【書評】

『電産型賃金の思想』

  河西 宏祐/著  平原社/刊  定価/2400円+税

鈴木 不二一


 70年前の8月15日、真夏の盛りの東京では、目に染みるような青い空に真っ白の入道雲が湧き上がっていた。「戦争が終わった!」という開放感とともに、この青い空の記憶は多くの人々に共有されている。

 焼け跡・闇市の広がる混沌の巷で、人々は飢えていた。着たきり雀で、住む家も自由にならない。けれども、人々の視線ははっきりと前を向いていた。明日を今日よりもよくしたいという強い願いがあった。

 1946年4月10日、帝国議会最後の総選挙、男女普通選挙制による最初の総選挙に際して、日本共産党は選挙闘争スローガンの最初の項目に「働かせろ、食わせろ、家を与えろ」を掲げた。破竹の進撃を開始していた労働組合は、資本家の生産サボタージュに対して生産管理闘争を組織し、飢餓突破資金獲得、3〜5倍大幅賃上げなどの要求を掲げて闘った。

 戦後初期労働組合の賃金運動の中で、総選挙の3日前の4月7日に結成された日本電気産業労働組合協議会(電産協)による「電産型賃金」の確立は、さまざまな意味で画期的なものであった。それは「労働者の論理」に立ち、しかも科学的根拠に裏打ちされた賃金構成の設計案を組合独自で作成し、電力10社との統一交渉において要求をほぼ全面的に会社側に承認させ、企業を超えた統一協定として実現した。いずれも、日本労使関係史上はじめての快挙であった。しかしながら、今日では、労働組合の存在自体の影が薄くなることと平行して、戦後初期労働組合の破竹の進撃も、まぶしいほどの輝きも、そして何よりも、その「志」が、忘却の彼方に消え去ろうとしている。

 本書は、『聞書・電産の群像』(1992年)、『電産型賃金の世界』(1999年)、『電産の興亡』(2007年)の三部作に代表される緻密な実証分析によって、電産研究に不滅の金字塔を打ち建てた著者が、折にふれて発表したさまざまな論稿を一書にまとめたものである。「若い世代の人びとに、「電産」という労働組合の「志」を伝え遺しておきたい、これが本書を上梓する理由である」と、著者はあとがきで述べている。収録された論稿は、既刊の研究書に未収録の、一般読者対象の文章を中心とし、簡にして要を得た叙述に導かれながら、いつしか読者は戦後初期の「電産の世界」にいざなわれることとなる。それは、現在の日本社会、現在の労働組合からは想像できないような、もうひとつの可能性を秘めた独自の世界であった。この異世界とも呼ぶべき時空への旅は、戦後民主主義創生の「未熟にして高貴な輝きの瞬間<とき>」への想像力を呼び覚ます。まことに時宜を得た好著である。

 本書の構成と概要について簡単に紹介しておこう。「序章 電産とは何か」は著者が収集した膨大な電産資料の解題として記述された文章である。とはいえ無味乾燥な資料解説ではなく、電産という労働組合の生成・発展・消滅の過程の見事な概説になっている。淡々とした叙述の行間や章末の「付記」や注からは、40年余の長期に及ぶ著者の電産研究の蓄積と、それを可能ならしめた研究対象への熱い眼差し、調査協力者たちとの親密な人間関係が伝わってくる。

 序章に続く4つの章では、電産型賃金の理念とそれを支えた組織に注目しながら、電産の「志」が明らかにされていく。

 「第一章 電産型賃金の形成」は、1946年の「電産一〇月闘争」の経緯に即しながら、戦後日本における民主的社会建設の一環として「電産型賃金」が構想され、実現されていったことを明らかにする。「第二章 電産型賃金の思想—それは<性差別賃金>か」は、賃金体系の中に「性別平等」の精神をつらぬこうとした労働者たちの「英知」を「事実」に即して捉えようとする。「第三章 能力給(電産型賃金)の査定基準—それは年功賃金なのか」は、電産型賃金の能力給は個々人への人事考課を含まず、「年齢別・勤続年数別生活給」がこの賃金制度の本質であり、したがって「世上言われているような「年功賃金」ではない」ことを実証する。「第四章 電産五二年争議(一九五二年)—戦後日本における「企業別主義」確立の画期」は、企業を超えた産業別組合としての電産の組織的実践を扱う。電産型賃金は「企業を超えた統一協定」に基づく賃金制度であり、その実現のための電産の産業別組合の思想は電産型賃金の「志」と不離一体のものであると著者はみる。そして、そのような産業別組合の思想が「企業別主義」に道を譲った画期が電産五二年争議の敗北であった。

 「終章 労働調査の四〇年の経験から—私の最終講義」は、早稲田大学定年退官にあたっての最終講義の講義録である。ここでは、「働く人びとの英知に学ぶ」ことをめざす著者の研究実践の「志」が、経験に即して縦横に語られている。

 電産研究に限らず、著者の実証研究は、常に丹念な聞き取り調査をもとに、研究対象となる社会事象を、まずは「当事者の論理」に即して内在的に理解しようとする努力において際だっている。本書を読むと、そのような研究者としての著者の「志」が、電産の「志」と見事に共鳴していることがわかる。

 労働者たちの「熱い思い」をこめた闘争の全過程を「ありのままに丸ごと理解するのでなければ、この賃金体系がその内に孕んでいた可能性も限界も明らかとはならない」と著者はいう。「電産型賃金の形態的側面の詮索や、超歴史的否定」に終止してきた従来の電産型賃金「論」への見事な批判である。電産型賃金を性差別的年功賃金の一言で否定し、歴史の屑籠に放り込んでしまった従来の根拠なき通説への批判が、迫真の筆力によって読者を惹きつけるのも、著者と電産の運動の担い手たちとの思想的共鳴が醸し出すハーモニーの故であろう。

 「電産型賃金」の要求は、「大衆のための電力」論に立脚する「電気事業社会化」構想(日本の労働組合がはじめて策定した体系的産業政策)という民主的経営機構改革の要求とセットになっていた。電力10社の統一団体交渉の場でも、組合員への説明の中でも、さらには世論へのアピールにおいても、電産はしつこいくらいに電気事業の民主的改革による「生産復興」を訴え、生活保障を軸とした賃金の近代化はその前提でもあり、必然的な帰結でもあるという主張を展開した。

 中央労働委員会の公益委員(後会長)として電産争議に深く関わった中山伊知郎は、「電産は敗戦という未曾有の混乱の中から立ち上がった新しい秩序の第一列であった」と述べている。電産にとって、その「新しい秩序」はなによりも民主的でなければならなかった。だとすれば、あらゆる制度は公平性、客観性、明確性、納得性を必然的な要件とするであろう。公平性、客観性、明確性、納得性は、労使対等の民主的賃金決定における普遍的原則だ。かたくななまでに原則にこだわる電産の精神は、複雑に細分化された企業内閉鎖的賃金制度に呪縛された今日の状況からみると、まぶしいまでに新鮮な輝きを放っている。

 本書の中には、電産の思想を担ったさまざまな若者たちが登場する。とりわけ印象的なのは電産型賃金の設計実務を担った若き技術者田中正夫(当時32歳)の姿である。ひたむきな情熱をかけて数字と格闘する彼の「暖かい心をもった冷徹な頭脳」は、そのまま実証的社会科学者としての著者の精神に重なるのであろう。最終講義の中で、喜びとともに語られる田中正夫との運命的出会いの瞬間は、社会科学もまた社会をなす人間の営為に他ならないという、しごく当たり前のことを想起させてくれる。碩学の語る熱い想いの書としての本書と対話することを多くの人にお薦めしたい。

 (評者はNPO法人働く文化ネット理事)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧