■書評

伊藤茂『私たちの生きた日本―その小さな「歯車」の記録』

(明石書店、2004年10月刊、定価2000円+税)

                       岡田一郎

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 著者の伊藤茂氏については、いまさら私が紹介するまでもなく政

界再編期の社会党幹部の一人であり、細川護熙内閣では運輸相として入閣し、民主党結成後、小政党に転落した社会民主党を幹事長として支えたのでマスコミに登場する機会も多く、社民党関係の政治家のなかでは知名度も高い。また、伊藤氏は夫人に対する献身的な介護でも知られている。

だが、伊藤氏自身の人生の歩み、とくにどのような経緯で社会党の政治家となっていったのか、ということはこれまであまり知られていなかった。伊藤氏自身は、政界再編や介護に関しては本を残されているが、自分の歩みについては断片的にしか語ることがなかったように思われる。少なくとも、私はこの本で、初めて、生い立ちから今日に至る伊藤氏の人生を知ることが出来た。

 伊藤氏の人生については本書を読んでいただいたほうがより良く

理解出来ると思うので、ここでは私が特に印象に残った点を取り上げる。それは、社会党の政権構想についてである。 よく「社会党は万年野党の地位に安住して、政権構想を持たなかった」と言われるが、実は社会党の中には早くから「政権」を見据えていた人々がいたことを本書は紹介している。

 その一人が1960年安保闘争のときに国民会議事務局長をつとめた水口宏三氏である。水口氏は安保闘争直後に社会党が共産党との関係を考慮して、政権構想を出せなかったことを後悔し、その後もあるべき革新勢力の姿を模索し続けた。

 また、大内兵衛氏は政党ではなく、自発的な市民中心の選挙となった1967年の東京都知事選の後に、伊藤氏に対して「伊藤君、ここで君が経験したことを社会党と政治に生かしなさい」と言ったと書いてあるが、日本の中枢の地方政権を奪取した経験を生かし、市民層との連帯による政権奪取をも大内氏が視野にいれていたであろうことをうかがわせる。また、土井ブームで社会党が躍進したときには、伊藤氏自身が他の野党との協調路線を模索したことが述べられている。さらに、政権を夢見た和田博雄氏の逸話も紹介されている。これらはどれも我々の知らない水面下で「政権」を模索する動きがあったことを教えてくれるもので、非常に興味深い。

では、なぜ社会党はとうとう自主的に政権を奪取することが出来ず、1993年の自民党下野以降、保守陣営に翻弄されて、衰退していったのだろうか。一つには、「政権」を模索していた人々がすべて周辺の人々であり、党中枢は政権構想を持っていなかったのではないかと思われることである。水口氏にしても大内氏にしても、社会党の応援者の側面が強く(水口氏は国会議員になったが)、党を動かす立場にない。伊藤氏は土井ブームのころは政策審議会長の立場にあったが、土井委員長は他の野党との協調よりも社会党の一人勝ちを優先させる戦術をとり、結果として、後に自公民が結束するきっかけをつくった。

和田氏は左派社会党で書記長となったが、再統一後は政策審議会長

・国際局長・副委員長を歴任し、社会党の方向性を決める委員長や書記長に就任することはなかった。

また、本書の中で何度か、「社会党の教科書には『社会党が選挙

で勝利し、他の野党も議席を伸ばし、場合によっては自民党の良識派も含めて政権交代』という政権戦略が書かれて」おり、1993年の政権交代は教科書の想定とは異なった状況であり混乱したことが書かれているが、もしこれが本当ならば、「社会党の教科書」自体に大きな問題があったと言わざるを得ない。

 日本のように、与党・自民党の力が強大すぎる場合、自民党の分裂を野党側から仕掛けるという手段も頭に入れておくべきだったのではないだろうか。現に、1960年安保闘争のときには、政治学者の丸山真男が三木派切り崩しのために動いているし1974年の田中角栄首相辞任の際には、民社党が三木派を離党させ、野党が担ぐ構想を画策している。また、1979年には首班指名選挙で、自民党が候補を1本化できず、大平正芳と福田赳夫が決選投票に残るという事態が発生しているが、このときに社会党がどちらかにつけば、自民党は分裂し、政権は交代したのである。このような前例を社会党はなぜ生かすことができな

かったのか、今後、伊藤氏などによって検証されるべきであろう。