[書評]                      松永 優紀

『世界の99%を貧困にする経済』(原題:”The price of inequality”)

ジョセフ・E・スティグリッツ著 楡井浩一・峯村利哉訳
徳間書店刊 定価1995円
   

 著者のスティグリッツは、ジョン・ベイツ・クラーク賞、ノーベル経済学賞の受賞者であり、また、クリントン政権下で大統領経済諮問委員会委員長、世界銀行の上級副総裁兼チーフエコノミストなどを務め、実務家としても活躍する「行動する経済学者」である。現在は、コロンビア大学教授。

本書は、著者が言うには、「“ねたみの政治”ではなく、“効率的かつ公正な政治”についての本である(第10章)」。と同時に、現代社会の問題の“根っこ”に正面から取り組んだものでもある。(最上層がすべてを搾取できるような社会的影響力について)「政治と経済が社会的影響力――社会道徳と社会慣行――を形作る一方、社会的影響力によって政治と経済が形作られ、この相互作用が不平等の拡大に拍車をかけるわけだ(序)」。この社会的影響力こそが“根っこ”の部分であり、(本文にはない譬えだが)そのパッケージには「公正な競争は大事」と印刷されているが、中身は「悪い不平等という麻薬」である。

この商品はアメリカのみならず、日本を含めて世界中に流通して、私たちはパッケージに騙されて購入させられ、なかの麻薬で感覚を麻痺させられている。その麻痺とは、私たちに「現在の不平等を公正なことである、あるいは少なくとも仕方のないことである」と納得させるもので、最上層が利益を独り占めするための武器である。しかも悪いことに、私たちの感覚が麻痺しているために本当の問題がどこにあるのかを発見できにくくなってしまった。本書において、スティグリッツはその根本の問題に対して、経済の視点だけではなく、様々な社会問題の検討を含め総合的にメスを入れる。
 
ここでは、社会的影響力という“根っこ”の部分、すなわち本書のコア部分の一つについて紹介してみたい。2008年秋のリーマンショック以降の世界金融危機への対応をめぐって、大不況のマイナス面は、税金という形で中下層の者に押しつけ、最上層の金融関係者は、もともとは税金だったお金を破格の報酬として受け取り続けると指摘している。非伝統的金融政策(従来の常識を超える量的緩和・信用緩和)は経済システムを守るために不可欠の措置であり、中下層を含めた“すべての人”のために必要であるはずだったが、その後の結果は、さらなる不平等の拡大をもたらした。

しかも、その不平等は“公正な”ゲームに勝利する能力によってではなく、ゲームのルールを設定する能力によってもたらされる。上位1%層の人々は、レントシーキング等の手段を使って、正当な手続きを踏んだように見せかけて、自分たちに都合の良いように「法律の方を変える」ことができるのである(「規制の取り込み」)。彼らにとって、もはや法律は単なる手段であり、社会を秩序づけ、正義を為すための制度ではないのである。なおかつ、人々がそれに反対することを、強制力ではなく、社会的影響力を形成することで抑制する(「認知の取り込み」)。
 
そして、“公正性”と“効率性”の名の下に新自由主義を振りかざし、大量の公的資金を受けたにもかかわらず、市場の自己修復能力に全幅の信頼を寄せる。あるいは少なくとも、そのように見せかける。先述の「(彼らの)手段としての法律」と異なる「真に意味のある」規制や制度は、彼らにとっては足かせでしかない。彼らは言う「不況は仕方がないのだ。それによって、経済が自己修復してさらなる効率的な経済ができるのだ」と。しかし、(本文でも同様の引用があるが)ケインズは「長期的に見ると、われわれはみな死んでしまう。

嵐の中にあって、経済学者が言えることが、ただ、嵐が遠く過ぎ去ればまた静まるであろう、ということだけならば、彼らの仕事は他愛なく無用である(ケインズ『貨幣改革論』(1923))」と述べている。ここで、経済学者を規制当局と言い換えると、彼らの主張の危険性が理解できるであろう。正しい格差とそうでない格差があるように、建設的な競争と破壊的な競争があることを認め、破壊的な競争が生じないように市場メカニズムをコントロールすることは、規制に反対している人を含めて全体の利益にかなうことなのだ(無論、利益の独占はできなくなる)。

今後、政府あるいは規制当局が適切な規制を課していかない限り、不況は続き、不平等の程度も悪化の一途をたどると著者は言う。「規制とは、システムをよりよく機能させるために設計されたルールであり、具体的には、競争を担保したり、影響力の濫用を防いだり、自分で身を守れない人々を保護したりする(第4章)」。人類社会にはルールが必要であるということ自体に反論する人は、少数派であろう。

だが、最も大切なことは、私たち一人ひとりが麻痺を解いていく(上位層がつくりあげた社会的影響力から自由になる)ことである。麻痺を解かずにルールだけを語るのでは、あまりにも頼りない。なぜなら麻痺したままでルールを変更しても、そのルールは長続きせず、すぐに元に戻ってしまう。とはいえ、「変化を起こす力を持つ思想もあるが、ほとんどの場合、社会的変化と信念の変化はゆっくりと生じる。ときには、思想と社会の変化の速さがずれてくる。信念と現実の相違がびっくりするほど大きいので、思想を――あるいは社会の変化を――再考せざるを得ないときもある(第6章)」とスティグリッツも語っているように大事な変化ほど早くは生じにくい、ということにも留意しておくべきだろう。

最後に、本書で著者が主張したかったことを一言にまとめるとするならば、「とにもかくにも政治が大事である」ということだ。ここでいう、「政治」は政府や政治家だけではなく、より広い意味での「政治」を意味すると考えられる。経済を規定しているのは株主、企業や労働者などのステークホルダーだけではない。それにルールをつくって、方向づけてきた政府と制度も重要なファクターである。これまでの政府のルールの設定、方向づけによって、現在の状況が表れているのであるから、政府はこれを反転させなければならない。

そして、私たち一人一人の信念あるいは思想を反転させるような地道な取り組み(麻痺の除去)である「政治」もなされなければならない。そういう観点から、著者は最後に改革の方向性を示している。ただ、為さねばならないことは自明だが、いかに為すかが極めて難しい問いになっていることは付言しておかねばなるまい。
(評者は公共哲学研究者)

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