【ガン闘病記】(1)               吉田 勝次

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オルタの読者の皆さんの大多数は団塊の世代あるいはそれ以上の世代だと思
いますので、高校時代に『蛍雪時代』という受験雑誌を読んだことがあると思い
ます。『蛍雪時代』の受験体験記の特徴は、大学合格者だけを掲載し、浪人の声
はいっさい載せていなかったことにあるように思います。要するに、どんなにお
もしろい体験記でも、合格できなかった受験生の話など高校生は鼻にもかけなか
ったのでしょう。ちょうど2年前、2005年1月に腎臓癌に侵された右腎臓を摘
出した私など、術後5年生存を、癌という難関を克服しためどとするならば、ま
だ闘病生活を始めたばかりで、途中であなどれない敵である癌にたおされて、結
局この原稿はなんの役にもたたないという可能性があります。だから加藤宣幸氏
から原稿を依頼されたときも受けるべきか受けざるべきか悩みました。ですから
読者のみなさんには私の体験記などあまり役に立たなくなるかもしれないとい
うことをご理解のうえ、ご一読いただければ幸いです。
 
癌とは北朝鮮の平壌のようなものです。巨大な凱旋門、そびえたつ主体タワー、
轟音をひびかせる戦車隊、大地をゆるがすようなデモ隊の絶叫、これらすべてが
偉大な指導者の不滅・不敗をたたえています。この舞台の下で人々はまさかとい
う懐疑心を魂の底で感じることはあるにしてもけっして口に出すことはできな
い、いやそれどころかやっぱり彼は偉大な指導者だと自分自身を偽らなければ生
きていくことすらできません。兵庫県立成人病センターの古びた建物にしてもな
んとも威圧的だし、高価な医療機器がぎっしり詰まった検査室は怪しい。臓器と
いうパーツの修理については高度の技術をもつ修理工たる医師が患者の前に座
って、X線写真をずらりと並べて何十項目かの血液検査の結果をながめて厳粛に
術後に三年生存率は何%、五年生存率は何%と告知します。専門知識と経験から
いえばおよそたちうちできない医師にそう告げられれば、おそらく例外なくすべ
ての患者はたたきのめされます。
 
この2年間の私自身の闘病は、ある段階以上に進行した癌からの生存はきわめ
て例外的な場合以外にないということを示す医者の言説と、それを支える癌にな
ったらおしまいだという根強い社会意識にしばりあげられながら、もがき苦しみ
ながらその意識と闘い、どこかに光明はないかと右往左往することのくりかえし
でした。いまようやく穏やかに2年を経過して、ひょっとしたらこれは生還でき
る手がかりを持ったのではないかと感じ始めている理由は、「癌とは生活習慣病
である」という日野原重明氏の定義そのものにあるように思います。癌が長年に
わたるゆがんだ生活習慣の結晶だとするならば、癌との闘いに勝利するための王
道は、このゆがみを徹底的に正すこと以外にありえないからです。この場合に、
勝利とは癌が完全に消失することだけではありません。癌細胞がある状態で自分
の身体と共存して暴れなくなり、寿命にかぎりなく近づいて生きていくことがで
きればそれもまた一つの勝利だと考えています。
 
順次この闘病記では私自身のゆがんだ生活習慣をどのように正そうと闘って
きたかを紹介していきます。まず第一に、仕事について。朝から晩まで土曜、日
曜もなく研究室に閉じこもって仕事をするスタイルを命が大事だとするならば
断然やめること。こう決心しました。この際大きな励ましになったのは「お父さ
ん、般教(ぱんきょう)なんてお父さんが考えてるほど学生は身を入れて聞いて
ないよ」という娘の声でした。ともかく5年生存するまでは研究活動は断念する、
講義は最低限度で徹底的に手を抜く、校務はサボる、こういう方針で過ごしてき
ました。

 これ以上この問題を書くと勤務している大学から相当文句が出そうなの
でひかえさせていただきます。ただここでも役にたったことは、癌はまず治らな
いという根強い社会意識が同僚の教員にも浸透していたことでした。会議をさぼ
っても、手抜きをしても「あいつはもう先がないから」ということで、ほぼ100%
同僚のみなさんが寛容に接してくれたのです。ある女性の講師に術後校内でばっ
たり会ったとき、彼女は驚いたような顔をして、「あら、先生……」。そうです。
僕はどっこい生きていました。彼女はおそらく意識のなかで私をすでに殺してい
たのです。もちろん、こんないいかげんな勤務姿勢が許されるのは私が地方の県
立大学の教員であるからであって、町工場で働く労働者や職員の場合にこうはい
かないことはよくわかっています。その意味からも私の闘病記はけっして一般性
をもつものではありません。

実をいうと術後、休職を真剣に考えました。手術のショックは予想以上に大き
く、4月からの新学期に90分の講義ができるか自信がありませんでした。しか
し、なんとしても学生との結びつきを切りたくありませんでした。授業は私の生
きがいそのものでした。後期にふりかえられる講義はふりかえていただきました。
車で20分ほどのところで行う三学部合同の一年生相手の講義のときは、妻に車
で教室の下まで送ってもらい、そっと倒れないように2階の教室に入りました。
大学の講義とは研究者が仕事の舞台裏を見せるものだと考えている私には、総合
講義の準備のほうが学部や大学院のゼミよりも手間のかかるものでした。しかし
やむをえません。この2年間手抜きして、過去の著作を一回一回説明するという
安直な方式で講義をしてきました。講義やゼミは私に生きる勇気を与える精神的
糧とでもいうべきものでした。

ゼミ生や院生に病気のことを隠さず「告知」したこともよかったと思います。
社会人大学院生の徐氏は、朗らかに「途中で逝ってもたらどうしよかと思った」
と笑い飛ばし、台湾から通いで博士論文の執筆に来ることを予定していた王さん
は、いろいろ考えるところはあったことは想像しますが、4月には高い月謝を払
って大学院に籍をおいて下さいました。彼らは私に「大丈夫ですよ、吉田先生。
頑張って下さい」と無言のエールを送ってくれました。私の場合には、研究は断
念し、教育は工夫して最小限度に抑えながら、学生との接触という生命線は残し
ておくという選択をしました。この選択は私の精神を深いところで安定させ、心
身のエネルギーを高めるうえで大きな効果があったと思います。
 
第二に、運動について。仕事人間だった私にとっては、運動などというのは遊
びの代名詞でした。しかし今は違います。2年前の春から朝晩2時間以上散歩を
して体調をととのえています。大学の裏に自宅があることはさいわいでした。朝
坂道をゆっくり20分ほどかけて下り、桜の木が植えられた一周400mほどのグ
ランドを5周まわり、30~40分太極拳や気功を楽しんで、そしてまた20分かけ
て坂を上り、帰宅し食事します。気が向けば大野川沿いに姫路城の裏手の公園に
まで行って体を動かし、帰りがけに大学のグランドを何周かして帰宅します。闘
病日記をつけてちょうど今月で大学ノート21冊目になりましたが、数えてみる
と昨年末まででグランドを5000周歩いたことになりました。距離にすると2000km
です。グランドへの往復も入れるとおそらく術後4000km歩いたことになります。
グランドのことなら何でも知っています。あそこに空き缶が落ちている。
 
 ここのベンチの板が一枚はがれている。この芝生は枯れかかっている。グラン
ドを囲む小高い丘「八丈岩山」や「行者の塔」山ともなじみになりました。春夏
秋冬の桜の木の変化、芝生の色合いの変化、丘の緑の季節の移り変わり、土の中
の虫をついばむヒヨドリの群れで冬から春への変化をいち早く感知するなどの経
験は私の人生で初めてのものでした。元気なときには自然のこうした豊かな変化
などほとんど気にかけずに雑誌を読みながら走り回っていたかと思うと、人間変
われば変われるものです。最近は季節の変化、一日の温度変化、雨、風、雪など
の気候の変化などに体が微妙に反応し、調子がよかったり悪かったりすることが
よくわかります。私には癌がたしかにあります。しかし、自然のこうした豊かな
いとなみを感じ取る健康な自分自身がこの2年間に生まれてきたこともわかりま
す。

私は毎日の散歩を通じて自分の生活習慣を大きく変えることにつとめてきました。
そのことはすでに、癌からの生還の是非とかかわらず大きな成果を上げているこ
とを実感しています。
ついでに自慢話を一つさせていただきます。委細は出版ののちということにさ
せていただきますが、この春、春秋社から私が監修して私の教え子の王さんが演
技する太極拳の本をDVD付きで出版いたします。この話を友人にすると、まち
がいなく、まさか、と驚きの声を上げます。生真面目だけがとりえで国際問題を
勉強してきた私が、64歳になって太極拳の本を出版するなど2年前にだれが予
想したでしょうか。私が主宰する太極拳・気功教室もまる1年経ち、毎週1回、
30人近い病気に苦しむご年配の方々が集っています。この辺のところはあらた
めて書かせていただきます。私が太極拳と気功を始めたきっかけは、毎日毎日グ
ランドで散歩をし、柔軟体操をしているときに声をかけて下さった中国の体育教
師王さんとの出会いでした。
 
第三は食事です。私の食事はともかく「早飯早糞芸のうち」という言葉どおり
でした。結婚当初、妻が台所で二皿目の料理を作っていると、ご飯も一皿目も全
部食べ終わって雑誌を読むので妻はいつもおかんむりでした。それがどうでしょ
うか。この2年間、玄米菜食を徹底的にやってきました。食事という生活習慣の
基本中の基本を変えないかぎり癌とたたかえないということは、癌の生還者の話
を聞いたり、手記を読むとよくわかります。おそらく8割、9割の生還者は玄米
菜食で食生活を根本的に変えたと思われます。理屈は簡単明瞭でした。玄米には
すべての栄養素がある。癌細胞と正常細胞が栄養素を奪い合うとき、ぎりぎりの
量しか提供しなければ正常細胞が勝つ。

玄米は消化が悪いので消化器官がよくはたらき、副交感神経を刺激し免疫を高め
る等々です。こんな理屈よりも大切なことは、三度の食事という生活習慣の中心
に根本的な変化が持ち込まれて家族が私の闘病に全力をあげて協力するという深
いきずながつくられるということにあります。
1年8ヵ月玄米菜食を続けて効果はたしかにありました。88歳の義母のあれほど
質の悪い便秘が嘘のように治り、盛り上がっていた顔面のほくろが消え始め、妻
の肌は本人も鏡を見て歓声を上げるほどすべすべになりました。当然私の体内も
すみずみまでほくろが消え、すべすべになっているにちがいありません。
 
 この闘病記は妻と交互に書くつもりですので、おそらく玄米菜食については、
炊き方からレシピにいたるまで妻がみなさんにご報告すると思います。10年間
も癌と闘いながら陽気に診療所を経営する甲子園口のI医師に、「吉田さん、腎
臓癌は絶対いい水を飲まなきゃダメだ」と喝を入れられて水汲みに出かけるよう
になりました。1年半、月1回兵庫県の中部にある姫路から70kmほどの千種
高原にラドン水を汲みに妻と出かけています。水のいいことはまちがいありませ
ん。だがもっといいことは、往復6時間、妻と一緒にドライブです。新婚時代の
こと、子供が小さかったときのこと、好きな歌などをぐちゃぐちゃしゃべりなが
ら月1回遠出することは私に大きな精神的エネルギーを与えるものでした。
 
与えられた紙幅が迫りましたので、今回はこの程度にさせていただきます。こ
う書いてみると私自身の闘病哲学とでもいうべきものがいま見えてきたように
思います。生活習慣を根底から改めることとは、癌と闘う心身のパワーを自分自
身の内面に創りあげることだということを意味しているように思います。散歩と
太極拳によって心身ともに癒され鍛えられています。食事によっても心身ともに
癒され鍛えられています。学生諸君には申し訳ないのですが仕事を手抜きするこ
とによって緊張から解放され心身ともに癒されています。癌に苦しんでいる方、
難病に苦しんでいる方にどこまで参考になるかはわかりませんが、連載を始める
にあたって、次のような話をご紹介させていただきます。人々がタゴールのもと
にやってきてこう問いかけます。

 「私を向こう岸に渡して下さい」。タゴールは答えます。「海は波立っている。
しかしここには、われわれの到着をまっているむこう岸がある。ここにはこの永
遠の現在がある。むこう岸は遠く離れているのではないし、別の場所にあるので
はない」。彼が言おうとしていることは、希望は足元にあるということだと思い
ます。2年間よき家族や兄弟姉妹に励まされ、よき友人知人に励まされ、自然の
息吹を存分に吸うことによって、私は癌と闘う希望を見出したかのように思いま
す。もちろん敵は難敵です。これから紆余曲折があることも覚悟しています。
しかし、その都度足元に希望を見つけようという覚悟はもうゆるぐことはないと
思います。(2007年2月18日)
                   (筆者は県立姫路工業大学教授)

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