【コラム】
酔生夢死

かくも難しきアリバイ証明

岡田 充

 朝早く目覚めた。モスクワ郊外の安ホテル。ベッドのサイドテーブルに手を伸ばしたが、あるはずの「マールボロ」に手が触れない。重たいまぶたを開けると「ない」。テーブルの上に置いたはずのテープレコーダーも消えている。おかしい。起き上がって持ち物を調べた。

 「やられた」
 鞄の中の2,000米ドルの現金はもちろん、スーツケースに入れたシャツから下着、靴まできれいになくなっている。記者仲間の部屋で酒を飲み、自室に戻ったのは確か午前2時ごろだった。熟睡している間に 、誰かが部屋に侵入し盗んだに違いない。1991年の10月、崩壊寸前のソ連を取材旅行していた時の話である。

 警察に通報すると、しばらくして制服警官が一人で現れた。被害を申告すると、部屋に戻って就寝するまでの時間と状況を詳しく「聴取」された。彼が関心を寄せたのは、「同室者の有無」だった。同室者ってどういう意味?と聞き返すと、「女性を連れ込まなかったか」と、疑わし気な表情で聞かれた。

 もちろん否定したが、まず疑われたことに腹が立った。だが「一人だった」アリバイを証明しなければ気が済まない。旧ソ連時代のホテルには各階のエレベーターホールに、部屋の鍵を24時間保管する「鍵おばさん」がいた。出入りの際は「監視役」のおばさんに鍵を預け、受け取る仕組み。「鍵おばさんに聞けばわかるはず」と答えようとして、言葉に詰まった。このホテルには「鍵おばさん」がいなかったからだ。

 昔話を思い出したのは、学校法人「森友学園」を巡る国会証人喚問で、籠池泰典・前理事長が安倍晋三首相の昭恵夫人から「寄付金100万を受け取った」と証言し、首相周辺の関与疑惑が深まったからだ。首相も夫人も現金授受を否定するが、野党が要求する証人喚問には応じていない。役所から派遣された「秘書」が複数付き、大きな影響力を持つ夫人を「私人」と強弁しても通用しない。証人喚問でも参考人でも、公の場で証言する責任がある。

 首相は「受け取っていない証明は難しい」という。その通りだ。しかし、主権在民を否定した「教育勅語」を、幼稚園児に素読させる教育理念に首相と夫人は共鳴したのだ。首相の歴史観と統治理念のあやしさが改めて浮き彫りにされた。籠池氏とその周辺には「いかがわしい」イメージがつきまとう。だが「寄付金授受」に関する証言は自然だった。

 ホテル盗難事件に戻る。同行した記者の「朝まで皆で酒を飲み一人で自室に戻った」という証言に、警察官が納得したかどうかは分からない。後で警察署に行き被害調書にサインした。帰国してから被害届が受理されたことを知った。盗難保険に入っていてよかった。被害に遭った金品の大半は保険でカバーできたからである。

 吸いかけのマールボロまで持っていった「泥棒」は、着ていたジャケットとズボンにコートだけは残してくれた。ちょうど街に小雪が舞い始めた季節、「盗人の風上」を感じた。そのコートだが、翌年モスクワに赴任した直後、仮住まいのホテルで就寝中に盗られてしまった。

 (共同通信客員論説委員)

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  Abema TV の実況中継から


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