【オルタの視点】 

「文革50周年」を経て
―50年後の報道比較と今後の研究の展望―

福岡 愛子


◆◆ 1.当時の日本における文革報道

 昨年は文革正式発動から50年ということで、少なからぬメディアが特集を組んだ。思えば、私が遅ればせながら中国の文化大革命に関心を抱き、社会学という領域で文革研究を始めたとき真っ先にとりかかったのは、当時の日本の新聞・雑誌が文革をどう報じたか、というメディア分析だった。特に、事態の展開につれて論調の違いが鮮明になっていった『朝日新聞』と『産経新聞』に注目しながら、日本の文革報道の特徴をまとめると、以下のような点が明らかになった。

(1)1966年5月1日に始まった「社会主義文化革命」報道

 まず、国運にかかわる「社会主義文化革命」として初めて日本の主要紙でとりあげられたのは、1966年5月1日のことだった。それは、これまでになく厳しい文芸批判や「整風」として、注目され報道された。『朝日』には特定の文脈のもとで肯定的・擁護的な見方がうかがわれ、『産経』の方は端的に粛清や権力闘争と見る傾向が強かったが、両紙ともにその全容をつかみかねていることにかわりはなかった。

 1966年8月8日「プロレタリア文化大革命に関する16項目の決定」、いわゆる「十六条」が正式に発表されると、それが文革理解の最大の拠り所となった。主要紙こぞって翌朝の朝刊トップに大見出しを掲げ、その詳細を伝えた。そして連日のように、大衆の総力を結集した「人間の魂にふれる革命」を熱く報じた。『産経』社説は「これで文化大革命を単なる権力闘争であるとの外国筋の見方は、多くの程度まで修正されるであろう」と期待した。紅衛兵の破壊行動が激化しても、『朝日』は「北京の花形・紅衛兵」の「こわいものなし」の実行力を「革命(的)」という語の多用によって積極的に紹介した。『産経』社説も「“ソ連修正主義”の途を歩まないようにするには、このように徹底するほかはないであろう」との理解を示した。
 ちなみに『読売』社説は「こんどの文化革命を単に“反党分子”の一掃をねらうものとか、臨戦体制下の思想運動と片づけてしまうのは、この運動の本質を見失うことになる」として、アメリカその他西欧からは「中国の新しい世代に期待しよう」という声があがっていること、「社会主義史上初めての試みであり、人間性に対する新しい挑戦」なのだということを主張した。その上で、いまだかつて実現されたことのない大衆のための社会主義とは、「ひとりひとりが一個の人間として尊重」されることだと論じ、中国の文化革命が本来豊かな中国人の個性を否定し、七億毛沢東化を目ざす以上、それは積極的な歴史的意義をもちえない」と断じていた。

(2)紅衛兵運動の激化と特派員追放をめぐる変化

 やがて紅衛兵が続々と貼り出す壁新聞によって、劉少奇国家主席への批判が明らかになり各地の抗争の激化が伝わると、文革関連記事はさらに増量した。実は文革に関する情報は、紅衛兵出現期以上に、武闘が頻発するようになった1967年1、2月に最も多くなり、惨劇や混乱を伝えるニュースも少なくなかった。『朝日』はそこに革命性を見てコミューンの理念と結びつけ、『産経』は権力闘争の熾烈さをかぎとった。この時期両紙は明らかに呼応し合うかのように、それぞれの特色を浮き彫りにする。

 中国の対外的緊張が増すなか、1967年9月に『産経』の北京支局長らが国外退去処分を受けた。他の報道機関も壁新聞取材から締め出されて情報源を失い、文革関連記事は減少の一途となった。『産経』の記者は帰国後、「武闘」の現実を直視して北京では書けなかった事実を記事にし、『朝日』は「大連合」や「革命委員会」を評価して文革の総仕上げとしての「九全大会」(第9回共産党全国代表大会)への期待を高めた。
 1968年11月に劉少奇除名が公表され、1969年4月ついに「九全大会」が実現すると、『朝日』は中国の大勢が熱狂的に支持する毛・林体制の確立を称え、他方『産経』は否定的要素を列挙して、文革は権力闘争以外の何ものでもなかったことをあらためて強調した。

(3)1969年4月「九全大会」による「締めくくり」

 両紙の対照性は、中国の呼称の違いにも表れていた。『朝日』や『読売』が文革当初から「中国」を使用していたのに対し、『産経』は1969年1月まで「中共」で通した。日本と国交のない中国を国とは認めず、中国共産党の略称を用いたのである。紙上座談会において参加者が「中国」と発言しても、記事中では「本社の用語統一で」「中共」を使用するとことわっていた。

 そうした違いにもかかわらず、日本の主要紙は一様に、「九全大会」をもって文革は収束したものとみなした。実は、「社会主義文化革命」についての報道が始まって3ヶ月以内で『朝日』にも『産経』にも、尋常ならざる事態の「一段落」や「峠越す」気配を見出そうとするかのような見出しが何度も現れた。ようやく実現した「九全大会」は、文革の「締めくくり」や「総決算」とみなされ、それ以降は「文革後」の中国が語られ始める。後に「歴史決議」という国家言説によって「十年の動乱」と規定される文革は、60年代末の日本で「三年余にわたって展開された」あるいは「四年越し」の革命として、いったん過去のものとされたのである。

 そこに、程度の差こそあれ日本の文革報道に共通する、隣国の一大事への関心の高さと憂慮の深さを感じ取ることができる。たとえば追放された『産経』の元北京特派員は帰国報告のなかで、日本側の中国に対する無知・無理解を痛感した思いを述べた。また『朝日』『産経』ともに、たとえば紅衛兵の言動について、安易に戦時中の日本を連想して反感を強める読者を想定し、それでは今の中国を正しく理解することはできないとして、文革のゆくえを見守る重要性が強調された。今ふりかえって、とりわけ際立つ時代性でもある。

◆◆ 2.2016年のメディア状況と文革研究

 日本における文革報道が1966年から始まったことを思えば、昨年メディアが文革50周年に注目したのも当然といえる。しかし50年前との大きなズレは、何をもって文革の始まりとするか、という点である。前述のように、当時の理解では8月8日に発表された「十六条」こそが、文革の何たるかを世に知らしめた綱領的文書であった。その夏の紅衛兵運動の盛り上がりによって、文革報道も高揚したのだ。

(1)5月に集中した文革特集と『産経新聞』の大型企画

 しかし50年後の2016年には、1966年5月16日に採択された中国共産党中央文書「五・一六通知」が、まぎれもない「文革綱領」とみなされた。その認識に基づき、文革関連の記事は5月9日夕刊の『読売』に始まり、『毎日』『日経』『産経』『朝日』『東京』いずれも5月に集中したのである。

 最も多くの紙面を割いたのは『産経』だった。5月15日に開始された「検証 文革半世紀」と題する連載は、6月、9月、10月、12月と続く5部構成、計28篇の大型特集となり、12月28日に1ページ全面を使った専門家座談会で締めくくられた。その一貫したテーマは「よみがえる文革」である。習近平体制のもと、個人崇拝や英雄賛美、芸術・文化への政治介入、敵対観念や排外主義の増長、メディア統制の強化など、現在の政治状況と“文革現象”との相似が「検証」される。反面、ネット社会となった今の中国では、指導者のかけ声に対する一般市民の反応は冷ややかで、党内外の抵抗勢力も健在であることなどが、時おり付け加えられる。

 ならば、文革時代のような強権政治を復活させることが習近平の意図だとして、今の民衆や知識人ひとりひとりに対するその効果のほどにこそ、文革時代との相違を検証する意味があるのではないか――そう期待して読み進めたが、求めたものは得られなかった。これほど力を入れた企画は、どのような読者を想定してなされたのだろう。特集記事の最後には、多元化社会となった中国は毛沢東時代に戻れるわけもなく、党の求心力が低下するなか習近平主導の立て直し策は党の崩壊をもたらしかねず、「むしろそれは歓迎すべきこと」という北京の改革派知識人の言葉が引用されていた。

(2)「五・一六通知=文革綱領」という定説化

 実のところ「五・一六通知」は、劉少奇が主宰する党中央政治局拡大会議で「中央委員会通知」として採択された文書であり、翌1967年に『紅旗』と『人民日報』に「偉大な歴史的文献」と題する共同社説が掲載されるまで、中国でも公開されてはいなかった。当然、1966年5月当時の日本では、いっさい報道されなかった。

 「五・一六通知」は第一に、前年11月に始まった呉晗批判について、彭真北京市長が学術討論に限定して議論するよう主張した「二月提綱」に対する痛烈な批判であり、一定の等級以上の党員しか知る由のない機密文書だった。第二に、それを採択した会議においては、多数が不本意に感じながら毛沢東の強権に押し切られ、党内民主の原則が崩壊したことによって生まれた産物だった。「五・一六通知」の言う「我々の身辺に眠っているフルシチョフ式の人物」が誰なのか、劉少奇自身はもとより、その起草に参与した張春橋や康生すらも知らなかったという。
 つまり「五・一六通知」は、明確な党内の合意による文革発動宣言などではなかった。むしろ毛沢東が、既に火ぶたを切った「この偉大な闘争の指導」について圧倒的多数の党委員会が理解や真剣さに欠けていることに苛立ち、「二月提綱」の誤りを討議するよう呼びかけた「檄」だったように思われる。「五・一六通知」を「文革綱領」とみるか否かは、文革の定義や時期区分と密接にかかわる重要な論点なのである。
 にもかかわらず、それは1981年の「歴史決議」によって毛沢東が発動した文革の「左傾の誤り」を示すものと名指されて「文革綱領」となった。『産経』は、今の中国で風化したのは文革ではなく、文革を否定した「歴史決議」の方ではないか、と鋭く指摘していた。だが日本のメディアや研究は、依然として「歴史決議」の認識枠組みに強く規定されているようだ。

(3)『毎日新聞』の提起したもの

 それにしても、5月に集中した各紙の記事のなかでは『毎日』の連載記事が際立っていた。北京特派員が、「学術権威打倒」や「反革命分子との闘い」に駆り立てられて教師たちを撲殺するに至った事件に迫ったのである。加害者となった元生徒への聞き取りに基づき、党幹部の子弟という、過剰に党と国家に同一化する閉鎖的なエリート集団の問題を浮き彫りにした。
 他に先がけて、「学術権威者のブルジョア反動的立場を徹底的に暴露」し「各界にまぎれこんだブルジョア階級の代表者を一掃」しなければならない、という「五・一六通知」の呼びかけに応えることができたのは、北京の名門校に通い政治意識の高い党幹部の子供たちだった。

 こうして5月末には、最初の紅衛兵組織が誕生した。その後、毛沢東の本当の標的は、劉少奇をはじめとする党の実権派、つまり彼・彼女らの親たちだったことが明らかになる。初期のエリート紅衛兵の活動はやがて弾圧の対象となり、同年12月には大量逮捕の末に終焉を迎える。一方、一般の生徒・学生も続々と独自のグループを結成し、毛沢東に支持されて全土に交流が広がる。そうした「造反派」紅衛兵こそが、それまでの政治運動とは異なる大衆路線の主役となったのであり、それが過激化したのは、やはり8月以降である。しかし私の知る限り今年の8月、各紙はそのことに沈黙を通し、連日リオ・オリンピックの「メダルラッシュ」の熱狂に覆われた。

(4)多様化する文革研究の現状と展望

 その後2016年の終盤になって、NHKが実にユニークな切り口の番組を放映した。「レッドチルドレン 中国・革命の後継者たち」(11月23日)と「文化大革命50周年 知られざる負の連鎖」(12月23日)である。いずれもBS1スペシャルとして制作されたドキュメンタリーで、前者は文革当時から中国に滞在していた外国人青年たちを、そして後者は現在アメリカ在住の紅衛兵世代中国人を、対象としている。敏感な問題をめぐる中国本土での取材が難しいための苦肉の対象設定だったかもしれないが、それぞれ欧米の先進的研究成果に基づいた構成と、当事者たちのインタビュー内容が秀逸だった。

 「知られざる負の連鎖」で紹介されたアンドリュー・ウォルダーは、20年もの歳月をかけて中国各地の県史を丹念に分析し、文革期の死亡者数をもとに文革被害の実態を明らかにした。それによると被害者は、紅衛兵の暴力や労働者の派閥抗争によるもの以上に、そのような混乱がおさまったかに思われがちな、革命委員会成立に向かう時期に急増していた。文革の混乱は人民解放軍の出動によっておさまったという神話を突き崩し、そのような鎮圧行為こそが内戦状態を招いたのだということを示唆したのである。
 そのことをウォルダーは、昨年11月6日に学習院女子大学で開かれた国際シンポジウムで既に報告していた。他にも、特定の地域や少数民族居住区で行われた残虐行為や、国家モデルではなく地方の宗族関係や民兵組織の実態に注目して対立の構図を明らかにする研究が進んでいる。昨年1年を通してドイツ・アメリカなどの他、日本でも内外の文革研究者が集い、また『思想』から『アジア遊学』まで様々な雑誌の文革特集号で、多様な論文が発表された。

 しかし日本の主要紙は、中国での文革論議や研究が抑圧されていることは強調しても、日本をはじめとする最新の研究動向については、ほとんど関心を示さなかった。文革から50年後、文革はもとより中国に関する話題が、文化や歴史も含めた豊かな論議の的になることがなくなった、いわば日本の「論壇」の消滅ともいうべき事態が、強く印象づけられた。

 かつて日本の新聞・雑誌は、中国研究者だけでなく幅広い人々の中国観や訪中記などをまじえた文革論を掲載し続けた。それらは単に「文革礼賛論」や「権力闘争説」として切り捨てることのできない貴重な観点を含んでいた。今後の方向性としては、とりとめのない文革論を脱して、より客観的な文革研究を進める必要があることはいうまでもない。
 しかしながら、「歴史決議」の呪縛に無自覚なまま、資料の共有性や反証可能性の問題をぬきにして特定の発見を性急な結論に結び付けることは避けなければならない。広い意味で、絶対的な二極化に走り敵を暴き出すような政治文化と訣別するためにも、日本の文革研究の限界自体が、日・中の歴史を反映した独自性として理解され得るような、懐の深い研究を目指したいと思う。

 (社会学者・翻訳家・オルタ編集委員)


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