目にしました。そういった原発事故があって、「何かすごいことが起きてるなあ」「今何が起きているのか分からないまま、大学に行くのも何だし・・・」と思って、もう1浪することに決めました。それまで日本ってすごいいい国だなと思っていたし、全然問題がない国だって思っていたんです。だから、ICUに入って、英語勉強して、海外の貧困とか、環境問題とか、そういったことをやりたいと思っていたのです。でも、原発事故の動向を本を読んだり、記事を見たりして追っていくうちに、「日本も問題だらけじゃん」って思って。原発が爆発して、放射能が今でも降り注いでいるわけですけど、そんなのが何で当時は54基もあるんだって、当時はすごく驚いて、「何なんだこの国は」と。そういった原発の放射能がどういう風になっているのかっていうのも、隠されていたり、あるいは原発ができた背景には、日米での密約があったり、あるいは住民に対して、沖縄も今やられていますけれど、お金でほほをひっぱたくようなことがやられていたり、あるいは、地方で、どこに原発があるの、って言ったら、地方に集中していて、その恩恵は東京であったり、大阪のような大都市が受けているという、そういった構造的な差別と呼ばれているようなものも見えて、すごく沖縄の現状と似てるなと思い、やはりこれはおかしいと思ったので、すごく関心を持って、原発や、あるいは自分の地元である沖縄の基地に目が向くようになりました。

 上京して、実際に住んでみると、自分が沖縄の宜野湾市に住んでいた環境とは全く違う環境がそこにはありました。というのは、先ほども言った、米軍の軍用機が全然、そのときは杉並区に住んでいたんですが、上空を頻繁になかなか飛ぶことはないですし、(沖縄では)朝も夜も飛ぶ日もあるんですけど、そういったこともないし、ジェット機の音で授業が止まることもないし、そういった中で、自分が住んでいた環境とは違う、こんな環境があるんだと。基地がない、米兵がいない、そういう軍用機は飛んでいない環境があるんだっていうのに、じゃあ自分が何であそこに住んでいたのか、あそこは何だったんだろうと考えて、それがまた、原発から基地のほうに関心が向くきっかけになりました。

 3・11以降、脱原発系のデモが街にあふれていて、そういった姿を自分も、歩いているときやバスに乗っているときに眺めていて、やっぱりおかしいと、自分もおかしいと思っていて、同じような違和感を抱いた人が路上にあふれていて、それを路上で言ってもいいんだ、という感覚、印象っていうのもそのときに抱きました。沖縄にいたときは、何の意味があるんだとか、やっても無駄じゃないかってことも思っていたんですけど、東京に出て、やっぱりそういうことをやって、原発やめろと、再稼働やめろということで、発言している姿を見て、そういうことを言っていいんだと思いました。当時、民主党政権で、官邸前に集まった人が、当時の野田首相と直接交渉するようなこともありましたし、民主党も30年で廃炉にする、原発はなくしていくっていうビジョンを示していましたし、そういった変わるんだ、変えられるんだ、っていう印象もすごい受けていました。今の活動にもつながっていくわけですが、背景には3・11で盛んになってきた、社会運動、路上でのデモっていうものが、自分の中では印象に残っていたんだろうなと思っています。

 この経験がやはり、今の SEALDs に参加している原型というか、動機、モチベーションにすごくなっていると思っています。SEALDs については、みなさんも様々なところで見ていらっしゃると思いますが、改めて自分から説明をさせていただきます。流れとしては、SEALDs っていうのは、2015年5月3日に立ち上げたのですが、それがいきなり出たわけじゃなくて、その前に、いろいろ経緯があります。

 ひとつが、特定秘密保護法に反対する学生有志の会です。SASPL って呼ばれているものです。Students Against Secret protection Law の頭文字を取って、SASPL って呼んでいます。英語にしたのは、やっぱり自分たちが見ている運動、一回参加したことがあるデモっていうのは、すごく名前が長くて、漢字が多くて、ださいなっていう、すいませんが、そういう印象があったんです。自分たちは違うスタイルでやっていきたいと。もちろん思いとしては、多々共有しているところがあると思うのですけど、自分たちのやり方でやりたいということで、英語でやりました。それが立ち上がったのが、2014年の1月です。これは、その前にも、自分が通っている大学で、96条の改憲のシンポジウムを企画していたり、あるいは、貧困について、湯浅誠さんという派遣村で活躍されていた方を呼んで、日本の貧困について話を聞いたりもしていました。
 その後に、2013年の12月6日に、特定秘密保護法を考える、学生緊急シンポジウムっていうのをやって、ちょうどその日に、(特定秘密保護法が)可決された日であったこともあり、マスコミの人もすごく入っていて、学生も300人くらい入れ替わり立ち替わりで—そのシンポジウムは学生主体で主催していたのですが—来たんです。それが話題になって、いま SEALDs の顔として活躍している、奥田くんの耳にも入って、で、奥田くんは奥田くんで、彼の通っている明治学院大学で、特定秘密保護法についての、勉強会をやっていたのです。2013年12月4日や5日あたりに。6日は、自分は疲れていて官邸前に行かなかったのですが、官邸前抗議もあって、特定秘密保護法に反対する官邸前抗議ですが、それに奥田くんも参加していて、自分が一緒にシンポジウムを企画していた小林くんも参加していて、そこで二人が官邸前で会って、連絡先を交換して、後日また会おうということで、そこは別れました。その後日また会おうというときに、私も呼ばれて、「やっぱり特定秘密保護法ってどうなのか、廃案なのか、一部修正なのか」っていうところから議論をしました。「やっぱり反対だ」「おかしい」という思いは一緒だったので、「廃案じゃないとだめ」あるいは「一部修正でないとだめなんだ」と突き通すのではなくて、一緒にやっていこうと。そこで、秘密保護法に反対する学生有志の会っていうのを立ち上げました。

 で、何をするのかというのが次に話し合われるのですが、そのときの選択肢としては、シンポジウムであったり、こういう会(講演会)であったり、勉強会を企画していくっていうのが一つ。全部で3つあるのですが、2つめは、ロビイングをすると。議員のところに直接行って、この条項のこの部分をこうしてほしいとか、あるいは、これを廃案に持っていってほしいということで、議員にアプローチをかけていく。で、3つめがデモをやるっていうことだったんです。で、どうしようかと。でも、日本でデモをするって、3・11があって盛んになっていましたけれども、やはりまだ印象が悪い。ロビイングの方がいいんじゃないかという意見もありましたし、もっと勉強しないといけないから、勉強会の方がいいんじゃないかという意見もありました。

 でもやっぱりそれを、こういった会もそうですけど、あるいはシンポジウムをやっても、みなさん、これからもがんばっていきましょう、で終わって、それだけで終わってしまっては意味がないと。それを実際に、可視化させないといけないんだ、っていうことになって、いや、でも可視化させるときに、自分が今まで見たことがあるデモ、参加したことがあるデモは、何かあんまりいまいちだったり、居心地が悪かったと言うことを話したら、じゃあおまえが居心地がいいというデモ、あるいはかっこいいと思うデモをやればいいんだよ、ということをメンバーに言われ、確かにそうだなと。文句ばっかり言ってても仕方ないし、自分がこうやりたいって思うやつを、みんなで話し合う中で、やっていけばいいわけだから、そこはぜんぜんデモっていう手段もあり得るじゃないか。自分がやっていいんじゃないかなと思って、やってみました。ほんとにそのときは、ただ新しいことをやってみたいということだけで、やっていました。

 2014年1月に有志の会を立ち上げて、最初のデモが、2014年2月1日でした。そのとき自分はタイムキーパーをしていて、SEALDs のデモはいつも、サウンドカーというスピーカーを乗せた車を使っているのですが、タイムキーパーをしていて、スピーチをしている人の話を聞いたり、コールを見てて、あるいは、新宿の南口の方で、後ろを見て500人が参加して、人が並んでいるって言う光景を見て、すごい楽しいな、やってよかったな、っていう印象をすごく受けて。そのあとも、2014年5月3日のデモとか、8月2日のデモとか、10月25日のデモに参加していました。そういったかたちで、SASPL は続いていくのですが、6月30日から7月1日にかけて、集団的自衛権の行使容認が閣議決定されるということが起きました。そのときに自分たちは、特定秘密保護法が施行されるときの問題意識として、やはりこれから、ちょっと怖い、きな臭い動きがあるってことは見越していたので、やっぱり情報が隠されていて、何十年前、それ以前もアジア太平洋戦争に走っていきましたし、日本だけじゃなくて、ベトナム戦争にしても、イラク戦争にしてもそうですし、いろんなところで情報が隠されていく中で、「相手が攻撃したんだ」「あいつが悪いんだ」ということで戦争になって、あるいは憎しみの連鎖が止まらないということが起きているんです。そういったことに、日本が巻き込まれる、あるいは、どんどん突き進んでいくのが怖いと、こりゃおかしいと思って、SASPL、特定秘密保護法に対して、声を上げたというわけですから、そこで集団的自衛権の行使容認、日本が他国の戦争にも参加できるということが起きてきて、それに対しても、声を上げるかどうかっていう議論がありました。

 自分たちは、やはり特定秘密保護法に反対するのだから、集団的自衛権まで広げたら、どんどん広がっていて、収拾がつかなくなるっていうことで、集団的自衛権の行使に抗議することを考える、学生有志の会っていうのをまた別につくって、抗議活動をしたり、ICUでもやりましたし、早稲田でもやりましたし、関東学院とか立命館とか、そういったところでのシンポジウムを連続で企画してやりました。それでイシューが出てきたり、アベノミクスのことであったり、集団的自衛権の行使容認に関連する、安全保障のこととか、そういったことをこれから扱っていかなくてはいけないんじゃないか、っていう話が出ていたんです。で、その後、2014年12月10日、特定秘密保護法の施行日をもって、SASPL は解散するのですけが、こういったイシューの広がり、扱う問題の広がりから、もう少し射程の広い、扱う問題の広い団体をつくっていこうということで、12月10日に解散はしたんですけど、翌年の2015年5月3日に SEALDs をたちあげるっていう構想は、もうすでにこのときに持っていたのです。

 でもやっぱり、問題を広げていくのだったら、学生ですし勉強をしないといけない。自分たちの言葉で語るというのが SEALDs 、SASPL のときからのモットーで意識していることなので、しっかり勉強して、自分たちの言葉で、憲法のことであったり、ひとりひとりの生活、経済のことであったり、安全保障について語ろうっていうことで、勉強期間っていうことにしました。

 そうしたら、2014年11月16日に沖縄の県知事選挙で翁長さんが誕生して、その後、12月14日、SASPL が解散した4日後に行われた衆議院選挙では、沖縄だけが、自民党の候補が小選挙区で全員落選するということが起きました。(比例区で当選した)彼らが、辺野古の新基地建設反対、これ以上沖縄に基地をつくらせないっていうことを明言して当選していたにも関わらず、年が明けて、2015年1月15日には、工事が再開されて、資材が搬入されて、そういったことが起きていて、これはもうおかしい、ということで、SASPL をいっしょにやっていたメンバーが、沖縄に行きたい、自分たちも座り込みをしていて、自分たちが培ってきた発信力を活かして、沖縄のゲート前の状況を伝えたいっていう話が、自分にありまして、自分が間を取り持って、1月から2月、3月と、大学では春休みの時に、SASPL のメンバーと辺野古に行っていました。SASPL は解散したのですが、ほんとは勉強するつもりだったのですが、沖縄、辺野古の問題がすごく深刻化されていたので、辺野古に行くことになりました。

 勉強もしながら、辺野古にも行っていて、2015年5月3日に SEALDs を立ち上げました。自由と民主主義のための学生緊急行動っていう名前で、英語だと、Students Emergency Action for Liberal Democracy の頭文字を取って、SEALDs としています。今みなさんは SEALDs ってわかると思うのですが5月3日に「SEALDs 立ち上がりました」って報道したのは東京新聞の1社だけなんです。それくらいマイナーというか、全然注目されていなかった。もちろんテレビのカメラも入っていたのですが、そのときは、別に報道されずに、追々その映像が使われたんだと思います。ほんとにマイナーな団体で、そのあと6月5日から、毎週金曜日国会前で抗議行動をやっていて、その6月の中旬に、長谷部さんと小林節さんら、憲法学者が集団的自衛権の行使容認は違憲だ、安保法制は違憲だということを発言して、人がたくさん来るようになって、あるいは報道ステーションで SEALDs が国会前で抗議行動をしている姿が映って、人が来るようになってということで、どんどん拡大して、8月30日には12万人、それ以上とも言われる人たちが、国会前に集まり、9月14日にもそれぐらいの人数の人が、国会前に集まり、ということがあったわけです。そういった中で、SEALDs がどんどん広がっていったのですが、9月19日には、(安保法制が)可決されて成立してしまったというのが、事実関係です。

 昨年の夏に SEALDs が立ち上がったときの、まだまだ今、成果と呼べるかは分からないのですが、自分なりにやって良かったなと思うのは、SEALDs って東京にあるだけじゃなくて、SEALDs RYUKYU であったり、SEALDs KANSAI、SEALDs TOKAI、SEALDs TOHOKU、っていう全部で5団体、SEALDs の名前を冠した団体があるんです。それ以外にも、学生だったり、10代20代の若者を中心にした団体というのが、全国でたくさんあって、その一斉行動っていうのが8月23日にあったのです。それは宮城県で、あるいは長野とか滋賀とか、愛知県とか、大阪とか、福岡であったり、長崎、熊本、鹿児島、沖縄っていうところで、全国で10代、20代の人が中心となった、安保法制に対する抗議行動を行うことができました。

 実際に2015年8月9日に長崎に行ったときに、学生たち、若い人たちと話してきたのですが、彼らが何て言っていたかというと、自分たちは SEALDs の国会前抗議っていうのを、ツイキャスとかIWJとかの Ustream(インターネットを通じた同時中継)で見ていたんだと。それで、うらやましいなと思っていたと。自分も安保法制に対して、戦争法に対しておかしいって思っていたし、こういう風に声を上げている姿がうらやましいと思っていたと。でもやっぱり、自分の地元ではなかなかできないし、東京だけなんだろうと思っていた。そして、友だちに話したら、いや、おれもおかしいって思っていると言って、じゃあ一緒になんかやろうよ、っていうところからつながってできた団体をNW(エヌダブ)って呼んでいるんですけど、そういった話を聞きました。

 福岡でもYMっていう団体があったり、そういういろんな団体があるんですけど、そういった子たちも、SEALDs を知ってて、じゃあ自分の地元でもそういうことをやろうと、仲間を募って立ち上げた団体がいくつかあるんです。そういった人たちが SEALDs のスタイルをまねて、音楽を使って、BGMを流しながらスピーチをしたり、コールをしたりとか、スピーチと言っても、SASPL のときからやっていますけど、「私」、一人称単数を主語にしたスピーチをやって、それぞれの、地方の実情、歴史的な背景も交えながら、安保法制、戦争法に対して反対していくっていう動きができたというのは、すごいことだなと思って、これだけ広がりがあるっていうのは、自分が関わって起こすことができたっていうのは、すごくよかったなと思っています。

 他にも60年安保とか、70年安保とかをやっていた人たちと話す機会があって、そういった人たちから、SEALDs が出てきて、自分たちの運動が相対化された、すごく参照する対象ができてきたっていうことを言われました。それまでは、多々運動はありましたけれども、これだけ盛り上がりを見せた運動っていうのは、40年ぶりだって言われますし、内田樹さんとか、他の方も言われますが、デモに参加するのは40年ぶりだっていうことを言うわけです。その間も運動はあったと思いますけれど、これだけ大きくなった運動っていうのはなかなかない中で出てきたっていうのは、60年安保、70年安保をやってきた人に対する、「あなたたちは何をしてきたのか」「どういう運動だったのか」っていう総括をしているのか、という問いかけっていうのができたと思いますし、やっぱりここまで進んできた安倍政権が暴走していると言いますか、いろんな強行的なことをやっていることに対して、歯止めがかけられなかった学者に対しても「あなたたちは何をしてきたのか」という問いかけができたのではないかと思っています。

 奥田君のスピーチの中で、いいことを言っているなと思うのが、学者の人はなぜできなかったのか、ということを分析するわけですが、できない理由を探すのではなくて、やるしかないでしょと。できないできないと言っていても、進んでいくわけですし、自分たちもまだまだこれから、未来を生きていくわけですから、少しでも良くしたいですし、良くするためには、今、路上に出て声を上げるしかないんだ、という発言をしていて、そういうことは、学者に対して、やっぱり閉じこもっていていいのか、という問いかけができたんじゃないかと思っています。

 あるいは、学生という身分ですし、学生がここまでやっているのに、学者がやらないわけにはいかないってことで、路上に出てきた先生たちもたくさんいらっしゃるわけです。これも成果なんじゃないかなと思っています。

 一方で、課題というのはいくつかあるのですが、やっぱり今もすごく自分が問題だなと思っているのは、良くも悪くも、SEALDs は緊急行動ということもあって、たぶん60年安保、70年安保、かつての学生運動のような議論であったり、弁論大会みたいなことはやっていないんです。それは一長一短あると思っていて、やっぱりそれをやり過ぎてしまうと、排除され、「おまえのこの考えはだめだ」ってことで、排除されてしまったり、あるいは、すごくイデオロギー的になってしまって、先鋭化していくことがあると思うんです。「民主主義って何なのか」「自由って何なのか」っていう議論はやっていたりしますが、ドイツに最近行ってきた子が、ドイツの子たちと SEALDs について話したと言っていたんですが、やはり言われたのは、SEALDs が言う、「リベラル」とは何か、「ファシストくたばれ」の「ファシスト」って何か、っていうことを聞かれたみたいで、それに答えることができなくて、そういうところの議論がまだまだなされていないし、自分たちの中でもちろん勉強はしていますけど、学生ということもあって、まだまだ不足しているなって思っています。

 良くも悪くも組織的な上意下達みたいなのがないので、それぞれが自分のやりたいことをやっていますし、自分の言いたいことを言っていたりするのですけども、それが、ネットで発信したときに炎上してしまう。叩かれることがあります。それぞれが自由に、それぞれが考えてやってしまっていることが、裏目に出てしまうこともあるので、そのチェックを、するのかしないのか、とか、そういったことも論点としては、あるわけです。今は取材の依頼が来たときは、ちゃんとひとこと言うようにということで取材班というのがありますが、まあそんなに制限はないが、そういったかたちで団体運営がされています。

 沖縄の辺野古基地について、安保法制が2015年9月19日に終わって、11月6日に、辺野古の新基地建設の工事を強行していることに対する声明を、SEALDs との連名で、SEALDs TOHOKU、TOKAI、KANSAI、RYUKYU で出したんです。で、11月14日には、一斉行動ということで、SEALDs を中心に呼びかけてやりました。それがSASPL のときに辺野古に行った子たちが中心メンバーに多かったので、沖縄のことに関心を持って声を上げたというのが沖縄辺野古の基地建設強行への抗議ということです。

 SEALDs RYUKYU については、2015年8月15日に立ち上げました。これもまた、SEALDs という名前にするのか、それとも、他の団体名にするのか、SEALDs RYUKYU にするのか、沖縄にするのかということで、議論があったのですが、RYUKYU になりました。安保法制と辺野古、安保法制だけに反対するのか、それともやっぱり、それと基地はつながっているのだ、結びついているのだということを訴えるのかということで、自分たちは安保法制を最初の頃は前面に出しながらも、やはり辺野古のことも、おかしいってことを言いました。最近だと、1カ月前にあった宜野湾市長選挙で、落選してしまいましたが、志村恵一郎さんという候補を応援することもやっていました。辺野古への新基地建設、普天間の移設というのはだめだ、これ以上沖縄に基地をつくらせてはいけない、ということを明言していたからです。

 最後に、目指すものとして、投票所の設置—投票所を大学に設置したり、あるいは駅構内に設置したりとか、もう少し投票率を上げようということに、主に取り組んでいます。それ以外にも、投票の仕方のパンフレットですが、学生はよく住民票を移していなくて、けっきょく選挙行けないという人が周りにも多いんです。3カ月前に住民票を移せば、そこで投票できるよとか、不在者投票ができるんだ、ということをパンフレットにのせて配ったり、あるいは、争点が何か、ということも自分たちから打ち出していくこともやっていきたいと思っています。

 市民連合が何かというと、SEALDs とママの会、総がかり行動実行委員会、立憲デモクラシーの会と、安保法制に反対する学者の会という、5つの団体がいっしょになって、市民連合という団体をつくっています。野党共闘を主にやっています。一昨日も動きがありましたが、野党でまとまってくれ、それで参議院選挙で野党側がいかに議席を伸ばしていくか、ということで、特に参議院選挙の1人区では、ひとりの候補者を野党から立ててほしい。今までみたいに、あっちは—自民党公明党はひとりでまとめてきているけど、こっちは、民主党も共産党も生活の党も立ってるみたいなことはやめてくれ、と。まとまれば、票数は過半数を優に超える選挙区というのは多々あるのです。なので、そこで選挙協力をして、少しでも1人区で勝っていきたいと。もちろん他の5人区とか、3人区とか、あるいは比例区でも戦えるように、ということで話を進めています。

 昨夏、国会前だけじゃなくて、全国各地で動きがありました。1000カ所以上といわれるところで、ほんとに多くの方が声を上げたのですが、それを議会に反映させるということで、まずは大義はあると思いますし、昨日、早稲田大学の水島朝穂さんが話していましたが、いろんな違いがあるんだけれど、それを残しながらまとまっていくことが重要なんだ。まず、いろいろありますよ、共産党から社民党、民主党、生活の党、維新の党から、いろんな政策の違いはあると思うのですが、その違いは残したまま、まずこの立憲主義や民主主義を破壊している基盤、話し合いの基盤すらない状態で言ってもしょうがないと。まずはそこはまとまって、そこを争点として明確化した上で、これから現政権に対して、対抗していくという方法でやっていかなければならない。なので、今はまとまらないといけない、という話がありました。それを担っていくのが市民連合ということで、いま東京で主にやっていて、支部とか本部とかは設けていないのですが、長崎でも記者会見があったり、新潟でも立ち上がっていたり、大阪でも関西の方でも立ち上がるということで、動きがどんどん広がっていて、他にも「ミナセン」という、「みんなで選挙」の略ですが、その団体で野党協力を進めていきたいっていうこともやっています。

 (演者は国際キリスト教大学学生・SEALDs RYUKYU メンバー)

※この原稿は2月27日に開かれたオルタオープンセミナーにおける講演の記録を演者の承諾を得て起こしたものですが文責はオルタ編集部にあります。


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