【オルタの視点】

市民派政治学者・篠原一先生を偲ぶ

―「革新の革新」をめざす長洲県政を支えた学者ブレーン ―

久保 孝雄


 市民派の政治学者として全国の市民運動や自治体改革運動に大きな影響を与えてこられた篠原一先生(東大名誉教授)が亡くなられてから早くも1年が経つ(10月31日死去)。安倍政治の暴走がやまない(止められない)いま、先生を失った喪失感の大きさに苛まれる思いが募る。

 松下圭一さんが亡くなった時、私は本誌に「松下理論なくして長洲県政はなかった」の一文を寄せた。自治体改革の理論、政策面ではその通りだったが、篠原・長洲間にはより広い政治理念や政治理論での共鳴、さらに個人的、人間的交流(2人は酒食を共にしたことはない)を通じた深い信頼感が醸成されていた。この連帯感が、長洲さんの知事生活20年(1975~95)を支えた重要な精神的支柱の一つだったといえる。

 お2人のつなぎ役は長洲さんの政策スタッフだった私(長洲さんに請われて44歳で県庁に入った)が務めた。面談は年数回だけで、電話対談が主だった。多いときは週2回、少ないときでも10日に1度は電話で状況報告と課題についてのアドバイスを受けた。先生から電話が来ることもあった。頻繁な電話でご迷惑だったかもしれないが一度も断わられたことがなかった。先生の説く「ライブリーポリティクス」と長洲さんの「生活者政治」が同じ方向を目指していることを確認できたのも電話討論だった。

 地方政府としては異例のことだったが、長洲県政には100名を超える大勢の学者、文化人が協力してくれた。このブレーン団について当時の大平総理が強い関心を示され、長洲さんとの会談に同席した私に詳しい説明を求められたことがある。こうした協力者集団の中心に居続けてくれたのが篠原先生だった(他の中心メンバーとしては都留重人、坂本義和、中村秀一郎、正村公宏、斎藤新六、阿部志郎、清水嘉治さんらがいる)。テーマ別に数人の学者グループと知事との勉強会が頻繁に開かれたが、ここでは長洲さんも一人の学者に戻って熱心に議論に加わっていた。この勉強会には関連部局の幹部職員も陪席した。

 こうしたブレーン団との知的交流の成果として、次々に新しい理念が形成され、政策化されていった。80年代から90年代にかけての分権改革への全国的なうねりを作ることに貢献した「地方の時代」の提唱(自治体代表と学者300名が横浜に集まり、「第1回地方の時代シンポ」が開かれた。長洲さんが基調講演で<地方の時代>を提唱された)をはじめ、全国自治体はもとより国にも先駆けた情報公開制度、環境破壊の乱開発をストップさせた環境アセスメント制度の創設、重厚長大型産業から知識・情報産業への京浜工業地帯の歴史的転換に対応する産業政策や科学技術政策の展開、外交への市民参加として大きなインパクトを生んだ「民際外交」、福祉見直し論(参加・共生型福祉へ)、道州制に代わる広域行政論、「行政に文化を、文化に行政を」の旗印のもとに進められた文化行政(神奈川近代文学館創設、美術館充実、神奈川交響楽団支援など)、その一環として箱モノづくり行政に一石を投じた「文化のための1%システム」等々、先進的かつユニークな革新的政策が次々に打ち出され、実現していった。また、ポスト・高度成長期の政治の在り方として「生活者政治」の理念を打ち出したのも長洲さんだった。

 これらの政策は全国自治体に先駆けただけではなく、国の政策にもインパクトを与え、先導役を果たしたものも多い。例えば、国の情報公開制度は、神奈川県の条例化(1982年10月)後18年目(1999年5月)にようやく実現したが、この時、石川真澄さんは次のように書いていた。

 「(5月)7日、情報公開法がようやく成立した。神奈川県条例の制定から18年目である。…(長洲氏は)「役所が見せたくないものを見せる」を信条とした。その実践を通して、市民は行政への信頼を取り戻し、自治に参加できる。それが「革命」に代わって、長洲氏が終生追い求めた民主主義観だった・・・少数派で出発する勇気と、多数派を形成する根気、長洲氏が常に心掛けてきたこの態度こそ、政治家に欠かせないものではないだろうか」(朝日新聞、99年5月8日夕刊)。この記事を最初に知らせてくれたのも篠原さんだったが、長洲さんはすでに数日前(5月4日)、79年の生涯を閉じていた。

 「民際外交」についても、はじめ外務省は「外交」は国の専権事項であり、自治体は「外交」という言葉を安易に使うべきではないといって介入してきたが、その後民際外交を容認し、応援するスタンスに転じている(マンスフィールド大使が「民際外交」を高く評価されたことが転機だった)。

 長洲さんが経済学者として特に力を入れたのは産業政策であるが、これはかつて日本の工業生産の1割近くを占めていた京浜工業地帯が高度成長後急速に衰退し始めたため、これに対応する必要からである。そこで長洲さんは神奈川の産業構造を知識・技術集約型に切り替え「神奈川を日本とアジアの科学技術と研究開発のメッカにする」ため「頭脳センター」構想を柱とする産業政策を打ち出し、推進した。今日、京浜工業地帯は日本一の頭脳型産業基地に変貌している(長洲さんは日頃から産業・経済が分からないと政権はとれないといっていた)。

 ところが、これに対し「政策」は国の仕事で、県はその「執行」に当たればいいという反発が、霞が関はもとより県庁内からも噴出した。これには長洲さんはじめ篠原さんら学者グループも猛反発し、これを機に国の下請け機関としての県から脱却し、県を政策形成の主体としての「政策官庁」に作り変え、「政策主導の県政」に転換するため、各部局に政策課を新設するなどの大改革を行った。今では都道府県はもとよりおもな都市の自治体にも「○○政策課」が置かれるのが普通になっている。

 例を挙げだすときりがないが、こうした実績は協力してくれた学者側にも理論や政策論上、一定のインパクトがあったはずだが、これについてきちんとコメントする学者は少なかった。しかし、篠原さんは自治体改革や分権改革、政治理念の改革などを論ずる際、長洲知事の役割に言及することが多かったし、坂本義和さんも『国家と個人』(岩波新書)のなかで、坂本さんの民際論を市民参加の民際外交として実践に移した長洲さんの業績に触れ、平和と外交における自治体の役割についてコメントされているが、これらは数少ない例である。何のコメントもない多くの学者にとって、神奈川県政へのコミットは彼らの学問に何らのインパクトも与えなかったのだろうか。

 例えば90年代まで、自治体改革論の先駆者であり、長洲県政にも大きな影響を与えた松下圭一さんは、自らの業績をまとめた著書『現代政治・発想と回想』を出版(06年7月)されたが、この中に長洲県政へのコメントはほとんどない(わずかに長洲県政における「文化行政」への評価があるのみである)。

 また県の情報公開制度の実現に貢献してくれたH教授は、NHK-TVでのウィキリークス問題へのコメントで、日本における情報公開制度の立ち遅れを批判していたが、日本政治に大きな影響をもたらした情報公開制度が、日本では神奈川をはじめとする地方主導で進められてきたことを正確に伝えていなかった。

 棚橋泰助さん(元都職員、元社会党都議)が「長洲県政は従来の革新自治体の枠を大きく超えているのでトータルな評価が難しい。「頭脳センター構想」などは国の政策にふさわしい(事実、シンガポール政府は数日間KSPホテルに泊まって<頭脳センター構想>を徹底取材していった。シンガポールの頭脳立国戦略に影響したかもしれない)。産業政策、科学技術政策、さらにサイエンスパークやインキュベータとなると自治体専門家にはコメントできない」と言われたことがあるが、これは長洲さんが従来の「革新」のイメージ(社・共+労組)に違和感を持ち、常日頃「革新を革新するのが私の仕事」と言い、日本の政治構造を米国型(保守2大政党)ではなく欧州型(保守対社会民主党)に作り替える夢を持ち続けていたことと関連する(社会党江田派の敗北に対する長洲さんの失望は大きかった。棚橋さんの拙著への書評<オルタ・34号>など参照)。

 私が長洲さんの命により「頭脳センター構想」のキープロジェクトであり、日本初のサイエンスパークである「かながわサイエンスパーク」(KSP、国、県、川崎市、民間企業出資の第3セクター、資本金45億円、敷地面積5.5ha、建物15万㎡のインテリジェントビルに研究開発型企業、ベンチャー企業が集積。KSPが運営する日本初のインキュベータで、私の在任中8年だけでも117社のベンチャー企業を誕生させた。このなかには従業員・数百名、売り上げ・数百億円の企業に成長したものがいくつもある)の社長に転じてからしばらくして、篠原さん、松下さんが相前後して来訪してくれた。そして詳しく視察された後、お2人とも期せずして同じように「KSPは長洲県政の最高傑作の一つかもしれない。ここには産業政策、雇用政策、科学技術政策、環境政策、街づくり政策が渾然一体になっている」との趣旨の感想を述べてくれたのを、今も鮮やかに覚えている。

 この時も篠原先生から「長洲県政の総括を書きなさい」と勧められたが、「長洲さんに近すぎるから適任ではない」とお断りした。しかし、再三の説得を受け、友人たちの協力も得てようやくまとめたのは長洲さんの没後7年目であった(『知事と補佐官 ― 長洲神奈川県政の20年』敬文堂 06年)。出版記念会には体調不良を押して横浜まで来て下さったのは恐縮の極みだった。

 KSPは間もなく30周年を迎えるが、日本を代表する、またアジア有数のサイエンスパークとして、いまも5000名を超す科学者、技術者、起業家たちが日本のイノベーションのために日夜奮闘してくれている。最後に、17年前、KSPの呼びかけで結成され、いまアジア全体にネットワークを広げている「アジアサイエンスパーク協会 Asian Science Park Association」(会員数19か国123、うちサイエンスパーク61、他は大学、研究機関。会長は内田裕久KSP社長)が、この7月、国連の特別諮問機関に選ばれたことを記しておきたい。

 (元神奈川県副知事、アジアサイエンスパーク協会名誉会長)


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