■臆子妄論 

ことばの話し―敬語などのこと           西村 徹

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■敬語がおかしい?


 敬語の乱れについて取り沙汰されている。マニュアル敬語がいけないとも言わ
れる。たまに町に出て飲食店に入る。若いウエートレス(今はアシスタントか?)
が「いまお皿のほうお持ちします」と真ん中の「ほう」にイントネーションの山
がくる。たまに聞く若い人のことばは新鮮で外国語を聞くような刺激さえある。
「お持ち帰り」のtake off が米語圏から英語圏になるとtake away に変わるの
を聞くような、ちょっとしたおどろきがある。

 もとは付かなかったところに「ほう」がつくのは最初は慣れないから面食らっ
たが、直ちに納得した。日本語では人称代名詞は直接でなく方向で表すことが多
い。「手前」も「あなた」も「こちらのかた」「そちらのかた」「どちらさま」など。
婉曲表現として古くからある。日本語人称代名詞の、この特徴は弓道六段のイギ
リス人がそんなことを言うので、なるほどと思っただけで、それまではまったく
気がつきもしなかった。
 
 「ご注文は~でよろしかったでしょうか」と過去形になる。これは英語の
subjunctive(仮定法;敍想法とも)だとすぐ納得できた。学校を出てデモシカの
英語教師になって慌てた。当時の授業はヨコをタテにするだけが一般的だった。
学生が適度に間違えてくれればよいが、間違えてくれないと教師の立つ瀬はない。
なにか講釈を加えるのに打ってつけがsubjunctiveである。さいわい戦後教育で
はsubjunctive moodを中高で教えないらしい。昔は階級国家イギリスの英語を
教えたからsubjunctive moodは大事だったが、大衆国家アメリカに解放占領さ
れてからは大事でなくなったらしい。そういうわけで「よろしかった」もすぐピ
ンときた。
 
 ほかに食う道がなくて教師になったが、動機不純の教師はそれなりに必死で格
好が付くようにタネをあさった。そのにわか勉強のタネ本の一冊に、今では骨董
品だろうが細江逸記という人の『時制の研究』というのがあって、過去形は時制
(tense)であるのみならず法(mood)でもあり、「?徊の過去」というのがある
と書いてあった。It is about the time we had some lunch(そろそろ昼めしどき
だ)などもそれで、過去形を使うとぶっきらぼうでなくなるという塩梅。今は耄
碌してあらかた忘れてしまったが、いっときこんな例文は営業用にいっぱい頭に
詰まっていた。
 おなじことがじつは日本語にもある。昔高校で国語の、しかも敬語法専門家の
教授がこの丁寧語の過去形について話した。古本屋で「これこれの本はあるか」
と訊く。番頭は「さあ御座いましたでしょうか」と立ち上がる。これは現在のこ
とを婉曲に過去形でいうのだ。といったはなしだった。1943年のはなしである。
日本語にも昔から婉曲語法の過去形はあるわけだ。
 
 ちかごろ「お皿のほう」とか「よろしかったでしょうか」について文科省あた
りで敬語の仕分けをし直したりしているらしい。「よろしかったでしょうか」はマ
ニュアルのWould you~やCould I~などからの影響だなどともいう。どうも首
をかしげざるをえない。日本語のまだ十分でない英米人が相手の意向を尋ねると
き、しばしば「~したいですか」などというのはWould youを直訳しているのだ
と納得できる。
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■オヤジ族も似たり寄ったり


 かつて教師時代に私の演習をとりたいが必修と重なるから善処せよと学生から
要求があった。結局私の増担で凌ぐことになった。教室会議で教務委員が「Nさ
んが演習をもう一コマ持ちたいというので」と言った。「なにも好きこのんで只働
きを増やしたいのではないが」と、いやな気がした。しかしこの委員は英語学者
だったからwouldが頭にあってのことだろうという気もした。おまけにこの委員
は和歌山の人である。和歌山は民主的だから敬語がないなどといわれる。民主的
かどうかは別として敬語をあまり使わないのは実感上現実ではある。この人の敬
語能力は日本語のまだ十分でない英米人なみなのだ。言語を扱う学問を専門にす
るには条件として不利であろうな。そう思ってそのときは納得することにした。

 しかし日本人若者の「よろしかったでしょうか」は、これとはちがう。ちがう
というより逆であろう。敬語の未熟や誤用ではなく他者に気を使うこまやかさか
ら来るものでさえあるだろう。こまやかな気遣いに発する新しい言い回しに、な
ぜこのように世間は小言をいうのか、そんなことを言わなくても婉曲語法の過去
形で説明は十分ではないか。婉曲語法の言い換えにすぎないボカシなどと、わざ
わざあらためて言うことではあるまい。
 
 「千円からお預かりします」もヘンだといわれる。ヘンはヘンだがそんなにヘ
ンか。千円から代金を引いておつりを出すのだから理に適っているではないか。
そういえばそうだな、おもしろいな、とは思えないか。若者ことばが分からなく
て子供や孫にメールで尋ねることもあるが、私は総じて若者のことばや文化は新
鮮でおもしろいと思う場合が多い。旧来の表現がただ新しいものに変わっただけ
でなく、旧来の語にはないまったく新しい意味を内蔵する言葉もある。私が「な
にげに」を真似て使うと「わかってない」と孫娘に言われる。そう言われるのも
またおもしろい。
 
 いくらお客様が神様だといって、そうそう片っ端から苦情をいうことはあるま
いと思う。関西のしにせの私鉄が「毎度ご乗車ありがとうございます」と車内ア
ナウンスしていた。「毎度」は関西弁だから聞き苦しいと、どこかの馬の骨が言っ
たらしい。馬の骨の言ったことを新聞が記事にした。お客様は神様だから会社は
反論などしないで、そのアナウンスをやめてしまった。「毎度」が関西弁であるは
ずもないが関西弁でもいっこうかまわない。関東資本のスーパーでは余程きびし
いマニュアルがあるのか、かまえて「イツモありがとうございます」と言う。「マ
イド」のほうがまったりマイルドで明るい。人と人の垣根を一息に取り払ってし
まう。「イツモ」は重くて暗くて俯き加減で不景気だ。「マイド」の、あの青天井
に抜けて行くような剽軽の呼吸はつたわらない。「マイド」に抵抗を感じるとはよ
ほど音感の鈍いスノブであるらしい。関東でも八百屋、魚屋、そば屋の出前は「ま
いどありー」だったはずだ。
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■おとうさん、サマ、毎度


 文句を言おうならもっと他にある。もう慣れたが店員が「おとうさん」という
のにはいっとき閉口した。知人の話では医者も若いのはそれを言うらしい。若い
のが言い、年配の医者が言わないのは、この言い方そのものも若いのであろう。
チョー若くはなくてもチョイ若いのであろう。ダンナとかご主人とかご隠居、と
きに大将などと言っていたのではないか。これはもう、まあいいとする。NHK
でも「おとうさん」だから、あきらめるとしよう。

 病院や医院では人を呼びだすとき「なになにサマア」という。医者は直かには
「なになにサン」という。医者は一段格が上だからか。天皇でも大名でも「御所
さん」(ゴッサンと発音する)「殿さん」の上方では「サマ」はさまにならない。
旦那様も「ダンサン」である。「オジイチャマ」などといわれた日には、ぞろりと
尻を撫でられたような気になるだろう。すべて東京一極集中の昨今、これもがま
んするしかない。「ご提供」、「ご説明」と、やたら「ご」を付けるのも重苦しくて
気持ちのいいものではない。「ご説明」は仕方ないとして「ご提供」は本来は謙譲
語を用いて「提供させていただきます」というべきを、手を抜いているのではな
いかという気がする。真宗の坊さんは「お浄土」などというが、私はあれを聞く
とそんなところには行く気が萎える。「お」が付いたばかりに「浄土」のイメージ
が一変するのとおなじく「ご説明」「ご提供」は鼻じろむ。ただし春日若宮の「お
ん祭り」となればなかなか。
 
 「おとうさん」にせよ「サマ」にせよ「毎度」イケナイ説にせよ、気になるの
はかならずしも若者発のものではない。若者発で気になるものを探せば、最近は
少し下火になったが「なんとかかんとかでえ」と、句の切れ目で語尾をやたら気
張ってウンコをひりだすようなしゃべり方をするのがいることだ。けんかを売る
というほどでないが、押し付けがましく駄々をこねているみたいで、まったく非
音楽的だ。自分で自分に相槌打って、いちいち「フン」を入れるのは動物的で滑
稽なだけではあるが、鼻を曲げる年寄りもいるからやめたがよい。「ハイ」と返事
すべきを「ウン」というのは滑稽ではすまない。さらに早くやめたがよい。Yes
でよさそうなときにRightというアメリカ人のようだ。
ちなみに、この「やめたがよい」も「やめるがよい」の婉曲語法の過去形だ。
             (筆者は大阪女子大学名誉教授) 
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