【コラム】大原雄の『流儀』

「襲名披露」ということ

大原 雄


 「オルタのこだま」で、このコラムの感想を毎回書いてくださっている。私も毎回、読者の声の代表の一つとして耳を傾けながら、「こだま」を愛読している。135号のコラムについて、次のような記述があった。「今の歌舞伎は随分お年寄りの方が支えているんだなあ。お元気なのに驚くとともに、確かに先行きが心配になる。途絶えてはどうしようもないので少し早めに伝承してゆくようにすべきでしょう」。

 歌舞伎役者の御曹司は、子役からスタートをし、50年程精進。還暦以降、やっと一人前になる、と言われる。還暦から傘寿(80歳)、卒寿(90歳)までの20年から30年が、役者としての熟成期になる。観客たちは、この時期の役者の演技を堪能するのである。また、役者の側も少しでも長く舞台に立ちたいと情熱を燃やす。

 例えば、六代目歌右衛門は、晩年日常生活では車椅子を必要としたが、舞台では使えないので、演出を工夫して、座ったまま科白を言ったりしていた。時に立ち上がったり、少し歩いたりすることもあった。藝の力は凄いと思った。事情を知っている観客も多いから、拍手や大向うの掛け声が、いちだんと高くなる。役者冥利、観客冥利の場面が出現する。

 四代目雀右衛門も立ち居が不自由になっても舞台に出ていて、得意の舞踊を披露していた。立ち上がる時は、一人では出来ないので、後見役の弟子が後ろからお尻を押し上げて立たせていた。立ってしまえば、元々、立ち姿、特に静止した時の姿は一品の人だから、昔日と変わらぬ美しい姿を披露してくれて、やはり、拍手喝釆、大向うの掛け声が、いちだんと高くなる。

 こういう場面を観てしまうと、藝能の「時分の花」の「時分」は、それぞれの年齢に滋味という「時分時」があり、それが花を咲かせる。「少し早めに伝承する」ということは、実は、歌舞伎などではなかなか難しい。例え、演技のノウハウを「早めに伝承」したとしても、円熟味の「伝承」にはならないから厄介なのである。「少し早め」は、難しいことを理解してくださるにちがいない。これは、「こだまのこだま」のようなものである。

 日本の伝統藝能には、「襲名披露」という慣習がある。例えば、歌舞伎役者や人形浄瑠璃の人形遣、浄瑠璃の太夫などの襲名披露。上方歌舞伎の名跡・四代目中村鴈治郎の襲名披露興行は、今年(15年)1月から2月の2ヶ月間、大阪の松竹座で行なわれた。次いで先月(4月)には、東京の歌舞伎座で襲名披露興行が展開された。

 実は、いま、歌舞伎界には、3つの襲名披露の話題がある。

1)「宙に浮いた」形の七代目中村歌右衛門襲名
 当初、去年(14年)の3、4月に歌舞伎座で予定されていた歌舞伎の女形の名跡・七代目中村歌右衛門(江戸の成駒屋)襲名披露興行は、歌右衛門襲名に内定(13年9月発表)した中村福助(54歳、七代目中村芝翫の長男)が、内定後のプレッシャーか、11月に脳内出血の発作を起こし病気休演になってしまい、4カ月後に迫っていた襲名披露興行も延期となった。あわせて、襲名披露する筈だった福助の長男・児太郎の十代目福助襲名も延期になった。回復すれば改めて襲名披露の段取りの取り決めとなるのだろうが、実際には舞台復帰の見通しが立たないまま、宙に浮いた形になっているのが実情だ。

2)襲名披露興行中の四代目中村鴈治郎襲名
 当代の坂田藤十郎(三代目鴈治郎)の長男の中村翫雀(56歳)は、先月(4月)、東京の歌舞伎座で上方歌舞伎の名跡・四代目中村鴈治郎(上方の成駒「屋」→四代目鴈治郎襲名を機に、成駒「家」に改名した)襲名披露興行を終えた。四代目中村鴈治郎襲名披露は1、2月の大阪・松竹座での興行に続いて、東京・歌舞伎座でも行なわれた。歌舞伎座の鴈治郎襲名披露興行の様子は、後に述べる。この後、鴈治郎襲名披露興行は、6月の福岡・博多座、地方巡業、さらに、12月の京都・南座などと続く。

3)来春(16年)に控えている五代目中村雀右衛門襲名
 七代目中村歌右衛門襲名披露興行が、宙に浮いている中で、松竹から新たに公表されたのが、今年還暦を迎えた四代目中村雀右衛門の次男の中村芝雀(59歳)五代目中村雀右衛門襲名披露興行である。今年11月で60歳になった後、来年3月、歌舞伎座で襲名披露興行を開始する。6月の福岡・博多座、7月の大阪・松竹座、地方巡業、さらに、12月の京都・南座などと続く。襲名披露興行は、興行主の松竹に取って、長期間売り込める「目玉商品」なのである。それだけに、歌舞伎役者への負荷も高いだろう。しかし、これを乗り越えないと歌舞伎役者は大きく飛躍しない。

 3つの襲名披露のうち、六代目歌右衛門は、2001年3月逝去だから、この名跡は、もう、14年も空位だ。興行主の松竹が、そろそろ次世代への襲名披露と食指を動かす状況だったのは、理解が可能だろう。鴈治郎の四代目襲名披露も、2005年11月に三代目鴈治郎が、上方歌舞伎の祖というべき歴史的な大名跡・坂田藤十郎襲名へと大転換して、もう、10年が経ったから、空位10年を長男の中村翫雀がそろそろ受け継ぐというのも、まあ順当だろう。

 四代目雀右衛門は、2012年2月逝去だが、次男の芝雀(力はあるのだが、地味で存在感が今ひとつだった)の表情、演技などが時々、「親父さん。そっくり」と大向うから、褒め言葉の声がかかるようになったから、父親の没後4年で、五代目を襲名しても良いだろうし、改名後大きく飛躍するような予感がする、という状況ではある。

 2011年以降の歌舞伎役者の相次ぐ逝去など、先に、このコラムで歌舞伎の危機説にも触れたから、3つの襲名披露興行が、それに関わるのではないか、と疑問に思う向きもあるかもしれない。

 2011年には、五代目中村富十郎(2011年1月、81)、七代目中村芝翫(11年10月、83)が亡くなり、2012年には、四代目中村雀右衛門(12年2月、91)、十八代目中村勘三郎(12年12月、57)が、亡くなった。2013年、十二代目團十郎(13年2月、66)逝去、2015年には、十代目坂東三津五郎(15年2月、59)が亡くなった。このうち、先程述べた雀右衛門襲名のほかでは、立役の橋之助が父親で真女形だった中村芝翫の八代目襲名という手があるかどうかくらいで、ここ数年で亡くなった名跡役者の息子たちに限定した場合、近い将来では、なかなか、襲名披露興行とは行かないだろう、と思う。

 そういうことを埒もなく考えていたら、歌舞伎役者にとって、命にも代わる重要事の「襲名披露」の意味あいについて、このコラムで書いてみたくなった。

 手始めに、まず、実際の歌舞伎の襲名披露の舞台ではどういうことが展開されるのか。先月(4月)四代目鴈治郎襲名披露興行のあった歌舞伎座の舞台から観てみるのが早道かもしれない。

1)演目:15年4月歌舞伎座 四代目中村鴈治郎襲名披露
(昼/「碁盤太平記」「六歌仙容彩」「廓文章~吉田屋~」)
(夜/「梶原平三誉石切」「成駒屋歌舞伎賑」「心中天網島~河庄~」「石橋」)

 このうち、「碁盤太平記」、「廓文章~吉田屋~」、「心中天網島~河庄~」の3演目は、初代の中村鴈治郎が大正時代に家の藝として定めた「玩辞楼十二曲」(12演目)になっている。因に、「歌舞伎十八番」というのは、江戸歌舞伎の宗家・市川團十郎家の家の藝として定めたものである。歌舞伎一般の「十八番」というわけではない。

2)祝幕:歌舞伎座の杮落しから2年。杮落し後、大きな名跡の襲名披露興行は初めて。場内に入ると、「祝幕」が目につく。祝祭用の一種の道具幕。襲名披露用に特注した幕。毎回、新調する。「がんじろうはん」の図柄は、中央上部に大きな満月。満月に向かって4羽の雁(かりがね)が飛んでいる。満月に掛かるように先頭を飛ぶ雁は四代目鴈治郎。紅く輝く。

 続く3羽の雁は、三代目鴈治郎(当代の坂田藤十郎)、二代目、初代と逆上る。水色に近い青色に澄み渡る秋の夜空。幕の上手の下に森田りえ子画伯のモチーフの白い糸菊の大輪が咲き誇る。糸菊の上には、「祝」の赤い字。糸菊に一部ダブって「襲名披露」の黒い字。幕のど真ん中、満月の斜め下手寄りに成駒家の家紋である「イ菱」。幕の下手にある金色に輝く薄が風を呼び清涼だ。薄の上に「四代目中村鴈治郎丈江」とある。成駒家所縁の雁、薄、月を入れ込んでいる。

3)ふたつの「口上」の趣向:当該の役者や家族を軸に、歌舞伎役者の幹部が裃姿の正装で豪華な座敷の大道具仕立てという舞台にずらりと出そろうのが、「口上」という儀式であり、これは、一幕ものの人気「演目」でもある。今回は、良く観かける通常の「口上」とは、ひと味違う演出をしている。

*「廓文章~吉田屋~」の劇中口上:吉田屋内部。舞台下手、白梅が描かれた金襖が開いて、伊左衛門(鴈治郎)が、吉田屋喜左衛門(幸四郎)とともに入って来る。伊左衛門の出現を「めでたい」と言いながら、芝居を一時中断して、四代目鴈治郎襲名披露に繋げた幸四郎が仕切って、舞台中央に座り込み、鴈治郎とふたりで劇中口上を言う場面である。

 幸四郎による紹介の後、「鴈治郎の名跡を四代目として襲名する運びとなりまして」と鴈治郎自身の口上が、初めて歌舞伎座内部に響き渡る。吉田屋喜左衛門に扮した幸四郎は江戸歌舞伎界を代表して、上方歌舞伎の名跡の襲名披露を寿ぐ、というわけだ。

*趣向を凝らした「口上」:「成駒家歌舞伎賑~木挽町芝居前の場~」。「木挽町芝居前の場」は、今井豊茂の新作。「口上」と同じ趣向で演じるのが「芝居前」と呼ばれる一幕もの。江戸時代から始まった演出で、芝居小屋の前という想定で、出演する役者が顔を揃えて、興行の成功、歌舞伎の繁栄、観客の幸福などを願う祝祭的な演目。今回は四代目鴈治郎襲名披露で、成駒家の弥栄を寿ぐ。

 祝幕が開くと、木挽町芝居前。芝居小屋には、歌舞伎座の紋を染め抜いた暖簾が上下2箇所に下がっている。櫓が立ち、四代目鴈治郎襲名披露四月大歌舞伎の演目(今月の演目をそのままに)を知らせる看板や絵看板も掲げられ、木戸には、「大入」などの張り出し、下手に積み物(剣菱)もある。

 襲名披露興行の賑わいを見ようと、大勢の鳶の者と手古舞姿の芸者衆が繰り出している。芝居小屋の前は、成駒家一門の役者衆(寿治郎ら)が、控えている。

 大坂・道頓堀の座元・松嶋屋仁左衛門(仁左衛門)に案内されて、坂田藤十郎(藤十郎)と中村鴈治郎(鴈治郎)が本花道から、現れる。鴈治郎は、上下揃いの緑の肩衣、袴姿という「口上」の正装。ふたりの到着を聞いて、芝居小屋の中からは、肩衣に袴姿の木挽町の座元・音羽屋菊五郎(菊五郎)、太夫元・播磨屋吉右衛門(吉右衛門)、芝居茶屋亭主・高砂屋梅玉(梅玉)が出迎えに出て来る。太夫元と茶屋亭主は、紋付袴姿。

 両花道からは、江戸の男伊達と女伊達が登場する。下手の本花道からは男伊達(左團次、歌六、又五郎、錦之助、染五郎、松江、権十郎、團蔵、彦三郎)が9人、上手の仮花道からは女伊達(魁春、東蔵、芝雀、孝太郎、亀鶴、高麗蔵、萬次郎、友右衛門)が8人。まず、本花道の左團次から「代を重ねて四代目……」、次いで仮花道の魁春などと、そろいの衣装の面々が、両花道からそれぞれ交互に襲名の祝儀を述べる「つらね」を披露する。最後を音羽屋(彦三郎)が締める。

 下手奥から、茶屋女房・お秀(秀太郎)の案内で、倅(進之介)に伴われた(腕を抱きかかえるように)二引屋主人・我當(我當)が祝儀に駆けつける。目が不自由と聞いたが、いかにも、という歩き方。顔も大分痩せているように見受けられた。小康状態なのだろう。お大事に。

 茶屋女房・お秀は、今度は花道から江戸奉行・松本高麗守(幸四郎)を案内して現れる。襲名披露を聞きつけたという将軍の代行で、厄除けの金の御幣を持参したという。奉行は成駒家の贔屓だということで、懐紙を取り出し、鴈治郎に、「これに名前を書いて」とねだり、場内を笑わせる。盛り上がる祝儀気分。鴈治郎は小屋へ入り、舞台から襲名披露の口上を言うことになり、中へと案内されて行く。

 芝居小屋入口の大道具が引揚げられて行く。小屋の中の舞台。襖には、松、笹、イ菱の家紋、雁、竹、矢などが描かれている。舞台上手より大道具方が押し出す台に乗って成駒家と山城屋のファミリー5人。上手より壱太郎(鴈治郎長男)、藤十郎、鴈治郎、扇雀、虎之介の順に座っている。ファミリーだけというのが、通常の「口上」とひと味違うが、ここからのスタイルは、通常の口上。

 口上は、四代目となった鴈治郎から。順に、下手隣の扇雀、最も上手の鴈治郎長男・壱太郎へ。最も下手の扇雀長男・虎之介へ、最後の締めに鴈治郎の上手隣にいた藤十郎が口上。「親の身にとって、鴈治郎の襲名を迎えられたことは感無量」と言っていたが、声量が乏しくなっている感じが、気がかり。口上が終わると、祝幕が閉まって来る。

 こういう趣向は、10年前、05年5月、歌舞伎座で、勘九郎が十八代目勘三郎を襲名した際に、「弥栄芝居賑~中村座芝居前~」という外題の一幕もので観たことがある。演目の骨格は、今回とほぼ同じ。

4)襲名披露演目:先にふれたように、「碁盤太平記」、「廓文章~吉田屋~」、「心中天網島~河庄~」の3演目は、初代の中村鴈治郎が大正時代に家の藝として定めた「玩辞楼十二曲」(12演目)なので、襲名披露に使われるのは、当然だろう。

*このうち、「碁盤太平記」は、新・鴈治郎に代わって、弟の扇雀が主役を務め、染五郎、東蔵、孝太郎らが、客演している。鴈治郎の舞台ではないので、今回の劇評からは省略する。

*「廓文章~吉田屋~」:江戸歌舞伎に対して、上方歌舞伎というジャンルがある。上方歌舞伎と言っても、皆、同じ演出をするわけではない。例えば、「廓文章~吉田屋~」では、松嶋屋型では、「夕霧伊左衛門 廓文章 吉田屋」という外題。成駒家(鴈治郎)・山城屋(坂田藤十郎)型では、「玩辞楼十二曲の内 廓文章 吉田屋」という外題である。演出も異なる。

 松嶋屋型(八代目仁左衛門型、大阪風)の伊左衛門と成駒家・山城屋型(初代鴈治郎型、京風)の伊左衛門は、同じ上方歌舞伎ながら、衣装、科白、役者の絡み方(伊左衛門と吉田屋喜左衛門女房・おきさや太鼓持ちの絡みがあるのは、松嶋屋型)など、ふたつの型は、いろいろ違う。

 松嶋屋の型;仁左衛門の、花道の出は、「差し出し(面明り)」を用いる。「差し出し」は、蝋燭を使った江戸の照明器具。黒衣が、ふたり、黒装束ながら、衣装を止める紐が、赤いのが印象的であった。背中から廻した長い柄の面明りを両手で後ろ手に支えながら、網笠を被り、紙衣(かみこ)のみすぼらしい衣装を着けた伊左衛門(仁左衛門)の前後を挟んで、ゆっくり歩いてくる。

 成駒家型;今回の鴈治郎は、「差し出し」無しで、花道を普通に出て来る。出に合わせて、「冬編笠の垢ばりて」は、竹本の「余所事(よそごと)浄瑠璃」。ご近所で、浄瑠璃の稽古。それが聞こえてくるという想定。竹本連中は舞台上手の山台に乗っている。網笠を被り、紙衣(かみこ)のみすぼらしい衣装を着けた伊左衛門は、ゆるりとした出になる。「やつし」の演出。

 「やつし」とは、零落した姿を表現する演出。黒地と紫地の着物である紙衣(かみこ)は、夕霧からの恋文で作ったという体で、「身を松(「待つ」にかける)嶋屋」とか「恋しくつれづれに」とか「夕べ」「夢」「かしこ」などという字が、金や銀で、縫い取られているように見える。これは、同じ。「差し出し(面明り)」などの仕かけがない分、藝で勝負か。松嶋屋型では、「差し出し」の明りが、はんなりと雰囲気を盛り上げている感じ。ほかにもいろいろあるが、長くなるので省略。

 この演目は、いわば、放蕩で勘当されたとはいえ豪商の若旦那という放蕩児と遊女の「痴話口舌(ちわくぜつ)」という単純な話を一遍の名舞台にしてしまう、上方喜劇の能天気さが売り物の、明るく、おめでたい「和事」(男女関係をテーマとした芝居など)。他愛ない放蕩の果ての、理屈に合わない不条理劇が、楽しい舞台になるという不思議。

 それだけに伊左衛門を演じる役者は、「演技をする」というより、「人物になり切る」という境地にならないと評価されない。上方歌舞伎の大御所である仁左衛門、藤十郎の伊左衛門を観てきただけに、新・鴈治郎からそういう滋味が滲み出て来るようになるまでには、まだまだ、熟成期間が必要だろうと感じた。

 江戸和事の名作「助六」同様、「吉田屋」は、無名氏(作者不詳)による芝居ゆえ、無名の、歴史に残っていないような、しかし、歌舞伎の裏表に精通した複数の、職人的な感性の狂言作者が、憑依した状態で実力以上の能力を発揮し、名作を後世に遺したのだろう。さらに後世の代々の役者が、工夫魂胆の末に、いまのような作品を遺したのだろう。そういう結晶のような名作である。

 「助六」が、江戸の遊廓・吉原の街を描いたとしたら、「吉田屋」は、上方の遊廓・新町の風情を描いたと言えるだろう。松嶋屋型であれ、成駒家型であれ、楽しむポイントのひとつは、正月の上方の廓の情緒が、舞台から、匂いたち、滲み出て来るかどうか。不条理の条理を気にせずに、観たまま、感じたまま楽しめばよいという芝居だろう。

*「心中天網島~河庄~」。近松門左衛門原作(1720年)で、近松半二改作(1778年)という演目は、上方和事の代表作。初代の延若、初代の宗十郎、初代の鴈治郎が、軸となって、それぞれ工夫魂胆、藝に磨きをかけてきた。それだけに、こちらは、新・鴈治郎も「演技が出来る」。

 この芝居は、藤十郎の、いわば、「ミリ単位」で完成された演技を見続けることが、私には楽しみだった。藤十郎は、若い扇雀(二代目)時代の頃、父親の二代目鴈治郎の紙屋主人・治兵衛を相手に遊女・小春を演じたが、1961年10月名古屋御園座で治兵衛を演じて以降は、小春は演じず、鴈治郎の代名詞でもある治兵衛を演じ続けている。四代目鴈治郎は、04年4月大阪松竹座に続いて、11年ぶり、2回目の治兵衛を演じる。前回は、治兵衛と丁稚の三五郎の二役を扇雀と日替り交代で演じた。

 さて、「河庄」のハイライト。紙屋治兵衛の出である。鴈治郎時代を含めて、藤十郎の花道の出、虚脱感と色気、計算され尽した足の運び、その運びが演じる間の重要性、そして、「ふっくらと」しながらも、やつれた藤十郎の、「ほっかむりのなかの顔」が、絶品だった。四代目鴈治郎は、どうか。

 紙屋治兵衛を演じる役者は、舞台に出てくる前に、揚幕の鳥屋の中で、すっかり役作りを終えていなければならない。「魂抜けてとぼとぼうかうか」。妻子がありながら、遊女・小春(芝雀)に惚れてしまい、小春に横恋慕する商人・江戸屋太兵衛(染五郎)の企みに乗せられ、心中するしかないという治兵衛(鴈治郎)の状況を、揚幕の外に出た途端から、花道を歩き続けるだけという藝で、表現する場面。足取りも、表情も、恋にやつれ、自暴自棄になっているひとりの男が歩いて行く。

 廻り舞台を半廻しにする場面があるので、下手の背景が平板な書割ではなく、廻り舞台の盆が廻れるように、奥行きのある道具になっている。舞台が廻る前。「河庄」の座敷の下手側の障子がわずかに開いている。ここが、重要なポイントとなる。室内の障子の隙間の前には、蝋燭立てが立ててある。店の外に近づいた治兵衛(鴈治郎)が、座敷のうちを覗き見る。

 座敷で小春(芝雀)とやり取りする武士が、兄の商人・粉屋孫右衛門(梅玉)と知らずに、嫉妬心を燃やす。煙管に口をつけて火をつけ、それを遊女が客に渡す場面は、間接キッスだから、嫉妬心が煽られる。後に、孫右衛門が、障子を閉めて、そこが開いていたことを観客に改めて、知らせる。さらに、嫉妬心から障子を突き破って、中にいる小春に届かない小刀を突き出す治兵衛。何者かと、その両手を障子の格子に縛り上げ、懲らしめのために、そこから身動きができないようにする孫右衛門。

 この後、舞台が半廻しとなり、店の外に身動きできずにいる治兵衛の後ろ姿が、観客席から見えるようになる。歌舞伎座の大きな舞台。治兵衛役者は、自分の背中だけで、この空間を埋めなければならない。

 そこへ、花道から戻って来た江戸屋太兵衛(染五郎)と五貫屋善六(壱太郎)が、縛られている治兵衛を見つけ、「貸した二十両を返せ」などとからかい、打ち据えて、辱める場面へと繋がる重要なポイントとなる。この場面では、廻った舞台下手奥が、遠くまで見え、町家が遠近法で描かれている。夕景の物悲しさ。

 紙屋治兵衛のような、女に入れ揚げ、稼業も家族も犠牲にする駄目男のぶざまさが、観客の心を何故打つのか。大人子どものような、拗ねた、だだっ子のような男が、目の前の舞台の上にいる不思議さ。それは、何回も上演され練れた演目の強みであり、家の藝として、代々の役者たちが、何回も演じ、工夫を重ね、演技を磨いて来たからだろう。

 江戸歌舞伎に押されながらも、上方歌舞伎の様式美を大事にし、粘り強く持続させて来た鴈治郎代々の執念が、様式美の極みとして、上方和事型を伝承して来た。四代目鴈治郎にも、そういう負託がなされているだろう。藤十郎の円熟の治兵衛には、及ばないが、四代目が、父親を目標に新たなスタートを切ったことには間違いがない。意気込みも伝わって来る舞台であった。新鴈治郎の今後を楽しみにしたい。

5)祝儀演目:「梶原平三誉石切」、通称「石切梶原」。「玩辞楼十二曲」には含まれていないが、鴈治郎型として、「梶原平三試名剣」という外題があり、「星合寺(ほしあいでら。鶴ケ岡八幡宮の別当寺)」の場面がある。今回は、場面設定が星合寺境内である。星合寺境内という設定は、中村鴈治郎、坂田藤十郎系統が、「石切梶原」を上演する時のものである。

 今回は梶原平三を幸四郎が演じるが、四代目中村鴈治郎襲名披露興行ということで、いつもの鶴ケ岡八幡社頭ではなく、星合寺の大道具を使っている。幸四郎は、楽屋噺で「お祝いの気持ちを込めて『星合寺の場』にしました」と話している。従って、場面設定だけ上方歌舞伎・鴈治郎の成駒家型で、外題や芝居の中身は、江戸歌舞伎・幸四郎の高麗屋型であった。歌舞伎の融通無碍な特徴を観せてくれた。

 星合寺(ほしあいでら)の場:上方歌舞伎、初代鴈治郎型の演出。私は今回、初見。舞台は、いつもの鶴ケ岡八幡宮社頭の場ではなく、星合寺境内の場。書割の上手に星合寺の本堂が横向きに描かれている。中央は、紅白梅の木があちこちに植えられている石庭。境内は白い塀で囲まれている。塀の外側は松林。下手側の塀が途中で一部切れていて、出入りができる。奥の塀の外には、五重塔が遠望される。石庭に昇る短い階段の上下手に一対の石灯籠。普通は、鶴ケ岡八幡宮の本堂が、正面奥に遠望される、というのが、馴染みの書割。物語の展開は、普通の江戸歌舞伎の演出と概略同じであった。

6)襲名披露興行の意味:「襲名」とは、役者が、先祖、親兄弟、師匠、そのほか偉大な先人の名跡を継ぎ、名前を「大きく」することで、格上の役者の藝風を学び、引き継ぎ、己の藝をいちだんと飛躍させる試みのことである。例えば、江戸歌舞伎の宗家、市川團十郎家では、「新之助」→「海老蔵」→「團十郎」と、出世魚のように、実力や格を見ながら、より大きな名跡へと替わって行く。

 新たな名跡を襲名した役者は、大きな名前という「器」と現在の己との「空隙」を意識し、足らざる部分を埋めるべく、精進することになる。その上、興行主とも連繋をして、襲名披露という、いわば「ソフト」を生かすべく、客寄せのための華やかな興行で景気付けをする。

 襲名披露というのは、どういうメリットがあるのか。大きくまとめると、次の3つかと思う。1)興行主にとってのメリット。2)役者本人にとってのメリット。3)観客にとってのメリット。

*襲名披露興行は、既に述べたように歌舞伎界のマンネリ化を予防し、興行主の松竹にとっては、話題作りという大事な客寄せ商法の一つである。例えば、中村芝雀、来年(16年)3月、歌舞伎座で襲名披露興行を開始する五代目中村雀右衛門は、3月の歌舞伎座の後、6月の福岡・博多座、7月の大阪・松竹座、地方巡業、さらに、12月の京都・南座などと華やかな興行が続く。

 初っぱなの襲名披露は、3月の歌舞伎座で終わり、マスメディアの時代だから全国の歌舞伎ファンには、五代目中村雀右衛門は、それで知れ渡ってしまうが、やはり、観客は生身の役者の顔を観たいもの。観客も役者も興行主も、「ご当地初御目見え」と言えば、芝居小屋に詰めかけて来るだろう。以前、地方勤務の際、片岡仁左衛門の襲名披露巡業の舞台を山梨県の南アルプスの麓の公共施設で観たことがあるが、芝居が撥ねた後、施設を出たら、目の前に夕景の南アルプスが迫っていて、銀座の雑踏に出て来る歌舞伎座の終演の雰囲気とも違う感慨を抱いたことがある。これはこれで、味なものである。芝居小屋で初めて「御目見え」した江戸時代も、マスメディアやインターネットが発達した現代でもファンの心理は、変わらない。従って、松竹にとって、名跡が大きければ大きいほど、役者の人気が高ければ高いほど、襲名披露興行は、大事な客寄せ商法として成り立ち続けるだろう。

*役者本人の励み、飛躍のチャンス。例えば、坂田藤十郎。当代は、四代目藤十郎を名乗る。屋号は「山城屋」。前名は、三代目鴈治郎。二代目扇雀→三代目鴈治郎となった。屋号は、上方の「成駒屋」。本来なら上方の「成駒屋」としては、鴈治郎が代々の大名跡、いわば、「上がり」だった。

 ところが、三代目鴈治郎には、江戸歌舞伎宗家の市川團十郎家に対抗心があり、團十郎に並び立つためには、こちらは、上方歌舞伎の祖、初代の坂田藤十郎という大名跡を継ごうと狙っていた。初代の藤十郎(1647—1709年)こそ、近松門左衛門原作の演目を多数演じて評判を取り、「やつしごと」「濡れごと」などという上方歌舞伎の和事を作り上げた功労者として、大名跡に相応わしい実績があるが、二代目、三代目は、ほとんど評価されていない。

 三代目の襲名(1739年)後、途絶えてしまっていた。三代目鴈治郎は、成駒屋の大名跡という器には飽き足らず、先人も先人、上方歌舞伎の祖である坂田藤十郎というビッグな器の中に飛び込んでしまった。そして、2005年、四代目坂田藤十郎を継ぐ。この四代目は、二代目や三代目の藤十郎を飛び越えて、初代坂田藤十郎に繋がろうと試みたのだ。大名跡を継承し、藝や品格が大きくなった典型的な例であろう。

 まさに、ビッグな器と己との間に生じる空隙を埋めようと精進する。役者本人の励みともなり、成駒屋の藝を飛躍させ、馴染みのなかった「山城屋」という屋号の復活とともに、現代の坂田藤十郎というイメージを定着させるチャンスに掛けたのだ。いまや、東西歌舞伎界を代表する長老役者として、濃艶な色気を滲ませながら、83歳の名老優(大晦日で84歳)は君臨している。

*馴染みの役者名復活で、「時空」逆戻り、観客心理も若返る。歌舞伎は、映像ものの鑑賞という手もないではないが、天井に近い席であっても、1等席であっても、変わりなく、生身の役者の舞台を観るのがいちばんだろう。

 つまり、歌舞伎は生身の役者と同時代を生きる、という楽しみがある演芸なのだ。例えば、六代目菊五郎(1885—1949年)、初代吉右衛門(1886—1954年)の舞台を同時代に生で観た人たちは、その後の、役者との力量具合を自慢して、六代目菊五郎、初代吉右衛門の藝を観たことを話したがるので、「菊吉じいさん・ばあさん」と揶揄されたものだ。だから、観客に取って、歌舞伎役者の名前は、自分がその役者の舞台を観た「時空」に直結している。

 歌右衛門と言えば、多くの人は、2001年3月に逝去した六代目を思い起こす。その後、歌舞伎ファンは、歌右衛門の舞台を14年間も観ていない、という寂しさを抱えている人が多いだろう。福助が、万一、「お祭り」ででも舞台復帰して、大向うから「待ってました」と声がかかり、芸者だからなんというか。立役の鳶頭なら「待っていたとはありがてえ」と観客の声援に答える場面をどれだけ夢見ているか。

 七代目として、歌右衛門が舞台復帰すれば、七代目の舞台を楽しむと同時に、「歌右衛門」という名前を聞くことで、六代目を思い起こし、その頃の六代目の舞台を思い浮かべ、あわせて、その舞台を観た頃の若かりし日の自分の姿を連想し、気持ちも若返る。そういう心理が観客にはある。新しい世代が継承したとはいえ、馴染みの役者の名跡復活は、観客にとても、耳から、目から、「時空」逆戻りとなるのだ。自分自身の元気で、前途遥々だった時代を思い起こしながら、照明に照らし出された新しい名跡の役者の舞台にうっとりし、薄暗い客席で、ひととき、己の老いを忘れることだろう。

 (筆者はジャーナリスト・元NHK社会部記者・元日本ペンクラブ理事)


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