【コラム】中国単信(25)

どこに向けたらいいのか分からない怒り

趙 慶春


 さすが「大国」中国、世間をあっと言わせるニュースには事欠かない。大臣級官僚の汚職逮捕、マナー問題、食品安全問題、空気汚染、爆買い、不動産バブル、化学工場での大爆発、株価暴落と景気後退・世界経済への波及等々である。そして今回の日常生活でのありふれた一部分となっているはずのエスカレーターで起きた悲惨な事故。
 母国からの明るいニュースを待ち望む筆者の口から飛び出すのは、「またか」「何をしているんだ」「なんとかしろよ」という嘆き節である。

 今回の事故を受けて、中国の一般庶民が自己防衛に躍起となるのは当然だろう。そのためエスカレーターに乗る時は慎重に確認してから乗ろうとする(写真1)のは理解できるが、(写真2)と(写真3)は日本では考えられない。かりにこのような乗り方をしている人を目にしたら、すぐさまエスカレーターの運行は間違いなく止められる。危険この上ないからである。

(写真1)画像の説明
(写真2) 画像の説明
(写真3) 画像の説明

 一方メディアは、ここぞとばかりに海外の事例を引き合いに出して、中国の「後進」性を盛んに喧伝していた。
 ところがこの手のある番組で、司会者の「自分も何回かエレベーター事故に遭ったことがある。エレベーターの扉が開いたら床が胸あたりにあった時は、とっさに自分からはい出した。中国で生活するならこうした状況に順応するしかない」という言葉には激しい怒りを覚えた。メディアには「啓蒙」という役割もあるはずで、これでは“諦めのすすめ”をしているようなものであり、あまりにも無責任と言うしかない。

 どこにも持って行きようのない怒りを感じつつ、今回の連続エスカレーター事故をメディアの報道に基づいて見ておくと次のようである。

・7月26日の武漢での事故。
(1)上りエスカレーター降り口のステップ床に固定されている金属パネルが緩んでいるのをショッピングモールの従業員が事故発生5分前に発見。
(2)従業員はマネージャーにすぐ連絡を入れる。マネージャーの適切な指示の有無は不明。処置としてエスカレーター降り口で、パネル不具合を発見した二人のスタッフが見張る。
(3)やがて子連れの女性が上って来る。
(4)スタッフは女性に「パネルが不具合」の警告を出すも、女性はかなり上がってきていて戻れないと判断。子どもを抱き上げて緊急事態に備えようとした。
(5)女性が降り口のパネルを踏んだ途端、パネルが一気に崩落。女性は体勢を崩しながら、子どもを前に投げ出す。子どもはスタッフに救助され、女性は落下して死亡。

 事故原因はメンテナンス後のパネルのネジ締め忘れだったことがすぐ公表されたが、この事故の模様は監視カメラの映像としてインターネット上に流れ、日本を始め世界に拡散した。
 なぜすぐエスカレーターを停止させなかったのか。なぜエスカレーターの乗り口で利用を止めなかったのという声があがったのは当然なのだが、事故はこれで終わらなかった。

・7月27日の広西での事故。
子供がショッピングモールのエスカレーターに手を巻き込まれ、左腕を部分切断。

・8月1日の上海での事故。
ショッピングモールの男性清掃員が武漢での事故と同じくエスカレーターの足場固定パネルの上に立って、運転中のエスカレーターをモップで掃除中、突然崩落し片足を切断。

 驚くべきことに8月2日までの僅か20日間に全国統計によると、エスカレーター事故での死亡者が6人にも上ったという。各テレビ局が競って特番を組むのも頷ける。ところがこの特番の内容がまた問題と言えそうである。
 今回の事故はネジの締め忘れという単純なミスからだった。しかし安全管理という面では重大であり、中国ではあまりにもこの安全管理がお粗末だと言える。そしてその後の対応のミス。ここでも顧客への安全保守の意識があまりにも希薄だったと言える。
 ところがどの特番も真正面から「働く者の仕事に対する責任感」を取上げることがなかった。番組では「賄賂まみれの役人の腐敗こそ手抜き工事の元凶」「政府の政策、監督、検査の不備」「経済システムの不備」を挙げて、政府や政策に事故原因を押付けてしまっていた。

 象徴的だったのは、司会者がエンジニアである自分の父親を例にして、家で設備に故障が起きると父親はすぐに修理に取りかかり、徹夜してでもやり終えるという職人気質を取り上げ、それを「脅迫症」だと批判的に紹介していたことである。
 これを聞いた筆者は自分の耳を疑った。すばらしいお父さんではないかと思ったからである。故障が起きたら、それを修理するのは自分の責任と、徹夜してでも直そうとする気持ちこそ、実は今の中国人に欠けているのだ。一人一人が自分の仕事に責任を自覚し、きちんとやり遂げることが生活の基盤という認識があまりにも欠落していると言える。
 自分の責任を自覚し、それをやり遂げようとする行動を「脅迫症」などと決めつけるのではなく(たとえ自分の父親であっても)、むしろそうした父親を尊敬し、見習わなければならないと司会者が紹介した方がどれほど、今回の無責任体質から生じた事故を減らすのに役立ったことだろう。

 武漢の事故から一週間後、今度は上海で同様の事故が発生した。テレビ報道によると「エスカレーターを停止して、清掃すること」という規定に清掃員が違反した事故と決めつけていたことに、筆者はまたもや怒りを覚えた。なぜなら原因究明・再発防止、全面点検義務などを怠けた国・運営会社の責任を不問にするばかりか、規則遵守を管理・監督する会社や上司の責任も棚上げにして、事故の責任をもっぱら事故にあった清掃員のみにおしつけて平気でいられるからである。
 今度の一連の事故では、あらためて中国人の安全性に対する意識の問題が浮き彫りとなった。広西での事故は明らかに直接の原因は親の注意不足にあった。ただ国民の安全性への意識は国の啓蒙教育や企業の公益性安全への努力にも大きく関わる。日本ではごく当たり前になっているエスカレーターでの「小さいお子様お連れのお客様・・・」「よい子の皆さん・・・」という「音声放送」を少なくとも筆者は中国で一度も聞いたことがない。安全性への意識も決して個人的問題だけでは済まされない。

 もう一つの怒りは(写真2)と(写真3)を眼にした時だった。
 この2枚の写真、どう解釈すればいいのだろう。自己防衛? 政府やエスカレーター会社への無言の抗議? それとも単なる遊び心? おそらく第3番目だろう。
 この2枚の写真のパフォーマンスは中国の「集団忍耐力の強さ」という国民性を表しているとも言える。中国人は個人的な不平、不満に対する忍耐力はほとんどない。すぐ反発、反抗、自己主張するのはそのためである。だが不特定の多数、あるいはグループや集団に不条理なことが生じても、その不条理が皆に「平等」であるため、あまり反発や反抗はしない。例えば、順番待ちで列に並んでいる時、割り込み者には必ず注意する人が出てくる。ところが何らかの理由で順番待ちが意味を失ったとき、待っていた人が全員意味を失うという「平等性」から、不平、不満は抑えられてしまう。
 今回の事故も同様である。身近なエスカレーターでの事故だが、確率的には自分への可能性は低く、強い反発は生じにくい。かくして死者まで出ているにもかかわらず、遊び気分のパフォーマンスがでできてしまう。要するに他人事なのだ。
 大気汚染、食品の安全性、そのほか生活に密着した深刻な問題であろうとも、みんなが被害者という「平等意識」から忍耐心が強くなってしまうのである。こうした国民性は、真の原因究明と改善への要求と努力を放棄させてしまい、「エスカレーターがダメなら階段があるさ」という目先の「対策」で事を収め、いつまでも根本的な解決や改善ができないままに終わらせてしまうのである。

 中国人は確かに裕福になった。諸外国に大きな影響を及ぼす経済力を持ち始めた。しかし衣・食・住、さらには環境、交通、その他の安全管理面でのリスクは枚挙にいとまがない。これで幸せと言えるのだろうか? 中国人はこうしたリスクを減らし、幸せを手に入れようとする努力をする気があるのだろうか?
 こう考えると、いったい誰にぶつけていいのかわからない怒りがまた沸き上がってくる。
 今回、インターネットから借用した写真を見るにつけ、このようなふざけたパフォーマンスをする余裕があるなら、安全管理とは何かを中国人が真剣に考え、今回のような事故を2度と起こさないように、あらゆる方向から改善策に取り組むことを祈るしかない。

 (筆者は大学教員)


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