■ 【書評】                   小川 正浩

  2.『荒廃する世界のなかで』(トニー・ジャット著 森本醇訳)
         (みすず書房)
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  著者はロンドンの貧困層・移民層が多く住むイーストエンドで生まれたユダヤ
系のフランス・ヨーロッパ史家である。最後はニューヨーク大学で歴史学を講じ
ていたが、2010年62歳の若さで死去した。代表作品に『ヨーロッパ戦後
史』(上下巻)があり、2008年に邦訳され出版されている。
 
  本書『荒廃する世界のなかで』は、不治の難病に冒され死の床にあった著者
が、友人達の援助を受けながら書き進めた本である。こうした制約から、論理と
文章が練り上げられた専門書ではない。しかし全編を通じて、荒廃する世界をも
たらしたものへの憤りに満ち、同時に、次世代への希望にあふれた感動的なメッ
セージとなっている。
 
  E.H.ノーマンは、歴史は決して一直線でも、単純な因果の方程式でも、正
の邪に対する勝利でも、暗から光への必然の進歩でもないと言っているが、この
歴史観は19世紀以降の200年にわたる社会民主主義にもあてはまる。『ヨー
ロッパ戦後史』を読んだときにもまた本書の場合にも評者が最初に感じたのはこ
のことである。

 著者は本書の中で社会民主主義の記憶を語り、その現代と未来における可能性
を熱く論じているが、その方法は優れた歴史家に共通して、あくまでも相対的な
視角に立ってである。理想の過去の表徴として記憶するのでもなく、また理想の
未来の表徴として、言い換えるならば一つのドグマの歴史として、社会民主主義
を辿りあるいは未来構想をしているわけではない。われわれの眼前にある他のも
のに増して社会民主主義が優れた選択肢になり得る可能性に未来を託そうという
のである。
 
  本書の前半で、歴史家らしく長いスパンに立って、社会民主主義が獲得してき
た業績を肯定的に振り返っている。最大の業績は、福祉国家あるいはアメリカで
は「偉大な社会」の実現にあった。福祉国家のもとで集合的サービスは公共セク
ターによって提供されるようになり、所得は平準化され、平等社会が出現した。
平等社会はたんに所得格差が小さくなったことだけを表すのではない。平等な社
会になれば市民の共通性が高まり、相互に信頼し合い、協力し合うようになる。

 著者の評価で特徴的なのは、物質的な側面のみならず、倫理と道徳の向上に果
たしてきた社会民主主義のこのような功績である。
 
  ところが1980年代以降の市場優先主義のもとで、教育や医療や交通をはじ
め集合的サービスは目の敵にされ、所得の不平等が増幅された。世代的流動性は
小さくなり、貧困の世代間連鎖が競争と市場主義が徹底されたアメリカやイギリ
スなどの国ほど大きくなった。信頼と協力は蝕まれ、共同体は病理に陥り、市民
と国家をつなぐものは権威と服従だけになってしまった。著者の市場原理主義者
と私的個人主義を崇めるリバタリアンへの批判は容赦ない。
 
  著者の批判の目はまた社会民主主義にも向けられる。該当箇所を引用してみよ
う。 「過去30年にわたる国家から市場への変換に対して有効に対処すること
ができませんでした。語るべき物語を失って、社会民主主義者とその仲間のリベ
ラル派や民主党員は、30年間防戦一方となり、自分たちの政策の弁解に終始し
ていましたが、相手方の政策を批判する際も、この間ずっとあやふやでした。彼
らの計画が好評の場合でも、予算の垂れ流しとか政府介入とかの非難に対して、
防戦に苦慮しているのです」。
 
  90年代末の「第3の道」政治は、社会民主主義が積み上げてきたそれまでの
労苦を性急に投げ捨て、意味のないレトリックに走っただけに終わった。200
8年の金融危機に対しても有効に対処できなかったばかりか、その後の欧州で行
われた選挙でも相次いで敗北し、有権者の支持を失っていった。かくして今の社
会民主主義は真に必要な代替策を構想できていないと著者は結論づける。
 
  それでは社会民主主義は自分の目的の説明や目標の正当化のためにどのような
政治的・道徳的なフレームワークを提示することができるのだろうかと著者は問
いかける。 まず穏健・中庸・安定性といった社会民主主義が歴史的に形成して
きた長所―それを著者は倫理とか道徳と表現する―を今の時代に説得的に語る言葉
をみつけることが重要だと諭す。成長がいちばん大切なことではない、大きいこ
とは必ずしも良いことではない、より多くが望ましいとは限らない、人間こそが
大切だということを説明する言葉の発見である。
 
  このことの上に立って、最優先されるべきは不平等の克服である。そのために
は国家の役割の再定義が重要であることが強調される。経済のグローバル化にと
もなって国民国家は終焉したという論がまかりとおり、また介入主義的国家は競
争を阻害する源として貶められてきた。ところが現実は逆のことが進行してい
る。金融危機の際には国家による介入と救済が要求され、また不平等が社会不安
にむすびつくなかで国家の再登場が求められるに至っている。

 著者が論じている国家の役割は2つである。
  ひとつは国家自体が「中間組織」となって権力のない市民と、企業や国際機関
とを媒介することにある。企業がグローバル化し、また国際機関が一定の規制力
をもつ現状を考えればこうした国家の定義は新しいものと言えよう。
 
  二つ目は、公共サービスの提供主体としての政府の役割の復権である。これは
社会民主主義の誇れる歴史的な産物であり、その再確認でもある。公共セクター
への著者の思い入れは深い。公共サービスは個人や市民の協力体ではできないこ
とを担うという以上のものがあると言う。このことを鉄道と駅を事例に挙げなが
ら説いていく。鉄道はたんに人やモノを運ぶものでもなく、駅はそのための付属
品でもない。両者は分かちがたくむすびついて近代世界を統合しているのである。

 パリの「ガール・ド・レスト(東駅)」、ロンドンの「パディントン駅」、チ
ューリッヒの「ハウプトバーンホーフ(中央駅)」などを見れば分かるように、
駅は文化や語らいの場となっており、「その町の人格の本質をふくんでいる」(
プルースト)空間である。評者をふくめて、欧米の鉄道駅とくに中央駅を見て、
ようやくかの地を旅している気分になられた方も多いだろうが、著者の指摘は正
鵠を射ている。

 反対に効率一辺倒でだめになっていく駅として挙げられているのはロンドンの
「ユーストン駅」、パリの「モンパルナス駅」ニューヨークの「ペンシルヴェニ
ア駅」などである。日本の新幹線の拠点駅は民営化以降、軒並み金太郎飴よろし
く地方毎の息吹を失い、また利益の場に堕している。
              
  欧州社会民主主義は著者も指摘しているように「冬の時代」を迎えている。現
在、復活に向けて社民系研究機関を中心にして「次への社会民主主義」を模索し
ている最中である。どのような政治アジェンダを創造するかが注目される。この
ための議論に本書は大いに寄与しているようである。こうした活用こそジャット
が望んだことであり、生きていたら喜びは大きかっただろう。
 
  さて日本だが、今や、社会主義はおろか社会民主主義でさえ論じられることが
めっきり少なくなってしまった。政党にも労働組合の中にも、知識人の間でも、
社会民主主義に関心を寄せる人は僅少である。本書が、日本における停滞と沈黙
を抜け出し、再活性化の契機になることを願う。

                 (筆者は社会民主主義思想研究者)

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