「安保法制」危うい日本の進路

羽原 清雅


 「安保法制」は、まさに予想通り「強行採決」によって衆院の委員会、本会議を通過した。あとは、9月27日までに延長された国会会期のなかで、参院での審議があり、その審議が60日間で決着しない場合、法案は自然成立する。永田町の論理に従えば、ハプニングがない限り、この段取りで進むだろう。

 安倍首相自身が「国民の理解が進んでいる状況ではない」ことを認めながら、「審議時間を十分かけた」として採決した。研究者たちの「違憲論」、各メディアの「反対の多数世論」、長く内閣法制局長を務めた歴代のOBが「違憲」判断、そして多数の「わからない」国民など、どこ吹く風。ただただ中途半端で迷走する抽象的な答弁で逃げまくる権力者たち。

 委員会採決の7月15日の事態を、「多数の民主党議員らが採決時に委員長席に詰め寄って怒号を上げ、与党の『強行採決』を“演出”した」として、『強行』を認めず、『与党単独で可決』と見出しをうたった読売新聞、委員会の大詰めの状況を「各党が議場にそろわないので」中継をせず、翌日「本会議を中継した」ことがわざわざ社会面のニュースとして報道されたNHKなど、これまでにない奇妙な姿勢をとったメディアにも驚く。「屈辱」を感じる記者らはいないのだろうか。
 政策などの判断については、価値観や見解の違いがあり、報道上のメディアの対立は当然ありうる。だが、「事実」「現象」はきちんとゆがめずに伝えるべきだし、波乱含みの事態を中継することこそ、公的メディアの責務だろう。

 こうして戦前も、政府と軍部の権力による「天皇」の名義と「腕力」のもと、これにおもねる報道が世論をミスリードして、先行きの日本を一歩ずつ惨劇に導いた状況を思い出させて、いままさにその再現の過程にあるような印象だった。
 首相のいうように、この安保法制で日米同盟を強め、軍事的に「普通の国」化することで、われわれの平和と安全が守れるのか。

 「即戦争」「徴兵制への布石」への法制とまでは思わないが、戦後70年にして日本対外政策の大きな転換点になる。他国の紛争、戦争に関与せず、軍事によらない「平和」の構築、軍事の前の平和外交を目指して、新たな国際的な試みをうたうこれまでの憲法理念から、軍事を優先する「普通の国」としての「積極的平和主義」路線にすり変えようという方向の選択である。
 この大きな選択肢は、かつての内外における戦争の加害と被害を知る層を軸に反発を生み、新たな日本的和平主義を定着させたい思考と、一方で敗戦後に持ち込まれた欧米型民主主義とそのありように疑問を持ち、戦前型の一部の社会形態を取り戻しつつ、可能なら同盟を維持しながらも、いずれは独自の軍事体制を確立したい発想との対決だろう。しかも、「違憲」疑惑の強まる中で、である。

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<政治状況>
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●国会と首相在任

 1960年の改定安保条約が衆院で強行採決され、ハガチー事件、樺美智子さんの犠牲、アイゼンハワー大統領の訪日中止といった事態のあと、30日後の6月19日に自然承認された苦い思い出がよぎる。安倍首相の祖父岸信介首相の時で、安倍首相はここでも同じ道をたどりたいのか、などと思う。岸首相は、神宮球場のスタンドを埋める観客を取り上げて、安保改定反対は一部の声にすぎない、と言いたいような発言をしたが、その点でも首相にそうした偏狭な認識が読み取れる。

 しかも、安倍首相はことし9月にかなりの確度で総裁に再選される。明年7月には参院選。これには、当然のことながら戦争の実感乏しく、歴史学習が十分とは言えない18歳からの若者も投票に加わる。自公の与党が3分の2の議席を取れば、改憲の発議ができて国民投票となる。自民党総裁再選の首相の任期は2018年9月までとなるので、党内の安倍支持グループの間には党則を改正して3期9年を認めようとの主張も出ており、そうなると東京オリンピックを経て2021年までの長期政権にもなりかねない。いわば戦後憲法は、新たな「国家」重視の「積極的平和主義」憲法にかわり、日本のありようも大きく様変わりすることになるだろう。

●強気の背景

 安倍首相の強気の背景は、「議席数」「党内一枚岩」「一部官僚・学者らの阿世ぶり」、それにメディアの二極化と一部テレビのもろさがある。そこにまず、「まっとう」ではない疑惑があり、「安保法制」の可否以前の問題がある。
 まず自民・公明与党の議席数は、政党得票率4割台で7割以上の議席を確保するという矛盾のもとにある。有権者のやっと半分の投票という投票率低下の責任は国民自体が負うとしても、簡単に「民意の支持のもとに」などと言ってほしくない。

 また、自民党内には反論がないどころか、多様な意見の交換もない不可解な「一枚岩」ぶりに陥っている事態は、小選挙区制度によって政党幹部が強い統制力を持ち、しかも党内言論の抑止の空気を高めていることに起因する。テレビ出演、街頭宣伝でさえ抑えられた。小選挙区制は各党とも一区1人の擁立なので、政党の幹部は候補者の人選に強い発言力を握り、にらまれたくない候補者や議員のあいだに「物言えば唇寒し」の状況をつくりだしているのだ。
 また、この選挙制度は「一票の格差」を生んで、「憲法違反」や「違憲状態」との最高裁の判断が示されており、その選挙による当選議員が、多くの反対意見の出ている安保法制を決めようとしている。あえていえば、国民の間接的代表としての資格自体に不信を持たれている議員が決めるのだ。

 そして、自民、公明党の推す憲法学者が国会で、この法制について「違憲」をいうほどであり、多くの憲法学者たちが「違憲法制」との声明を出している。なかには信念の支持派や、曲学阿世の人物もいて、政府与党の活用の対象にもなっている。

 首相にとって思うに任せないのはマスコミ対応だ。しかし、かつての60年安保などの状況と異なり、政権を支持するメディアも大きく台頭して、各紙の世論調査に示された、多数を占める反対意見を押しのけたい政府与党側に言いわけの足場を提供している。それにしても、テレビ等のもろさ、つまり報道の使命よりも、権力の圧迫や誘いに屈しやすい体質がほの見えることは残念だ。
 安倍首相はこのような弱みのある土台ながら、強気に臨んでいる。

●政府答弁の不透明

 安保法制の国会審議での首相答弁は「基本的に」「一般的に」「総合的に判断して」「例外として」などの逃げ道が多く、具体性を持たせないところに将来の軍事的行動の拡大化の懸念を生んでいる。また、「安全」「平和」「言論の自由」、具体性を伴わない「政治家としての使命」などの建前を「言葉」としては多弁するが、実体を感じさせないところに、新たな不安を招いている。ちょうど、共産党などの「戦争法案」といった指摘を「レッテル貼り」と反発しながら、自らは法案の名称に「平和安全法制整備法案」などのレッテルを貼ったことが、逆に実体隠しの印象を与えている。

 これだけの重要な方向転換を盛り込む11本の法案を1本の改正案として国会に提出したことが、論点をつかみにくく、論議をかみ合わなくさせている。「論議回避」の措置、との批判を招くゆえんだ。
 外相、防衛相、内閣法制局長官などの答弁も、ムリとブレを感じさせ、なんどもの答弁の修正、逃げの答弁も疑問を高める。たとえば、法制局長官は法律の厳密性を避けて、毒キノコは煮ても焼いても食えないが、ふぐは肝を外せば大丈夫、などの譬えを出すのだが、地球上どこにでも行ける集団的自衛権について言っているとすれば、毒は毒だという解釈につながるし、かえって誤解を深めよう。機雷の除去は個別自衛権で可能、と答えているが、首相の挙げた事例は集団的自衛権発動のケースであり、明らかに矛盾する。安倍首相もネットで、アソウ君を引き合いにケンカの例で集団安保の必要を説明するが、ケンカにならない努力がない。つまらない例え話である。
 もともと集団的自衛権を正当とする論拠に「砂川判決」をあげるが、そこには論拠とされるような文言はなく、正当を裏付けたい土台自体に「違憲」のムリがある。

●執念と計画性

 安倍首相は祖父の岸信介首相と同じように、かねて改憲と日米軍事協力の強化を胸に抱いていたことはよく知られている。
 第1次政権の2008年、「私的」諮問機関の安保法制協議会を設置して検討に入り、政権挫折後に「憲法解釈の見直し必要」の報告が示された。その後の政権下では動きはなかったが、安倍政権が再登場すると2013年2月、同じ13人のメンバーが再招集され、翌年5月に集団的自衛権行使容認の報告書をまとめ、7月に憲法解釈見直しで対応することを閣議決定している。
 この安倍機関の顔ぶれは、もともと集団的自衛権行使を進める柳井俊二、北岡伸一氏らがほとんどで、8人の学者中憲法専攻はただ一人。つまり、時間をかけて「論議」のかたちを付けるが、結論ははじめから出ている権威づけだけのための手続き機関だった。
 つまり、議席の多数を占めれば、なんでもできる。その理屈付けとして、「私的」に「仲間」グループに人を求め、形式を整え、もっともらしい論理を展開すれば、それでいい、との考えなのだろう。

●解釈改憲の逃げ道

 ここで、歴代政権の立場である「専守防衛」「集団的自衛権は憲法9条との関連で自衛権の範囲を超え、解釈改憲では行使不能」「集団的自衛権の国際法上の権利はあるが、行使はできない」という方針はコロリと変わる。権力者はその意向次第で相当なことができることを示したことになる。
 さらにその後、「米国の艦船が公海上攻撃されても、同盟国日本がだまってみているだけでいいのか」「ホルムズ海峡の機雷を除去しないと、石油依存の日本の経済は壊滅的打撃を受ける。それでもいいのか」「後方支援は安全の確保のもとで行うが、弾丸の補給もありうる」などの事例を挙げて、いかにも緊迫した事態が接近しているかのような想定で押しまくる。

 その論理づけには、解釈改憲に組しない内閣法制局長を差し換えて、解釈改憲・集団的自衛権容認の立場をとる外交官出身の小松一郎氏(故人)を据え、そのあとも安倍政権の方針を三百代言的に言いくるめることができそうな横畑裕介氏を引き上げる。
 安倍的構想では(1)当初、憲法96条で改憲発議は国会議員の3分の2、国民投票過半数、という高いハードルを下げようとして行き詰まった。(2)次に、安保法制懇談会による解釈改憲の道を開く策で、この方向に進む。ついで、(3)国会答弁を超えるためには内閣法制局長官の人選が必要となり、小松→横畑起用となる。
 推進役には官僚の才覚と経験も必要で、柳井、小松のほかに、谷内正太郎国家安全保障局長、兼原伸克官房副長官補といった外務官僚を配置した。
 ここで言いたいのは、権力を握れば、計画的、術策的にその方向に動かしうるし、形式を整えれば国会議席の圧倒的多「数」と「党内」の批判分子を抑えさえすれば、あとは弱体野党をいなし、メディアをおもねらせ、抑圧すればなんとかなる、というところまで来たということである。

●阻止しうるもの

 国会論議の経緯からすると、この法制案は自公優位に成立しそうに見える。政治環境がことごとく安倍体制を有利にしているからだ。民意の動向、反対行動、研究者などの論理や言動とはまったく別に、である。
 しかも、与党として足を突っ込んだ公明党は昨今の動きからして「慎重審議」を求めたりはできないし、もはやブレーキたりえず、一蓮托生の立場だろう。ここにも「一枚岩政党」の怖さがある。「安保法制」というよりも「安倍法制」に手を貸す責任は今後も問われるだろう。
 ただ、あえて言うと、安倍首相自身の野次攻勢、自民党内などのメディア制圧発言、国会答弁者の失言などハプニング的な事態が、疑問、疑惑をかきたて、反対の世論が一層高まることはありうる。ただし、野党にそれだけの蓄積をした論客がいれば、ということだが。
 逆に、あってはならない岸首相に対するようなテロ的行為が勃発すれば、かえって推進環境を強めることも考えられる。

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<疑惑と軍事対応>
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●外交努力の不足

 安倍的手法への大きな疑問のひとつは、基本的に外交努力をせず、軍事強化に走っていることだ。あとでも触れるが、自ら「植民地化」「侵略」「おわび」を認めることを避けたがり、「東京裁判見直し」「靖国の維持存続」「慰安婦や南京虐殺は誤報によるもの」などにこだわって、歴史の修正を狙い、さらに概して平和的に過ごした戦後70年の根底にあった憲法を否定して、強引にカーブを切って「戦後レジームからの脱却」を推し進めている。

 安倍的手法は、尖閣問題を機に対中国と、そして慰安婦問題で対韓国と、拉致問題で対北朝鮮と、かつての侵略・対戦国との関係を悪化させ、北朝鮮はもとより嫌中、嫌韓の風潮を助長、さらにはヘイトスピーチ排除に十分な対応をせず、歴史に実感の乏しい若い層に対して友好親善を積んできた戦後の苦労を知らせることなく、敵対感を醸成する。戦前の戦意高揚に、中国、朝鮮などを軽侮する風潮を広げ、その一方で軍事攻勢の世論をかきたてた歴史を彷彿とさせる。
 「歴史の前提」を踏まえず、謝罪の思いを示さないので、近隣諸国との首脳間の対話もできない。むしろ長きにわたって対話できないことで、「緊張」「危機感」をあおる。中国人の「爆買い」は歓迎するにしても、親しみを持とうとする空気が育たない。サッカーなどのスポーツで、興奮の果てに「反日」行動が出てくる中韓庶民と同じようなレベルを、日本にも拡散しかねない世情が続く。

 ひとことでいうなら、国際的緊張を強調し、近隣諸国への嫌悪感を醸成することで、軍事強化の口実を設ける姿勢だ、といえよう。
 相手の立場、相手の思い、記憶に残る歴史的怒り・・・といったことへの国民的な配慮がなくなると、相手の国民も同じような気分になる。それどころか、自分たちは被害者だという思いが募れば、反日機運が一層盛り上がる。現在とか未来の平和的構築を叫ぶ安倍首相だが、前提が次第に崩れようとしている。
 その点を逆手にとって、「緊張」激化を前提にした日本防衛体制の強化、さらには地球規模での軍事体制整備をいう。平和とはそのような「積極的平和主義」をいうのではなく、外交ルートを確保し、衝突する懸案を常に話し合える状況を持続させ、民間でも多方面の交流交換が展開されて、相互の理解を継続的にしていくことだろう。
 外交を裏打ちするものが軍事力だとしても、自ら関係悪化をたくらみ、相手側への国民感情をいらだたせ、そこに違憲を言われる安保法制を導入し、軍事力の増強を進める姿勢は納得しがたい。しかも、相手国をも対日感情にかつての怨念に結びつけ、軍事的応戦の身構えに走らせる愚にもつながりかねない。
 外務省は外交の力量不足とともに、軍事以上に重い「外交」の任務の認識が失せてしまったのか。 

●「国際環境悪化」なのか

 安倍首相は安保法制の必要を、「国際情勢の緊迫化」のため、とする。具体的には、北朝鮮の政治体制とミサイルの存在、中国の年間17兆円にのぼる国防予算の増強ぶりや、南シナ海をめぐる武力的進出、さらに尖閣諸島への不穏な動きをあげ、とくにスクランブル頻度の増加や中国公船の領海侵犯など、さらにはホルムズ海峡の機雷除去の必要までを主張する。
 だが、そうした事態に至る以前の外交努力の態勢が崩れている。むしろ、崩してしまった、とも思えることは先に触れたとおりだ。尖閣列島などは明らかに日本の領土だが、その対立の扱いを協議する場さえない。石油立国のイランはホルムズ海峡に機雷を設置したことはなく、自国の衰退を招くような措置を取ることも考えにくい。それでも、緊迫対応の材料に含める。日本人を乗せた米国艦船への攻撃に対抗措置としての参戦も、具体性に欠ける。兵站となる後方支援への参加は、敵対国の攻撃対象になりやすく、まして食糧、医薬品、燃料などのほかに、兵士の輸送や、殺戮材料である弾薬の補給までする以上、相当の戦闘の覚悟がいる。

 たしかに、国際情勢は決して楽観視できる状況にはない。島国の日本が、米国の庇護を取り付けるための同盟を組んだとしても、「対等」などはあり得ない。安倍政権は「強者同盟」に組することのメリットを選んでいるが、同盟国としての軍事的ノルマをこなすことが「アジア」「島国」などの地政学的条件下にある日本にとって、望ましいことなのかどうか。日本の過去の戦争歴、戦後築いてきた平和的支援と外交努力、そして日本の将来の展開地域など、個性ある独自の道を考慮に入れるべきではないか。

 米国議会での安倍首相への拍手は米側にとっての有利を喜ぶもので、安倍演説モードに対してではない。米国は、世界各地での派兵などが重荷になっており、撤退したい思いがある。そのためには、この肩代わりが必要だ。さいわい、安倍首相がにじり寄ってきた。いわば、その「独断と偏見」を歓迎することへの拍手だろう。日本には「日米対等の同盟」などの美名のもとに、これまでの姿勢を大きく変えることにメリットはありえない。まして、属国でもない限り、法案の成立を他国で公約すべきではない。
 外交的努力を果たすことなく、このようなリスクをおかす軍事体制の設定や米国の愛玩を求めてまで、安倍的な「平和と安全の確保」が必要なのか。その政治的選択の正しさが問われよう。

●わからない「事態」

 国会論戦は時折、わからない軍事論議に入り込んでいる。原理原則がおかしい安保法制ながら、少数野党の手立てとしては軍事対応に踏み込んだ議論も必要ではあるだろう。しかし、この論議に落ち込むと、公明党の与党協議、維新の会の修正協議に見られるように、結果的には「言葉」の遊戯に引き込まれ、多数の反対論に背を向け、思わぬ惨劇結果を生む方向に進むことになりかねない。
 公明党は安保法制化の波に飲み込まれた結果、「報道の自由」がないがしろにされる事態になっても怒りを見せず、強行採決や報道抑圧の動きなどについても政府自民党に苦言も申せず、国民から乖離していった。中長期の眼を持たない勢力の台頭の怖さは、すでに戦前の軍国化のプロセスで学んだはずだが、公明党などはその恐怖感をも忘れ去った感がある。

 とにかく、わからないことが多いが、その一例を見ておきたい。この説明に実感を持って理解できる国民はどれだけいるだろうか。
 一例というのは、日本の危険度を仕分けしたものだが、(1)武力攻撃発生事態(2)武力攻撃切迫事態(3)武力攻撃予測事態(4)存立危機事態(5)重要影響事態(6)国際平和共同対応事態、というそれぞれの事態設定である。
 こんな仕分けや分析をしているうちに、いったんこれらの事態に踏み込めば、戦火は広がり、戦闘状態はどんどん激化するのではないか。戦闘に加われば、安易な首相答弁のようにはいかず、引き揚げることなどまずできない。また戦闘下では、相手の出方は読めず、枯れ尾花にも恐怖をそそられ、武力行使が思いがけなくも拡大するのが「戦争」というものだ。国会論議と戦闘参加の実態とは、大きな乖離がある。

 そして、このような議論により、わからないことがまかり通り、それに引き込まれ、結局は追従しなければならなくなる。だがその責任は「民主的に国民が選んだ民主主義の国会」の決定であるから、国民が負うのだ、ということになる。将来の禍根を負う後世代の人々は、現世代のもたらす事態をどのように受け止めるのだろうか。

●根幹は現行憲法

 安倍首相は、戦後70年の平和的状態は安保体制があったから維持された、との立場をとる。では、現行憲法の平和理念に基づく外交や経済的支援、民間等の友好親善の努力、諸外国が次第に強めた日本の平和路線の姿勢に対する理解などは二の次であった、というのか。
 安倍首相の狙うところは、対米依存から対等の同盟化、さらには独自の日本の軍事的自立、ひいては核兵器の保有による軍事大国化までをも念頭に置いているのではないか。そんな疑心暗鬼まで脳裏を走る安倍首相の安保法制化に潜む狙いである。
 また、戦争を体験した世代の思いや経験が消えていくことへの姿勢が安倍首相にはない。
 戦争に至る道、戦争のもたらすひずみ、そして兵士のみならず殺戮対象となる一般の人々の環境、国家のための死、家族の崩壊など、そうした思いがない。つまり「歴史」の教訓を庶民の立場から見詰める姿勢に欠けるから、自国民の戦争への恐れ、近隣諸外国の被害国民の非難や怨念が、消えることのない思いであることすらわかっていない。近い将来、自衛隊が海外に出動し、手痛いダメージを受けた場合、どうするのか。「靖国」に祀れば済む、とでもいうのだろうか。

 そうしたつらい経験から生まれたのが現行憲法である。民主主義の精神は外国からの「押し付け」ではなく、自由国家がマグナカルタ以来800年にわたって築いてきた民主主義への目覚めがかなり遅くになって日本に届き、「国家よりも個人」の思考が普及することになったものだ。この憲法は米国に押し付けられた、という自民党的説明は、ひょっとすると民主主義を否定し、個人の尊厳や人権の重みよりも国家への忠誠、天皇政治への復帰、平和路線の追求よりも軍事力による発言の強化を取りもどしたい、とでも言おうとしているのだろうか。

 時代とともに、過去の過ちの反省が薄らぐことは否定できない。国際環境の状況の変化もある。だが、人間尊重の原則は変えられない。戦争よりは平和がいい。この点は安倍首相も同じだろう。ただ、平和を、軍事によって維持発展させることは難しい。平和の構築をどのように考えるか。そこに、人間一人ひとりの尊重を選ぶか、国家による束ねを求めるか、という大きな選択肢に分かれる。その判断の基本は、一人ひとりの人間を尊重するかどうか、という原則である。

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 おわりに
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 こんどのような事態は、今後の憲法改正の動きにも表れよう。
 政治決定の最終責任が国民・有権者にある、とすれば、衆院選で自公与党に多数の議席を与えたため、ということになるだろう。民主党政権のだらしなさにうんざりした結果が、自民党の多数化を許したということなら、来年の参院選でこの与党の「3分の2」獲得を認めないよう、阻止票を投じるしかない。衆参両院の与党の「3分の2」議席確保となれば、今回と同様に強引な改憲の推進が予想されるからだ。
 有権者の「愚か」な選択が、改憲を許して将来の日本の針路を誤まらせる結果を招くのなら、後世の若者たちはその「愚か」に泣かされることになるだろう。

 異質集合のために衆愚的な「決めきれない政治」から一転、専横的に「決めすぎる政治」に転換、という事態を見ていると、「まっとうに決める政治」が育たないのは、やはりまだ民主主義が定着していないのだ、と改めて思う。
 衆参両院それぞれの第一党が異なり、あるいは与野党伯仲の時代に、修正、妥協、再検討などの手法を育てられなかったことも、政治の成熟に至らなかった一因だろう。
 それにしても、民意と異なる歪みが、これからの社会を拘束していくことは許しがたい。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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