【国民は何を選んでいるのか】

「立憲」という言葉が復活してきた背景

「立憲」という言葉が復活してきた背景
― 政党名が象徴する「理想と現実」―

宇治 敏彦

 旧民進党が昨年の衆院選挙で「民進党」「希望の党」「立憲民主党」に分裂した際、枝野幸男・立憲民主党代表は自分たちの新党が選挙後に野党第1党に躍り出るとは想像しなかったに違いない。旧憲法(大日本帝国憲法)時代のことを勉強したことがある人なら「立憲」という言葉を聞いて即座に思い起こすのは「立憲自由党」「立憲改進党」といった藩閥政府に対抗する「民党」のことであろう。
 なぜ「古めかしい」印象を与える「立憲」という表現が今日、蘇ってきたのだろうか。そのきっかけを作ったのは安倍晋三政権が集団的自衛権の行使容認を法制化した際に参考人として国会に出席した長谷部恭男早大教授の発言ではなかったろうか。同教授は「その法改正は立憲主義に反する」「違憲である」などと主張し、改憲論者を自認していた小林節慶大名誉教授(憲法)も長谷部発言に同調した。そのころから中学・高校の社会科公民の教科書でも「立憲主義」が取り上げられるようになった。

 「『法の支配』と密接に関連するものとして立憲主義という考え方がある。立憲主義とは、政治はあらかじめ定められた憲法の枠の中で行われなければならないというものである。さまざまな法のなかでも憲法は、ほかの法がつくられる際の原則や手続きなどを定める点で、法の中の法という性格をもつ(最高法規性)」(東京書籍発行の高校教科書『現代社会』)

 では民主主義と立憲主義とは、どう違うのだろう。民主主義とは、国民がよく話し合って、そこでの議論を踏まえて多数決によって方向を決めるルールである。一方、立憲主義とは権力=国家が暴走しないように歯止めをかけようという原則だから、「民主主義」と「立憲主義」は重なる部分はあっても、まったく同じではない。
 そこに枝野氏が「立憲」という表現を使う真意が隠されていることを読み取るべきだ。逆の言い方をすれば枝野氏の率いる立憲民主党は、社民党のような「戦後民主主義」「平和憲法の堅持」を党是とする現憲法堅持の政党とは一線を画している。枝野氏自身が随所で「立憲民主党は必ずしも護憲ではない」と語っているのも、そのことを証明している。

 筆者が危惧しているのは、立憲民主党が昨年の総選挙で公示前勢力の15議席から3倍増に躍進したのは、有権者が上記のような枝野氏の理念を十分理解したうえでの投票行動ではなく、「共産党には投票しにくいが、安倍自民党への批判勢力をつくるには戦後民主主義を堅持してくれそうな立憲民主党が良いのでは」というある種の誤解(?)ないしは認識不足があったのではないかという点だ。
 共同通信が選挙当日(2017年10月22日)に実施した出口調査でも無党派層の票を最も多く集めたのは「立憲民主党、共産党、社民党の3党」で「自民、公明両党」と「希望の党、日本維新の会」を上回った。これは無党派層においても「安倍自民党への批判」「改憲反対」の空気が強いことを物語っており、「立憲民主党」イコール「護憲政党」と受け止められた(?)からではないだろうか。

      ▼      ▼      ▼      ▼      ▼

 政党名は、その党の性格を代表するキーワードである。だから命名にあたって当事者たちは議論に議論を重ねたはずだ。旧憲法下ではどんな名前の政党があっただろうか。

 保守系では「自由党」(のちに「立憲自由党」「憲政党」「立憲政友会」などと改名)、「立憲改進党」(のちに「進歩党」「憲政本党」「立憲国民党」などと改名)、「大手倶楽部」「立憲革新党」「立憲同志会」「実業同志会」「立憲養正会」「立憲民政党」など。
 革新系では「東洋社会党」「社会民主党」(のちに「社会平民党」「日本社会党」)、「日本共産党」「農民労働党」「日本農民党」「社会民衆党」「日本労農党」「日本大衆党」「労働者農民党」「全国大衆党」「社会大衆党」「日本無産党」など。
 さらに国粋系では「立憲帝政党」「国民協会」「国民同盟」「東方会」など。

 ここに見られる特徴は、保守系政党では「立憲」、革新系政党では「社会」と冠する政党が目立つことである。また、もう一つの特徴は日本共産党、労働者農民党など革新系政党で「結社禁止」処分になるか、「日本農民党」「社会大衆党」のように自ら「解党」したケースである。

 「車会党」(時には「車界党」とも呼ばれた)という無産政党もあった。シャカイトウと読むのだが、戦後の日本社会党のことではない。人力車の車夫たちが結成した政党だ。1882年6月に新橋と日本橋の間に東京馬車鉄道が開通したことに伴い、従来、人力車で生活費を稼いでいた男たちが大量に失業する事態を招いた。
 そこで三浦亀吉という人力車夫の親方を中心にして同年10月、神田明神で約300人の車夫が集まり、「車夫の権利を守る」集団行動に出ることを決意したのが始まりである。11月には車夫や一般人など2,000人が参加して車夫政談演説会が開催され、これが結党大会にもなった。しかし、4日後には三浦たちが警備の巡査たちに歯向かった理由で投獄され、車会党は短時日のうちに消滅してしまった。

 余談だが、京都府で革新系知事として7選を果たした蜷川虎三氏の多津夫人は、車夫ではないが、円タク(1円で乗れるタクシーということから付いた名前)の最初の女性運転手だったという話を以前、知事選の取材で京都に出張した時、聞いたことがある。本当だったのか、確認してみようと思いつつ、今日に至っているが、ご存知の方がいればお教えください。

 こうしたミニ政党は戦後の新憲法下でもたくさん生まれたが、筆者が個人的関わり合いを持ったのは「サラリーマン新党」であった。「目白三平」シリーズで有名になった作家・中村武志氏や学者の青木茂氏を中心に1969年、全国サラリーマン同盟が結成され、1983年の参院選には「サラリーマン新党」として青木茂氏と八木大介氏の2議席を確保することが出来た(1986年の参院選でも1議席獲得)。
 同党結成の動機は1980年代に「クロヨン」(9・6・4)とか「トーゴーサンピン」(10・5・3・1)といわれた「税負担の不公平」問題だった。例えば所得税納税者率(1980年度)を業種別にみると、いわゆるサラリーマンと称される給与所得者(公務員を除く)は90.5%であるのに対して、事業所得者(中小企業、商店主、自由業)は37.5%、農業所得者(専業及び第1種)は9.8%。「クロヨン」というより「クシピン」(9・4・1)という方が実態に近い。サラリーマンでは10人のうち9人が納税しているのに、農業では所得税を払っているのは1割というのは、余りにも格差があるではないか、というのが中村武志氏らの主張だった。

 もし税務署が国民の所得を正確に捕捉していれば、税務統計(国税庁)と国民所得統計(当時の経済企画庁)の数字が一致するはずだ。筆者は、その誤差を両統計(1983年度)から試算してみた。その結果は次の通りだった。

 ▽給与所得者 99.4%(誤差 0.6%)
 ▽事業所得者 77.5%(誤差22.5%)
 ▽農業所得者 19.0%(誤差81.0%)

 つまりサラリーマンは所得が100%近く把握されているが、農業をやっている人は20%弱しか捕捉されていない。そのうえに補助金をもらっているというので青木茂、中村武志両氏らは「サラリーマン新党」を立ち上げた。「スーツ代を必要経費に」などのスローガンを掲げて給与所得控除の増額などに貢献したが、政党としては長く続かず、2010年には解党した。

        ▼        ▼        ▼        ▼

 戦後の政党で今日まで活動している「長命な政党」は自由民主党と日本共産党だ(両党とも小分裂は経験しているが)。
 逆に政界再編の余波で政党がやたらに誕生し、雲散霧消していった時代は1993年から2003年にかけてである。自民党からは「新党さきがけ」(1993年)「新生党」(同)「新党みらい」(1994年)「自由党」(同)が生まれ、結束が固い公明党も「公明新党」と「公明」に分党した(1994年)。社会党は「社会民主党」「新社会党」に分かれた(1996年)。そうかと思うと、新生党、新党みらい、自由党、日本新党、公明新党は1994年に「新進党」へと結集。それがまた1998年には「自由党」「改革クラブ」「新党平和」「黎明クラブ」「新党友愛」「国民の声」へと別れていったのだから、この15年間の日本の政党地図は、何が何だか分からないというのが正直な印象である。

 小選挙区制導入の余波、人的な離合集散、政治資金の分配合戦、選挙区事情などなど、さまざまな要因が背景にあったとはいえ、政党がくるくると変わることで迷惑するのは有権者の方だ。もともと「政党」とは「選挙民と政治統治機構をつなぐ架け橋」のような存在だから、一度旗を掲げたら、その旗の下に多くの有権者が集うように政治家は全力を挙げて努力すべきであろう。

 (東京新聞相談役)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧