【書評】

『史料徹底検証 尖閣領有』

村田 忠禧/著  花伝社/刊  定価2000円+税

苫米地 真理


 本書は、2013年に刊行された『日中領土問題の起源 公文書が語る不都合な真実』の続編ともいえる内容である。日本政府の「尖閣」領有過程を検証し、1885年から1895年までの時期の内務省、外務省等の公文書を整理し、事実がどのように展開したかを解明したものである。

 外務省ホームページに掲載されている「尖閣諸島についての基本見解」には、「尖閣諸島が日本固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いのないところであり(中略)、尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません」とある。また、諸島を領有した根拠は「1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」としている。これを見れば、1895年の閣議決定以来、日本政府が一貫してそのように主張していると考えがちである。評者は、かつて国会会議録等を精査し、日本政府が尖閣諸島の領有権を明言したのは1970年になってからであることを本『オルタ』123号および『世界』2014年10月号で論じた。先行研究も調べたが、そのことに言及していた唯一の書籍『尖閣列島・釣魚島問題をどう見るか』を書いたのも本書の著者である村田忠禧氏である。

 「何を根拠に『尖閣諸島』が『日本固有の領土』であると言えるのか」。村田氏は「事実に基づいて考えるための素材を提供する必要がある」と本書の執筆方針を述べている。
 政府が尖閣領有の根拠とする1895年の閣議決定について、著者は「このような『火事場泥棒的』行為に合法性は存在しない。まさに『窃取』と呼ぶしかない」と断じている。同閣議決定は、「官報に出たわけでなく、外国にも通告されておらず、領土編入について無主地先占の手続きをふんだとは到底いえない」(伊藤隆監修、百瀬孝著『史料検証 日本の領土』)などとも評されており、さらに、魚釣島と久場島のみに言及し、久米赤島などは対象外であり、同島が国有地台帳に登記されたのは1921年であることなどから考えても正当性に欠けると評者も認識していた。

 前著『日中領土問題の起源』では、1895年に戦勝の結果として、台湾と澎湖諸島は下関条約で公式に、魚釣島と久場島はこっそりと日本のものになっていった過程を明らかにした。この歴史については既に井上清が1972年に『「尖閣」列島 —— 釣魚諸島の史的解明』で明らかにしていたが、村田氏の書には、井上清の成果を越える重要な発見があるにも関わらず、マスコミからはまったく無視されたという。
 著者のいう「重要な発見」の一つは、閣議決定の10年前の1885年9月に、「国標建設」すなわち領土編入は、沖縄側が自発的に「上申」したとされてきたが、実はそれ以前に山縣有朋内務卿から「内命」があったことを明らかにしたことである。従来は、1970年9月17日の「琉球政府声明」のように、「沖縄県知事は、明治18(1885)年9月22日、はじめて内務卿に国標建設を上申」などとされてきた。実は、井上清も山縣の「内命」を指摘していたが、ほとんど黙殺されているため、著者は根拠となる公文書を引用し再提起した。山縣はなぜ内命を出し、領有を急いだのか? 「魚釣島外二島踏査」の前に、沖縄本島東方の大東島の調査と編入も内命されていたことをふまえれば、明治政府は国際法に基づく領有権の画定を目指したと考えられる。台湾の領有まで意図していたかどうかは今後の解明を待ちたい。

 本『史料徹底検証』では、さらに進めて、上述の1885年9月22日の「上申」は、沖縄県令西村捨三が山縣に国標建設を「上申」したのではなく、その逆に、国標建設に対する懸念と再検討を上申したと解き明かした。さらには、「本県所轄の標札(杭)を建てること(中略)も当然」とし、「国標建設への憂慮を示した9月22日の内容とは正反対のことを書いている」同年11月5日に出された「魚釣島外二島実施取調の儀に付上申」は、西村が書いたものではなく、実は、県令代理が西村県令の名義を僭称して書いたことも明らかにした。この発見は、従来は全く指摘されなかった重大な新事実である。
 さて、西村から国標建設の再考を求められた山縣内務卿は、井上馨外務卿の意見を聞くため、10月9日に書簡を出した。井上の回答は「国標を建てて開拓等に着手するのは、他日の機会に譲ったほうが適当と思われる」という内容だった。この井上の回答は、外務省ホームページの「尖閣諸島に関するQ&A」のQ8に対するA8でも引用されている。しかし、なぜか、井上の回答である「国標を建て開拓等に着手するは他日の機会に譲るべきだろう」を先に掲載し、「同県において実地踏査の上国標建設の義差し支えなしと考える」という山縣の意見が後に掲載されている。「意図的に誤解を引き起こさせようとする狙いが込められている」と著者は外務省を批判している。最終的には、「目下建設を要せざる」との指令案を出すことに井上も同意し、国標建設の見送りは1885年12月の日本政府の正式な結論となった。その後、1890年と1893年に、「建設を要せざる」との指令見直しを求める上申が沖縄県知事から内務大臣に行われた。

 1894年12月27日、野村靖内務大臣は、「当時と今日とは事情も相異候に付」、閣議提出にあたり、ご協議を求めると陸奥宗光外務大臣に問い合わせ、陸奥は「別段異議なし」と回答する。それを受け、野村は、1895年1月12日に閣議を請い、1月21日、「標杭建設の儀、仝県知事上申の通、許可すべしとの件は、別に差支も無之に付、請議の通にて然るべし」と閣議決定された。だが、沖縄県の所轄を認めた同閣議決定は『官報』に掲載されなかった。領有の根拠を示すことができないからである。日清戦争の勝利を確実にした今と10年前とでは「事情を異にする」からとか、標杭建設を許可しても「差し支えない」からという「本音」は「とても公表できるものではない」と著者は指摘する。
 また「尖閣諸島についての基本見解」では、「再三にわたり現地調査を行ない(中略)、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認」とあるが、尖閣の現地調査は1885年10月30日の魚釣島で実施されただけであり、軍艦「海門」「金剛」による実地調査はなかったことも著者は論証している。本書は重要な新事実に富む優れた研究成果である。

 著者が示す公文書は、日本に不都合な現実を明らかにしている。しかし事実は事実である。「素直に事実に向かい合い、誠実な態度で問題解決に当たろうとする姿勢が必要で」、「そのような姿勢を堅持すれば、問題解決の道は自ずと見えてくるであろう」と著者は結論づけている。著者が終章で述べている「日中領土紛争の平和的解決を実現するための具体的な提案」は説得力に富む。
 最後に、1895年の閣議決定で許可された標杭建設はどうなったのか。1968年にECAFE(アジア極東経済委員会)が周辺海域における海底資源埋蔵の可能性を報告したからであろうか、決定から74年後の1969年5月9日、石垣市は行政管轄標識を魚釣島に設置した。

 (評者は法政大学大学院政策科学研究所 特任研究員・日本地方政治学会・日本地域政治学会理事)


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