【コラム】大原雄の『流儀』

あたらしい真珠の首飾りのはなし

大原 雄


 今回は、三題噺を書きたい。題して、「あたらしい真珠の首飾りのはなし」。
 まず、以下のことを、皆さん、知っていますか。

 1)「真珠の首飾り」という芝居を知っていますか。

 2)「あたらしい憲法のはなし」という小冊子を知っていますか。

 3)「今年、68歳って、何?」ということが判りますか。

◆ 1)の「真珠の首飾り」は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥(最高司令官)が、大日本帝国から日本国に生まれ変わった非占領国たる日本国に贈ったプレゼントのことを言うらしい。先の戦争で負けた日本は、1945年から1952年までの6年8ヶ月の間、戦勝国の連合国に占領された。「オキュパイド ジャパン」という政治体制があったのだ。GHQとは、直訳すれば、「ゼネラル ヘッド クォーター」であるから、単なる総司令部に過ぎないのであって、何の総司令部か判らない筈だが、それだけで充分に判る、というか、総司令部と言ったら、これしかない。もし他の組織に総司令部があったら、そちらこそ固有名詞を頭に付けて「○○総司令部」と名乗れば良い、というほどの鼻息だったのだろう。正式には、GHQ/SCAP。連合国軍最高司令官総司令部。おっと、横道に逸れてしまった。マッカーサー元帥が日本に贈った「真珠の首飾り」とは、何だ? それは、ジェームス三木原作の演劇に語らせよう。

 この芝居は、17年前の1998年にジェームス三木の書き下ろし・演出の青年劇場で初演された。史実を元に憲法草案作りに関わったGHQ民政局のスタッフの物語。マッカーサー元帥の命令を受けて一週間で草案をまとめた。芝居では一週間の議論と葛藤を描く。芝居は求心力をもたらすために特に女性の人権などの条項を担当したベアテ・シロタ・ゴードンという女性を主軸に据えている。この芝居に拠れば、マッカーサーから贈られた真珠の首飾りとは、新しい日本国憲法草案のことであった。

 1947年から50年にかけて憲法草案作りの軸になったGHQ民政局の関係者の証言を含めアメリカ政府から日本国憲法創成に関する資料が出始めた。それを元に、まず、ジェームス三木は、NHKのテレビドラマ「憲法はまだか」の原作を書いていた。このドラマは、1997年、憲法公布から50年を記念して作られた。このドラマで1945年から1946年当時の日本政府側の人々(松本烝治を軸とする)の新しい憲法制定に向けての動きを書いたものだった。史実を考えれば、このドラマに欠けていたのは、GHQ側の動きであった。そこで、ジェームス三木は、公開され始めたアメリカの公文書を元に史実を踏まえて、新しい憲法草案作りを巡る民政局内部の議論や葛藤を演劇化した、というわけだ。そして、この芝居にタイトルをつける際、「真珠の首飾り」というイメージをタイトルとして発想したのだ。

 何故、新しい憲法草案が真珠の首飾りに例えられたのか。ジェームス三木は、ベアテ・シロタ・ゴードンという女性を軸に据えたからだ、と思う。民政局にはアメリカ人を中心に軍人や外交官、民間人(弁護士、政治学者など)が集められた。当時22歳の、ウクライナ系ユダヤ人の両親を持つ若い女性は、父親の仕事の関係で少女時代を日本で過ごしていて、日本の内情に詳しいからと民間から民政局に参加した。芝居では、ふたりのベアテが登場する。89歳のベアテと22歳のベアテである。史実のベアテも長生きしたが、2012年に89歳で亡くなっている。劇中の老ベアテは元気で、戦争法案審議のため、強行採決をしている現在の日本の政治状況についても、「憂い」を表明しているが、青年劇場からのメッセージでは、この芝居を「今日の情勢に応えるものとして新たに作り直し」という。それは演劇が創り出したエクストラに時空と捉えたい。演出は、板倉哲。憲法条文が芝居になった、稀有な芝居であろう。

 2015年の今年、いわゆる「戦争法案」の軸になって変質されようとしている憲法の誕生秘話を描いているので、過去に舞台を観た時とは、観客の感受性もことなってくると思われる。青年劇場では、1998年の初演以降、2000、2001、2003、2004年と東京で再演を繰り返し、あわせて地方公演も展開し、今回は、戦争法案審議に対する国民の反対運動の高まりという背景を踏まえての上演となっている。

 舞台に目を移そう。芝居は、老ベアテの独白で始まる。お婆さんの独白は、大抵回顧噺だ。

 回顧のタイムマシーンに乗って観客は、1946年に連れて行かれる。舞台は、空襲で焼け野原になった東京の皇居前に残された第一生命ビルの一室。1946年2月4日。

 GHQ民政局(GS)のメンバーが緊急招集された。マッカーサー元帥の指令を受けたホイットニー民政局局長が集めたのだ。局長は、こう言った。「一週間で日本の新しい憲法草案を作ること」。明治憲法(大日本帝国憲法)と、さして変わらない日本側が示してきた憲法草案(そもそも、日本側の草案責任者となった松本烝治は、大日本帝国憲法の骨格を直す意思が全くなかった。松本烝治は無任所大臣で、「憲法改正委員会」の委員長になった)に不満足の元帥は、それに代わる具体的な憲法草案のモデルを作って、日本側に提示することにしたのだ。

 それを受けて民生局のケーディス局次長を中心に陸海軍の軍人、外交官、民間人の弁護士、政治学者など様々なメンバーが選ばれ、草案作りに運営委員会(4人)の他、立法権委員会(4人)、行政権委員会(3人)、司法権委員会(3人)、人権委員会(3人)、地方行政委員会(3人)、財政委員会(1人)、天皇・条約・授権規定委員会(2人)などの各条項の委員会に配属させられた。「このときに集められたGHQの将校は二十五人であった」(保阪正康『占領下日本の教訓』)。

 保阪は、「将校」と言っているが、ベアテのように非軍人のメンバーもいる。あるいは、「文民出身の将校」も含めて、「将校」という意味か。また、委員は一部、複数の委員会を兼務していた。22歳のベアテは、陸軍中佐、学者とともに人権委員会に所属となり、彼女は女性の権利条項作成を命じられた。各国の憲法などを比較検討したり、日本の人権状況を報告したりすることになる。

 一週間という限られた時間での作業、各委員会での討議、条項案の作成、各委員会で作られた案について、運営委員会から厳しいチェックが入る。ポツダム宣言の内容に沿って、マッカーサーが基本方針とした「天皇の地位保全」、「戦争放棄」、「封建制度の廃止」、国連憲章の理念などを盛り込む。条文の構成、文言一つひとつについても、妥協のない白熱の討議が続き、葛藤も生じる。運営委員会の海軍大佐は前文の草案をまとめた。ベアテは、男女の平等を謳った日本国憲法の第24条を起草した。そして、ベアテらが一週間で書き上げたものを日本国民は、70年間も受け継ぎ続け、世界に類ない「非戦国家」として人類の先頭を譲らず、この憲法をそのままの形で使っている。

贅言;この芝居は、憲法第9条とGHQ案の関係をくっきりと表現しているが、たまたま読んだ半藤一利・宮部みゆきの対談本『昭和史の10大事件』では、戦争放棄を打ち出した1928(昭和3)年の不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)と憲法草案との関係、さらに憲法日本文確定に向けて展開された当時の日本の国会論戦の様子などを説明していて、興味深かった。

 日本国憲法の本格的な改正論議は、連合国軍による占領が終了した1952年から4年後の、1956(昭和31)年3月の国会の議事録に記録されている。保守合同(1955年)後の自民党は、一度提出され審議未了になっていた「憲法調査会法案」という憲法改正案を再度提出した(提出者は岸信介ほか)。「憲法調査会法案について」と題する公聴会が開かれる。「第二十四回国会衆議院内閣委員会公聴会 第一号」という議事録が残っている。保阪正康は、この議事録を「どのような立場で憲法を論じるにせよ、もっとも基本になる歴史的な史料といっていいように思う」(保阪正康監修「50年前の憲法大論争」、2007年刊)。

 芝居では、戦争の坂道を転げ落ちて破産した大日本帝国を復活させないためとか、敗戦国日本の民主主義国家としての再建に向けてとか、いうことばかりでなく、人類が持つ最高の理念を生かすような憲法を作ろうという希望へ向けての情熱が描かれるとともに、戦争中の日本が国際社会の中でどのように見られていたかなどもあぶり出される。

 それは、いわゆる「戦争法案」審議を巡る、安部政権による衆議院・参議院での代議制民主主義を形骸化させる強行採決を目の当たりに見せつけられる中で、現行憲法の原点である民政局の草案作りのドラマは、改めて今の憲法が今日持つ意義を痛感させるものであった。この夏、国会周辺を軸に全国各地で繰り広げられた国民のデモ・集会という、選挙権と並ぶ国民の表現の自由活動や各種世論調査の声は、今も、日本国憲法草案作りに情熱を傾けた人々の活動に共感するものだ、ということが良く判る。

 青年劇場では、初演以来「真珠の首飾り」を100回以上も上演して来た。私も何回か観ているが、今回は、今年の9月公演の舞台を観た。その青年劇場からのメッセージは、続く。

 「憲法が今日どのような意義をもつのか、そして未来の日本のありようを、改めて皆さまと考え合いたいと思っています」。

 初夏から国会周辺で顕在化してきた、「シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動)」ら学生の若い世代の声や行動は、私には、「新しい真珠の首飾り」の出現を想起させる。そういう若い世代に対する卑劣な脅迫状(愉快犯であっても許されることではないし、それに匿名で便乗する多数がいる、という社会の嫌らしさ)やそれに同調して、既成権力を擁護するネット右翼らの言動の現状。言論は、脅迫的な文言など使わずに真っ当な言辞でなされるべきだろう。

 シールズ調に言えば「民主主義って、何だ?」。「真っ当な言論だ! 」。少数意見にも耳を傾ける多数派の寛容さだ! とでもなろうか。選挙権とデモ・集会の自由は、民主主義の両輪だからだ。

◆ 2)「民主主義って、何だ?」、「立憲主義って、何だ?」というシールズの問に答えるための、小道具として良いものがある。1947年8月に刊行された「あたらしい憲法のはなし」という小冊子を覗いてみよう。1から15の項目について、説明をしている。その年の5月の憲法施行から3ヶ月後の刊行であった。当時の文部省が主導し憲法学者などが書いたものだろうが、旧文部省の公式文書である。著作権は旧文部省にあるが、既にパブリックドメインになっている。

 中学一年生用の社会科の教科書だから、対象は当時の12歳か11歳。1935(昭和10)年生まれか、1936(昭和11)年早生まれが最初に使ったのだろう。現在、80歳か、79歳におなりだろう。教科書は1950年度には副読本に格下げになり、1951年度まで使用され、1952年4月には、小冊子そのものが発行されなくなった。つまり、教科書としては3年間使用され、副読本としては2年間使用された訳である。

 私が中学校に進学したのは、1959年4月だから、日本国憲法と同年で育ってきた(1946年か、1947年生まれ)私たちの世代はこの教科書とは、もう無縁であった。つまり、5年間しか使われなかった 、いわば幻の教科書である。レッドパージや1950年6月、朝鮮戦争が勃発した(戦争は53年7月まで続いた)ことが、この小冊子の運命に影を落としているのかどうかは、私は知らない。背景として知っておいた方が良いと思うことは「占領期」のことだろう。GHQによる6年8ヶ月の占領期は、前期と後期に分けられる。

 前期は、日本国憲法制定に象徴されるように、天皇制持続と裏表となる「非軍事化と民主化」。後期は、アメリカを軸にした反共陣営、「極東アジアの西側陣営の橋頭堡」(保阪正康「『昭和』とは何だったか」)。この前期後期の分岐点を保阪は、「私の分析では昭和二十四年二月ではないかと思う」(前掲書)と書く。1949年2月である。マッカーサーは、GHQ内部の2つの勢力、GS(民政局・ホイットニー局長)、G2(参謀第2部・ウィロビー部長)のバランスの上に乗っていた、とだけ書いておこう。

 ところで、この小冊子で学んだのは、1947年から1951年までに中学校に進学した世代までである。1939(昭和14)年生まれか、1940(昭和15)年早生まれまで。現在、76歳か、75歳。つまり、75歳から80歳の世代には、教科書なり、副読本なりとして見憶えがあるだろう。パブリックドメインになった小冊子は、その後、復刻され販売もされている。

 小冊子の戦争放棄の挿絵には 戦闘機、爆弾、戦車などを入れて燃やしている黒い大きな釜が描かれ、釜には、「戦争放棄」という文字が書いてある。大量の煙が上がる釜から逃げ出すように電車、客船が描かれ、何故か消防車までが走り出していて、その両脇には輝かしい高層ビルと高い 鉄塔の絵が描かれている。釜の外の光景は、何とも不可思議でさえある。

 憲法3原則の挿絵には、ビルが見える都会の街のむこうの山並みの陰から昇る大きな日の出の絵に「憲法」という文字が書かれていて、太陽に向かって万歳をしているように見える3人の人物(子どものようにも大人のようにも見える?)の黒い影には、主権在民主義、 民主主義、國際平和主義と白抜き文字で書かれている。2枚の挿絵はいずれも、あまり上手い絵とは言い難い。私は先に考察したように、この小冊子を教科書なり、副読本なりを学校で学んだ世代ではない。独特の口調の文章には覚えがない。しかし、挿絵には記憶がある。何故だろうと思って、調べてみた。

 これらの「挿絵」は、実は、1952年以降も、中学校の社会科の教科書や副読本の 中でも使われたという。1947年早生まれの私も、日本国憲法の項目でこれらの挿絵には接していて見憶えがある、という記憶がある。しかし、これが載っている教科書だか、副読本だかで、憲法について どのような説明がなされたのかは全く記憶がない。私の記憶にある挿絵を見たのは1959年だったのだろうか。だとすれば、60年安保の前年。浅沼稲次郎社会党委員長が学生服姿の右翼の少年に暗殺された前年。果たして、教育の場でいつまで使われた挿絵だったのだろう。

 小冊子の本文は長いものなので、ここでは根幹部分のみを引用したい。語り口は子供向けに書いたものなので判りやすい。示唆に富み、今読んでも興味深いので、是非ともじっくり読んでいただきたい。引用文は、読者に語りかける口調に味わいがある、と思うのでそのままとしている。全文は、私が責任者をしている日本ペンクラブ電子文藝館に掲載されているので、私の引用部分以外についても読みたい方は、そちらで読むことができる。

贅言;日本ペンクラブ電子文藝館は、bungeikan.jp/
 日本ペンクラブ電子文藝館のトップページで、「あたらしい憲法のはなし」と打ち込んで検索するか、画面左下の隅にあるテーマ別のコーナーの中の「主権在民資料」をクリックすると出会えるだろう。以下、原文のまま。

    ◇◇◇    ◇◇◇    ◇◇◇    ◇◇◇

   一 憲 法

 みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。
 國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろいろ規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。
 國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。もし憲法がなければ、國の中におゝぜいの人がいても、どうして國を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの國でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。國でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを國の「最高法規」というのです。
 ところがこの憲法には、いまおはなししたように、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。それは國民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、こゝではたゞ、なぜそれが、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。
 みなさんは日本國民のうちのひとりです。國民のひとりひとりが、かしこくなり、強くならなければ、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。國の力のもとは、ひとりひとりの國民にあります。そこで國は、この國民のひとりひとりの力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、國民のひとりひとりに、いろいろ大事な権利があることを、憲法できめているのです。この國民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。
 そこでもういちど、憲法とはどういうものであるかということを申しておきます。憲法とは、國でいちばん大事な規則、すなわち「最高法規」というもので、その中には、だいたい二つのことが記されています。その一つは、國の治めかた、國の仕事のやりかたをきめた規則です。もう一つは、國民のいちばん大事な権利、すなわち「基本的人権」をきめた規則です。このほかにまた憲法は、その必要により、いろいろのことをきめることがあります。こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戦争をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。
 これまであった憲法は、明治二十二年(1889)にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、國民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。
 みなさんも日本國民のひとりです。そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。
 みなさんが、何かゲームのために規則のようなものをきめるときに、みんないっしょに書いてしまっては、わかりにくいでしょう。國の規則もそれと同じで、一つ一つ事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何條、第何條というように順々に記します。こんどの憲法は、第一條から第百三條まであります。そうしてそのほかに、前書が、いちばんはじめにつけてあります。これを「前文」といいます。
 この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。
 それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。いちばん大事な考えが三つあります。それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。それでみなさんは、この三つのことを知らなければなりません。まず「民主主義」からおはなししましょう。

 (略)

   六 戦争の放棄

 みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその國と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

★実は、この小冊子には、「立憲主義」という言葉は出て来ないが、最後の「十五 最高法規」が、それに該当すると思う。

 このおはなしのいちばんはじめに申しましたように、「最高法規」とは、國でいちばん高い位にある規則で、つまり憲法のことです。この最高法規としての憲法には、國の仕事のやりかたをきめた規則と、國民の基本的人権をきめた規則と、二つあることもおはなししました。この中で、國民の基本的人権は、これまでかるく考えられていましたので、憲法第九十七條は、おごそかなことばで、この基本的人権は、人間がながいあいだ力をつくしてえたものであり、これまでいろいろのことにであってきたえあげられたものであるから、これからもけっして侵すことのできない永久の権利であると記しております。
 憲法は、國の最高法規ですから、この憲法できめられてあることにあわないものは、法律でも、命令でも、なんでも、いっさい規則としての力がありません。これも憲法がはっきりきめています。
 このように大事な憲法は、天皇陛下もこれをお守りになりますし、國務大臣も、國会の議員も、裁判官も、みなこれを守ってゆく義務があるのです。(略)
 みなさん、あたらしい憲法は、日本國民がつくった、日本國民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の國がさかえるようにしてゆこうではありませんか。                        おわり

    ◇◇◇    ◇◇◇    ◇◇◇    ◇◇◇

 保阪正康『占領下日本の教訓』という本の中で、保阪は、この本の「六 戦争の放棄」の前半を引用して、次のような感想を書く。
 「その記述の純粋さに驚かされてしまう。このような教育を受けたなら、あまりにも無垢になってしまうのではないかと思われるほどである」。

◆ 3)68歳とは、実は私自身の年齢のことだ。大原雄は、1947年1月5日に母親の実家、福島県伊達郡保原町で生まれた(この地域も、今回の東電原発事故で被曝している)。母親は当時25歳、父親は27歳。若い夫婦は、東京の品川区戸越に間借りして新婚生活を送っていた。私が生まれるというので、母は未生以前の私を腹に抱えて実家に行き、実母の元で安心しながら、初めてのお産を経験したのだろう。彼女が妊娠していた1946年11月3日に、1889(明治22)年公布、1890年施行の大日本帝国憲法が改正されて日本国憲法が公布された。

 大日本帝国憲法下の日本国憲法公布と施行までの憲法制定過程についてスケッチしておきたい。1946年11月から1947年5月までの半年間である。日本国憲法の前文には、次のような文言がある。「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。

 日本国憲法公布は、大日本帝国憲法下でなされている。憲法が定める主権者は天皇ただ一人。天皇が帝国議会の議決を経た大日本帝国憲法の改正を裁可し、これを公布した、ということである。関係閣僚の署名が終わって、初めて国民が主権者となった(対談本、姜尚中・小森陽一「戦後日本は戦争をしてきた」)。新たに主権者となった国民が改めて大日本帝国憲法の改正である日本国憲法について愚論をし、「この新憲法でよい、ということになったら、翌一九四七年五月三日に施行する。この時点で日本国憲法が『確定』します。『確定』という言葉に、大日本帝国憲法における主権者は天皇たった一人だったという状態から、主権者が国民一人ひとりになったという、主権の移譲をめぐる現行憲法の身の証が刻まれているわけです」(前掲書、小森陽一)。

 こうした中、1947年初頭、初めての子である息子誕生から4ヶ月後、東京から若い父親が迎えに来て、私は母親の胸に抱かれて東京に向かった。その年の5月3日、新しい憲法こと、日本国憲法が施行された。従って、私は大日本帝国憲法の下、福島県で生まれ、日本国憲法確定下の5月、東京に転居し、以来、東京で暮らした。つまり、私は日本国憲法と同年ということになる。

 私は1971年、初めて東京を離れた。NHKの記者として大阪に赴任し、4年後、1975年、東京の報道局社会部の記者になった。報道局では、社会部の記者活動の後、報道局特報部デスク、地方のブロック局(東北と北海道管轄)のデスクなどを経て、報道局ニュース7部(当時)・ネットワーク統括(新聞社の地方部長に当たる。日本新聞協会の地方部長会に所属した)などを歴任した。以後は、報道局を離れた。つまり、私は日本国憲法下での報道の自由(国民の知る権利を担保する限り権力からの報道の自由が保障される)を踏まえて東京を含め、各地で記者・デスク活動をしてきたことになる。

 定年後は、ある作家に推薦されて1998年から日本ペンクラブの会員となり、2007年から理事・電子文藝館委員会委員長を務めている。この間、2010年に東京で開かれた国際ペン大会(国際大会は、80年の日本ペン史上、この時が3回目の開催であった)を巡るペンクラブ事務局の不適切な会計処理問題を解明する「調査委員会」(三好徹委員長)の委員の一人に会長より指名され、事務局の不適切な処理問題を解明するとともに今後の防止のための対応策(案)をまとめた。その後、2013年には、3期6年務めた理事を任期満了で退任。1期2年の空白の後、2015年の理事選挙で返り咲き、再び、理事・電子文藝館委員会委員長を務め、いずれも4期目に入っている。報道の自由、知る権利、ペンクラブ内部であっても不適切なことは不適切だときちんと会員に報告する義務について身を持って実践してきたと自負している。

 ジェームス三木流に言えば、日本国民の真珠の首飾りという宝物の最高法規を活用し、「あたらしい憲法のはなし」で誓い合った憲法の精神を改めて学び直したい。明治時代にできた大日本帝国憲法の末期に生まれ、大日本帝国憲法(一度も改正されなかった)の死を看取り、新しい日本国憲法の誕生とともに68年間生きてきた世代として、今のままの憲法の下で暮らして行きたい、と改めて思う。日本国民は、明治期の大日本帝国憲法も日本国憲法に改正されるまで、改正を経験したことがなかったし、日本国憲法も、これまでのところ改正を経験していない。

 マッカーサーの贈り物(アメリカ側は占領期の後半、1950年の朝鮮戦争勃発前、真珠の首飾りのうちで最も大きく光り輝いていた「非軍事化」という真珠を取りあげようとした。1950年6月、日本の再軍備をめぐるダレスと吉田の交渉。当時、経済優先の占領下の政治の旨味を知った吉田茂総理に再軍備を取り敢えず拒否された。後に、吉田はマッカーサーの意向を受けて、警察予備隊の創設などに軍事化に応じるようになる)、「真珠の首飾り」を日本国民として、自分たちの手で磨き上げようではないか。

 「民主主義って、何だ? 」「これだ!」、「立憲主義って、何だ?」「これだ!」 、というリフレインで叫ぶシールズの若い人たち。ここで彼らが言っている「これだ!」は、形骸化した代議制民主主義に替わる、あるいは補完するものとして、直接民主主義のシステムを模索する自分たちの言動を歌い上げている、と思われる。若い世代は、真珠の首飾りをどう受け継いで行くことができるのだろうか。

 (筆者はジャーナリスト、日本ペンクラブ理事。元NHK社会部記者)


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