■ 【書評】

『昭和ー戦争と平和の日本』ジョン・W・ダワー 著 明田川 融 監訳 みすず書房刊 定価3800円 

                          飯田 洋
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  本書は、アメリカを代表する歴史家であり日本研究者ジョン・ダナー(以下
著者とよぶ)による戦中と戦後の日本について多面的に考察した11編からなる論
文集である。

 著者については、ピュリッツァー賞や全米図書賞を始め多くの賞を受賞し、日
本においても2001年岩波書店から出版された名著『敗北を抱きしめた』であまり
にも有名だが、実は本書は『敗北を抱きしめて』が1999年に出版されたのに対し、
それより先の1993年に出版されている。従って、本来は、順序としては、まず
本書を読み、その後で『敗北を抱きしめて』を読むことによって著者の戦後日本
の分析がより容易かつ鮮明に理解出来ることとなるが、日本における出版が逆に
なっているために、日本語版に頼る我々には『敗北を抱きしめて』における著者
の主張の根拠を、本書に掲載された論文の中に改めて見出すという興味ある作業
が可能である。

 著者の歴史観の特長は、歴史の連続性と複雑性の強調にある。
  著者は、昭和という時代の戦前、戦中、戦後の経験の間に絶ちがたいダイナミ
ックな連続性があることを強調する。経済面ばかりではなく、広く国民の間にあ
る反軍国主義的感情の活力という戦後日本の偉大な業績の多くの中に戦時期に根
ざしたものがあるとするのである。

 よく言われる、敗戦を機に「新生日本」としてよみがえり、「奇跡」の回復を
成し遂げたという「昭和」のステレオタイプヒストリーは、歴史のダイナミック
な連続性に目を閉ざすことによって生じる誤解だと著者は指摘する。

 更に著者は歴史とは複雑なものであり、その複雑さ(complexity)の中に潜む
(patterns in complexity)を探すのが歴史家としての営みであるとする。
  そこから、著者は歴史の連続性という問題提起の下に、過去と未来、戦争と平
和、国家主義と国際主義などの複雑な絡み合いを浮彫りにしようとする。
 
  本書は、「昭和」という日本の複雑な歴史に多方面からアプローチすることに
よって、複雑さの中のパターンを見出していこうとする試みである。その際、著
者は、「昭和」という時代は、善きにつけ悪しきにつけ、アメリカとの関係によ
って規定されていたとして、アメリカとの関係の歴史の連続性と複雑性から生ま
れるパターンに多くの視座を据えている。即ち、「昭和」という時代の日本、そ
して半世紀の日米関係の特徴である相互の憎悪と敬意、対立と協力の交差した歴
史が本書のテーマである。

 本書に収められた11編の論文の題名は次のとおりである。
  1、役に立った戦争 2、日本映画 戦争へ行く 3、「二号作戦」と「F研
究」日本の戦時原爆研究 4、造言飛語・不穏落書き・特高警察の悪夢 5、占領
下の日本とアジアにおける冷戦 6、吉田茂の史的評価 8、ふたつの文化にお
ける人種、言語、戦争 9、他者を描く/自己を画く 戦時と平時の風刺漫画
10、日米に於ける恐怖と偏見 11、補論 昭和天皇の死についての二論 戦争
と平和のなかの天皇-欧米からの観察 過去、現在、そして未来としての昭和。
  
  これらの標題が示しているように、著者は歴史の複雑性と連続性を切り口にし
て、戦争による日本社会の変化、戦前戦後の日米関係、吉田茂論、昭和天皇論等
さまざまな角度から日本または日本人の多様性を膨大な一次資料に基づいて生き
生きと描いている。
  
  その中で著者が一貫して重視しているのは、「民衆」という視点である。第二
次世界大戦中の日本は「一億一心」、「一億火の玉」、「一億玉砕」などの政治
的スローガンで覆い尽くされていたが、社会の内実は、無秩序、緊張、混乱に満
ちていた。「天皇陛下万歳」と叫んで戦死した兵士も必ずしも「お国のために」
喜んで死んでいったわけではなく、乏しい食糧で飢えをしのいでいた銃後の家族
も戦争が結果はともあれ早く終結することを望んでいた者も多かった。彼らにと
っては戦争は正義ではなく罪悪を伴う憎むべき悪であった。著者の「昭和」を解
明するための一つのテーマは何処で、何時、どのような無秩序、緊張、混乱が起
きていたかを民衆の側から明らかにすることにある。
  
  収録されている論文はいずれもそれぞれに示唆に富み、興味深いものばかりだ
が、評者がこれまで研究課題にしてきた問題関心と重なり合うものがあって最初
の論文「役に立った戦争」に強く惹かれた。同論文は本書全体の基調ともなる重
要な一編である。戦後日本の社会構造が、政治的にも経済的にも、戦時中の組織
と人を大幅に引き継いだこと、そしてこの連続性に注目することによって、現代
日本の抱える問題点が明らかになると主張する。例えば、戦時動員が戦後の高度
成長に及ぼした影響、官僚とテクノクラートが戦時から戦後に連続して引き継が
れたことなどに注目すれば、戦争は戦後の日本に多くの遺産をもたらしたと著者
は指摘する。
 
  評者はこれまで無産政党政治家の戦時中における活動をめぐっての戦争遂行協
力責任をテーマに研究を続けてきた。
  
  本誌オルタにも、三編の論文「無産政党政治家の戦争遂行責任 三宅正一の思
想と行動をめぐって」、「戦時期保健政策と社会民主主義政党政治家の職能性 
三宅正一の農村医療分野における社会運動的農民運動」、「戦時期社会政策と社
会民主主義政党政治家 日本育英会と三宅正一」を発表する機会を得た。
  
  これらの三編は、いずれも総力戦体制の中で戦時政策という形をとって立案、
成立した社会保障的政策が、実は、社会民主主義政党政治家が新官僚と提携し
ながら主導権をとって推し進めたもので、戦後、農地解放、国民健康保険、育英
会制度などとして結実したとし、戦時中の社会民主主義政党政治家の活動の中に
戦後における民主主義の歴史的基盤を見出そうとする試みであった。
  
  著者は、農地解放、国民健康保険制度、育英制度については、戦時中の総動
員体制維持の必要から軍部と官僚、特に革新官僚または新官僚とよばれた社会官
僚の「見える手」により推進され戦後実現したと述べているが、彼らと動きをあ
わせ、あるいは利用しながら実際に実現のための運動を行った政党政治家特に民
主社会主義政党政治家の動きの重要性には触れていない。

 本論文の意図が戦時と戦後の連続性を明らかにすることにあるのでやむを得な
いが、あわせて、当時の新官僚、革新官僚の目指した革新的政策遂行の方向の分
析や、著者が論文「造言飛語、不穏落書き、特高警察の悪夢」で触れているよう
に、当時の閉塞した社会状況の中で弾圧を受けながらも粘り強く行われた労働運
動や農民運動(小作運動)による効果についても取り上げられれば、著者のいう
「上からの解放」だけではなくより「複雑性」に富んだものであったことが明ら
かになったと思われる。
  
  日本の戦争映画の特質を論じた「日本映画 戦争へ行く」も面白かった。日本
の戦意発揚映画には意外にも戦争を「究極の敵」として描いたものが多く、人道
主義や平和主義の芽を宿しており一旦平和になればすぐさまに反軍国主義的映画
を量産可能にする日本敗北後の時代へ向けた遺産になっていると指摘している。
一方で、戦争自体を敵として描き、日本人の自己犠牲や純潔を中心的テーマとし
て描いたことで、戦争を起こし巻き込んだのは敵側であるという根深い被害者意
識を生むことになったという著者の指摘は重要である。
   
  評者は著者とほぼ同時代での生まれで、著者が論文の中で引用している映画の
いくつかは敗戦直前に実際に観たものであった。
  
  中でも「匪賊」(抗日ゲリラ)に対する日本と朝鮮の協力を描いた今井正監督
の西部劇さながらのアクションを取り入れた活劇「望楼の決死隊」は、当時国民
学校(現在の小学校)の低学年だった私が今でもいくつかのシーンを思いおこせ
るほど感動した映画であった。勿論数十年前のことであり、記憶も定かではない
が、確か望楼を守る武装警察守備隊が匪賊の来襲を受け、孤立無援のまま死を決
心している時に援軍が到着し、全滅を免れるというストーリーであったように記
憶している。

 死を直前にした決死隊員の覚悟を決めた厳かまでの美しさと援軍の姿を見た時
の死を免れた喜びの爆発のシーンは今でも脳裏に残っている。一方援軍とのはさ
みうちにあった匪賊は死者を出すことなく早々に退散するのである。
  穿って考えれば、今井監督は、戦争の中で何の憎しみを持たない人間同士が戦
いあい死ぬことの理不尽さを訴えたかったともとれる。この映画の監督が、戦後
数々の反戦映画や社会派映画を製作した今井正であったことからも充分推察され
る。
 
  以上、紙幅の都合で、収録された11の論文のうち2編を紹介するにとどめた
が、最後の論文「昭和天皇の死」における昭和の総括まで、とばさないで全編を
読むべきである。そのことによって我々は著者の意図が、歴史の多面性を認識す
る立場で「歴史を研究しそれを活用しようという明快な姿勢」にあることを理解
出来るからである。
 
  前述したように、本書の日本語版の出版は2010年だが、原書はそれよりも17年
前に出版されている。それ以後、昭和の終わりとともに、世界も日本も大きく変
化している。バブル経済が破綻し、日本は「失われた二十年」とも「第二の敗戦
」とも呼ばれた低迷の時代を迎えた。政治的にも短期間ではあったが、細川政権
の樹立によって55年体制の崩壊をみることになった。

 一方、「アメリカとの関係によって規定されていた」「昭和」における日米関
係が、「平成」の今日でもあまり変化していないのは、沖縄における普天間の問
題をみても明白である。むしろ変化してきているのはアメリカの日本を見る目
で、「昭和」期にはアメリカにとって最大、最重要の同盟国であった日本は、中
国の台頭によってその位置を失いつつある。いまや、中国はアジアにおけるアメ
リカの最大の同盟国であり、日本がアメリカの「従属的独立」であったのに対し
中国は対アメリカに対して「優位的立場」に立とうとさえしているといえる。
 
  著者はこのような日本の「平成」を昭和との「連続性」と「複雑性」をキーワ
ードにどのように描くであろうか、是非期待したいものである。

 ここで書評とは直接関係ないが、日本における歴史学の「戦前」「戦中」「戦
後」の連続と断絶の論争について簡単に概観してみよう。
  1945年以降戦後間もなくは、第二次世界大戦の敗北を戦前と戦後の区分点にお
き、戦前の天皇制、軍国主義、ファッシズムと区別して、戦後GHQによる非軍事
化と民主化、平和と民主主義のもとに国民主権を明記した新憲法の制定によって
戦前との断絶を強調するのが通説であった。戦後歴史学は、アジア・太平洋戦争
への批判から出発して、平和と民主主義の歴史学としてこの通説の深化に務めて
きた。

 経済史においても、講座派の代表的論者である山田盛太郎は農地改革の歴史的
意義に注目し、戦前資本主義と戦後資本主義の構造的断絶を主張した。
  しかし、1970年以降は、断絶より連続を強調する学説が有力になってきた。労
農派を受け継ぐ大内力は、宇野弘蔵によって理論化された自由主義段階、帝国主
義段階、国家独占資本主義論を用いて戦前と戦後の連続論を展開した。彼は、農
地改革は戦前帝国主義段階の小農保護政策の連続であり、反動的であると論じた。

 1990年代に入ると、「戦前」と「戦後」ではなく「戦時」が間に入ることによ
って、問題は「戦前と戦後」から「戦時と戦後」にシフトを移すことになった。
代表的論者の山之内靖は,総力戦による戦時動員が「意図せざる結果」として、
近代化、現代化をもたらしたことを指摘した。また上野千鶴子は戦時期の戦争協
力と母性保護政策による「国民化」と、戦後女性の参加という「国民化」との共
通性を指摘した。このように、戦時期を対象として戦時と戦後の連続性が強く主
張された。
 
  現在は、戦前と戦後を硬直的に断絶として捉えることなく、またその批判とし
ての戦時と戦後の一面的な連続論に陥ることなく、政治的社会的経済的要素を連
続面、断絶面の両面から統一的に捉えることが求められている。

 最後に、日本人研究者による、戦後の歴史を戦中からの連続性との関連で分析
したいくつかの労作について紹介しておきたい。
 
  日本においても、歴史学や社会学の分野で、市民や民衆という立場からの戦後
史の研究が特に若い研究者によって進められている。代表的なものとして小熊英
二『民主と愛国 戦後日本のナショナリズム』、道場親信『戦争と平和 戦後と
いう経験』がある。両者とも1960年代生まれの「戦争を知らない」世代の気鋭の
研究者であり、豊富な資料を駆使しながら日本の戦後を考察した1000頁に近い大
書である。両書とも題名のつけ方が『昭和 戦争と平和の日本』と似通っており、
ジョン・ダワーの影響を受けたことも考えられる。また『民主と愛国』は『昭
和』と同じく大仏次郎賞を受賞している。

 小熊は、戦後民主主義が立脚したのは、ナショナリズムと愛国心であり、まさ
に「民主と愛国」が戦争体験に依拠していたことを指摘する。小熊によれば戦後
思想を戦争体験が思想化されたものだと捉え、戦後思想の最大の強みは、戦争体
験という「国民的」な体験に依拠しことであり、弱点は、言葉では語れない戦争
体験を基盤がとしていたがために戦争体験を持たない世代に共有され得る言葉を
創れなかったことにあるとしている。

 道場は、膨大な資料を駆使し、日米合作の占領が創り上げた東アジア冷戦体制
とナショナリズムを再検討し、反戦平和運動の思想と実践をもとに戦後平和運動
の抵抗史を描いている。
  是非一読されることをお薦めしたい。

           (評者は立教大学大学院博士課程在学)

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