■ 「米中関係の守護者」としてのキッシンジャー        久保 孝雄

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  私は個人的にはキッシンジャーをあまり好きではない。彼には日本および日本
人を格下に見ている(日本に対する戦勝国意識をにじませている)ところがある
からだ。ニクソン大統領の特別補佐官だった彼が、米中和解への秘密工作を続け
ていたとき、アメリカの意表をついて中国との国交回復を図った田中角栄に激怒
し、失脚させたのは彼である。また、日米安保は中国を対象にしたものではなく、
日本の軍国主義復活を抑える役割があることを強調して、毛沢東や周恩来を説得
したのも彼である。

 中国、ロシアをはじめ、世界の列強の首脳たちと渡り合ってきた彼にとって、
日本および日本人はいかにも一格下に見えるのだろうが、しかし、日本をこうし
た国にし、日本の政治家を矮小にしたのは他ならないアメリカだったことに、彼
は心の痛みを感じていないようだ。

彼の定義によれば、「主権国家の根本とは、他国の制約を受けずに自ら決断を下
す権利を有していること」(キッシンジャー著『中国』上下 岩波書店)である。
占領終了後60年を経た今なお、アメリカは沖縄はじめ全国各地に広大な米軍基
地を保有し、自らの戦略で自由に運用しており、戦勝国アメリカから様々な主権
制約を受け続けている日本は、まともな主権国家とは到底言えない。

 政財官に拠る日本の支配層は、国家主権の基本である安全保障や外交の基軸、
つまり国家戦略の基本をアメリカに依存してきた(させられてきた)ので、「日
本人は戦略的思考が弱い」(キッシンジャー)という状態に封じ込められてきた
のだ。もちろん、これに甘んじ続けてきた日本の政財官+マスメディアなど支配
層のアメリカ覇権信仰や独立心の欠如を免責するものではない。

 このように、彼の対日観には不満と批判はあるが、国際関係に対する、とくに
米中関係に対する彼の戦略判断には一目も二目もおきたくなるところがある。米
中関係は究極において破局に陥ることはない、と私が確信している根拠の1つは、
当代屈指の戦略家キッシンジャーがアメリカでいぜん影響力を持つ存在だという
点にある。

 最近出版された彼の著書『中国』(前掲)の「解説」で、松尾文雄氏は彼を
「米中関係を構築し続ける男」と呼び、「米中関係の守護者」と言っているが、
確かに彼は70年代初めに米中和解を演出し、米ソ冷戦終結への布石を打つなど、
世界構造を動かす大事業に携わっていらい、起伏の多かった米中関係を安定化さ
せるため、老いに抗しながらも渾身の力を込めて活動し続けてきている。それは
彼が米中関係の安定こそ、世界構造の安定に不可欠の要素だと考えているからで
ある。

 この度、初岡氏が本誌のため紹介してくれたキッシンジャーの論文「米中関係
の将来―衝突は必然ではなく選択の問題」は、彼の中国認識と米中関係論をコン
パクトにまとめたものであり、著書『中国』(前掲)のエッセンスともいえる。
彼はこの論文の中で、米中関係について基本的に重要なことを簡潔に述べている。
いくつかを例示してみよう。

 「(アメリカは)戦略的選択として(中国との)対決の道をとるべきではない。
米中両国は、長期間の対決路線によって相互に与えうる大損害を考えれば、今日
直面している新しい任務に手を携えて取り組まざるを得ない。すなわち、両国を
重要な構成要素とする国際秩序を作り上げることである。・・・中国とアメリカ
の長期的対決は世界経済を変貌させ、すべての国の経済を混乱に陥れる」。

 「中国の最近の軍事力増強自体は珍しい現象ではない。むしろ、世界第2の経
済大国がその力を軍事力に反映させないことのほうが驚くべきことである。もし
アメリカが中国の軍事力増強を敵対的行為として反応を繰り返せば・・・際限の
ない紛争に巻き込まれるだろう」。

 「米中関係はゼロサム・ゲームではなく、強力で繁栄する中国の登場はアメリ
カにとっての敗北ではない。協力的アプローチは両側にある既成概念に対する挑
戦になる」。

 「同様な地理的規模と比肩しうる国際的力量を持ちながら、政治的文化的に大
きく異なる国と向き合うことは、アメリカにとってほとんど前例のない歴史的経
験である。これは中国にとっても同じことであろう・・・中国とアメリカは現実
に耐え続けるほかに道がない。両国は独自の利益を追求しながらも、実際の政策
だけでなく、用いる言辞においても、相手の抱く悪夢に配慮し、疑心を煽らない
責任を負っている」。

 以上、若干の例示だが、日本の政治家が格下に見られても止むなしと思わざる
を得ないほど、深い洞察に基づく卓見が続く。

 ここに示されているように、彼は世界構造の安定のためには、米中基軸の世界
秩序を作ることが基本課題だと考えている。いわゆる「G2」(米中)論である。
しかし、彼は別のところ(国際討論会『中国は21世紀の覇者となるか?』早川
書房)で、長期的にはBRICS(伯、露、印、中、南ア)など新興国が世界構
造の中軸を占める多極共存の時代が来るとの構想も示している。キッシンジャー
の世界秩序への展望ないし構想は、「中期=G2、長期=多極共存」ということ
のように思える。

 しかし、キッシンジャーの多極論は最近始まったものではなく、米ソ冷戦終結
の頃からのものである。私が彼に注目するようになったのは、彼が世界構造を変
える一頁となった米中和解の立役者だったと言うだけでなく、冷戦終結後「唯一
の超大国」となったアメリカで「一極支配」を謳歌する世論が高まり始めた頃、
これに冷や水をかけるようにアメリカの衰退を予言し、世界が多極化するとの展
望を持っていたこと、つまり、彼の世界認識、時代認識の深さに感銘を受けて以
来のことである。彼は冷戦終結、ソ連崩壊直後の92年当時、すでに次のように
発言している。

 「今まではアメリカン・エクセプショナリズム(アメリカは例外的な特別な国
だと言う考え方・筆者注)がアメリカ外交の原動力となってきた。しかし21世
紀の国際構造が多極化していくのは、不可避である。今後の国際社会では、アメ
リカのやり方を他の諸国に押し付けようとする外交ではなく、諸国の国益をきち
んと計算してバランスしていく外交政策が必要になるだろう」(伊藤貫『自滅す
るアメリカ帝国』文春新書)。

 いずれにせよ、日米同盟の深化と称して、軍産複合体が主導するアメリカの世
界戦略に自ら進んで組み込まれ、「中国封じ込め」戦略に前のめりに加担しつつ、
ヒステリックなまでに反中、嫌中論に傾斜している日本の政財官+メディアの主
流派の人々に、卒寿の老戦略家キッシンジャーの謦咳に触れて「早く目を覚ませ」
と言いたい。

  (筆者は元神奈川県副知事・アジア・サイエンスパーク名誉会長)

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