【コラム】中国単信(42)

「滑り止めお守り」が中国にはない

趙 慶春


 新年を迎えると大学だけでなく、中学、高校の入学試験も始まり、まさに日本全国、受験真っ盛りといった感じになる。普段は神様など頭の隅にもないような人まで〝困ったときの神頼み〟とばかりに神社やお寺へ合格祈願に出かけるようである。また、鉄道のレールの滑り止めに使われる砂が滑り止めの「お守り」として売れ行き好調などと聞くと、筆者も子どもの受験期を経験しているだけに、〝溺れる者は藁をも掴む〟心境がよく理解でき、御利益がありますようにと思ってしまう。
 ところでこうした合格祈願のお守りは中国にも存在する。ただ、ふっと気づいたのだが、中国では「滑り止めのお守り」というのは聞いたことがない。
 お守りや魔よけを身につけたり、厄払いの儀式を行ったりという文化的行為は中国にも古くからある。たとえば、お守りや魔よけの霊石として玉を身につける習慣は少なくとも三千年ほどの歴史を持つ。また仏教ならその真言を認める紙を小さいケースや筒に入れてお守りとしたり、道教なら呪文を認める紙や木牌が魔よけとしてよく使われる。

 ただし1966年~76年までの「文化大革命」では、宗教などは「悪の遺産」として否定され、お守りや魔よけは表舞台から姿を消した。でもその後、いつの間にか復権してしまったところを見ると、人間にはやはりお守りや魔よけの類が必要のようである。しかも最近のお守りや魔よけは、その種類も多種多彩となっていて、たとえば毛沢東の写真入りバッジは、なぜか安全運転のお守りとして一時的に大流行し、今でもタクシーのバックミラーに取りつけられているのを見かけたりする。

 日本のお守りは神社やお寺で求めるのが一般的だが、中国では業者が製造し、あらゆるところで売られていて、種類も豊富である。どうもこのあたりは日本人と中国人の思考様式が違うようで、中国人観光客の日本での最近までの爆買いの中に日本の精緻なお守りが入っていたことはあまり知られていない。

 ところで中国にはなぜ「合格祈願お守り」はあるのに「滑り止めお守り」はないのだろうか。その大きな理由は売れないからである。
 それではなぜ売れないのだろうか。
 ここには中国人の国民性が大きく関わっているように思う。
 わかりやすく言えば、どうせ神様、仏様にお願いするなら、最高、最大の願掛けをして控えめな最低限の願掛けはしないという心理が働いているからである。
 実は日本の「滑り止めお守り」も最初から最高、最大の望みを捨てているわけではなく、あわよくば第一志望校への入学を望んでいるのである。つまり日本の「滑り止めお守り」には、欲張った願掛けが込められているように思える。

 ところが中国人的発想からすると、「ただ滑らないだけなら、自分の力を十分に発揮すればよいので、そのレベルは自力で可能な<現実>話に過ぎない。合格祈願のお守りを持つのは、<神がかり>的レベルだからこそ、神仏に願掛けする」となるのである。つまり、中国人の「合格祈願お守り」は最初から高望み祈願となっているのである。

 このような思考様式は、お守りだけでなく日頃の生活の中でもよく見られる。
 中国で他人をマイナス評価するときに〝あいつは「胸無大志」だ〟という四字成語がよく用いられる。〝大きな志がない〟という意味で、中国人は常に目標や志は高く持つべきで、高い目標や志がなければ出世もできないと考えているところがある。

 それは子どもの発想にも現れていて、「将来の夢」を訊くと数学者、科学者、作家、国家主席、市長、社長、スポーツ選手、俳優、将軍などが常に上位を占める。もっとも子どもの夢も時代を反映するようで、近年は市場繁栄や経済発展から「社長」を夢見る子どもが増えてきている。

 一方、日本の小学校の卒業文集などには、花屋、看護師、パイロット、学校の先生、書道の先生、お巡りさん、大工さんといった職業が並び、中国の子どもと比べてより身近で、現実的である。

 中国ではよく「望子成龍、望女成鳳」という言葉を耳にする。「親は男の子なら龍に、女の子なら鳳凰になるのを望む」という意味で、親たちの願いが込められている。それは単なる願いだけでなく、中国の親は子どもが小さいときから龍や鳳凰にするための親なりの努力を注ぐことになる。その典型的なのが「子供に教育を授ける」ことであり、子どもの人生のレールを敷いてやることである。
 過剰とも思える教育熱、教育投資はそのためで、目的達成のために衣食は勿論のこと、志望大学や専門領域(それが職業につながる)の選択まで親がしっかり関わり、指導するのも珍しくない。子どもを龍や鳳凰に育てようとする意識は、日本の親とは比べものにならないほど強い。志や目標を高くしなければ人生の勝負に勝てないからで、親同士での激しい競争意識が渦巻くのもそのためである。

 志や目標を高く持つことは、決して悪いことではない。ただし弊害が生まれてもいる。たとえば、親の薫陶よろしく自分が将軍や国家主席の器と思い込んでいる小学生は、学校の先生を「ただ」の小学校教員とみなして、眼中に置かないようになる子どもさえいるという。また自分がいずれ社長になると思っている社員は、上司を軽視しがちだとも。
 そして何よりも現実離れした「高い夢」は当然、達成が難しく、破綻しやすい。

 国連の世界保健機構(WHO)は65歳以上を「高齢者」としていて、世界の多くの国でも65歳以上を「高齢者」としている。一方、日本老年学会が2017年1月5日に「高齢者」の年齢を75歳に引き上げるよう提言したことは記憶に新しい。健康でいられる年齢が延びて、たとえ高齢でも十分社会活動ができる人が増えているからだろう。

 ところが中国では60歳以上を「高齢者」としているからか、「あなたが思う老人の年齢は何歳ですか?」という調査結果には驚きを禁じ得ない。日本でも同様の調査はたびたび行われていて、回答者の年齢や地域差はあるものの、平均年齢は70歳を超えている。

 しかし中国人が思う「老人の年齢」は平均すると50歳にも届いていなかったのである。大きな理由の一つに、上述してきた幼少からの「高い夢」を持ち続けてきた副作用が潜んでいるように思えるのである。がむしゃらに夢を追い続けて40歳代になってふと自分を振り返ったとき、夢の実現がもはや不可能だと悟るや自分の人生は終わったと思う人が意外と多いからである。自分はもう老人だと落ち込んでしまう「40歳代老人」はどう生きようとするのか。

 自分に残っている情熱や夢を今度は我が子に託そうとするのである。自分が実現できなかった「高い夢」を自分の子供に繋げようとするのである。子どもの教育に異常とも思えるほど関わる親が多い理由の一つはここにある。
 日本の「滑り止めお守り」に込められた「滑る」ことさえしなければ、満足というのも美学ならば、「高い夢」を親から子へと追い続けるのも、また美学かもしれない。
 しかし、一つだけ確実に言えることがある。それは足元の一歩一歩を何よりも大事にしなければならないということだろう。

 (女子大学教員)


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